せっきょう‐ぶし〔セツキヤウ‐〕【説経節】
説経節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 06:08 UTC 版)
説経節(せっきょうぶし)は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸[1]。仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である[2]。近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった[1][2][3]。
注釈
- ^ 唱門師(声聞師)は、陰陽師を源流として当初は庶民向けに読経や卜占をおこなっていたが、曲舞や猿楽などもおこなうようになった。「しょうもじ」「しょうもんじ」「しょもじ」と読み、「唱聞師」「聖問師」「唱文師」「誦文師」とも表記する。散所(寺社の附属地でその雑役にあてられた)に集住したところから「散所非人」ないし単に「散所」と称されることもあった。塩見(2012)pp.87-93
- ^ 『元亨釈書』では、唱導の名手といわれた慶意には「先泣の誉」があったことを伝えているが、このことは、唱導の名手は聴衆を泣かせる前にまず自ら泣いたことを意味している。五来(1988)pp.484-485
- ^ 当初、僧侶が経典を講読する説法であった説経(説教)も、平安時代なかばには、清少納言が『枕草子』で「説教の講師は顔よき」と述べたように、美的雰囲気をともなうものでなければ聴衆の関心をひくことができないものとなっており、さらに、『今昔物語集』に収載された天台座主教円にかかわる説話からは、従来の教典講説から機知やユーモアに富んだ通俗的な講説に変質してきた事実がうかがえる。さらにまた、院政期に唱導の名手として活躍した澄憲は、学識深く能弁で、しかも清朗な美声のもち主であったため、多くの人びとを惹きつけ、多数の聴衆の感涙をさそったといわれている。澄憲の子の聖覚もまた弁才にすぐれ、浄土門に帰依するいっぽうで安居院流を創始した。やがて、説経は哀讃を中心にすえるようになり、身振りや音韻的要素を加えて、芸能に近いものとなり、大衆とのかかわりを深めていったのである。岩崎(1973)pp.21-25
- ^ 岩崎武夫は、平安時代初期の弘仁年間(810年-824年)に景戒が撰した『日本霊異記』を最古の唱導(説経)文学として掲げている。岩崎(1973)p.28
- ^ 唱導文学は、中世においてさまざまな説話文学と語りもの芸能を生み出した。『平家物語』成立の重要な要素として唱導があったことについては複数の学者によって指摘されており、浄瑠璃や幸若舞も、その源流は唱導文学にさかのぼる。荒木(1973)p.316
- ^ 室木弥太郎は、現行の『自然居士』は世阿弥の改作であろうと推定している。謡曲『自然居士』は実在の自然居士をモデルにし、それを美化した作品である。室木(1977)p.406
- ^ 天保15年(1844年)成立の『尾張志』には、尾張国に自然居士の弟子東岸居士を祭るものがあり、それはささらをする戸籍外の遊民であるとの記録がある。室木(1977)p.406
- ^ 蝉丸は、百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」で知られており、詳細は不明ながら、醍醐天皇第4皇子で琵琶の名手だったが、盲目のため逢坂山に捨てられたという伝説をもつ。室木(1977)p.405
- ^ 蝉丸法師の実体は廻国性をもつ聖であったと考えられるが、『御巻物抄』によれば、蝉丸は妙音菩薩の化身で、衆生済度を願い、逢坂山を通る旅人に乞食をするが、それは利益方便のためであって心中少しも卑劣に思うところはないと記している。室木(1977)p.405
- ^ 喜多村信節『筠庭雑考(いんていざっこう)』にも、慶長年間の絵としてささら説経のようすが描かれている。岩崎(1973)pp.8
- ^ 説経が語られた大寺院としては、他に、大坂の四天王寺、京都の清水寺、江戸の増上寺などが考えられる。荒木(1973)p.309・室木(1977)p.405
- ^ 上方では山本土佐掾、岡本文弥、宇治加賀掾らが、江戸では杉山丹後掾、江戸肥前掾、江戸半太夫らが浄瑠璃語りの太夫として活躍していた。岩崎(1973)p.16
- ^ 歌舞伎踊りの創始者といわれる出雲阿国も佐渡国を訪れたと伝えられている。室木(1977)p.412
- ^ 江戸孫四郎が堺町、結城孫四郎が葺屋町(ともに現在の千代田区日本橋人形町の一画)で説経操りを興行していたと記録されている。岩崎(1973)p.14
- ^ 荒木繁は、横山重の先行研究なども参照して、赤木文庫蔵絵入写本『せつきやうかるかや』(仮題)、御物絵巻『をくり』について、「古説経」に準ずるものとしている。荒木(1973)p.312
- ^ 荒木繁は、郡司がこのように説明する根拠について調べたが、その出典は結局わからなかったと述べている。荒木(1973)p.317
- ^ 儒者(古学の徒)である春台は、説経節の曲節がゆるやかで、華やかさのないところを、善悪因果を語るところとあわせ、かなり好意的に評価している。岩崎(1973)pp.17-21
- ^ 『言継卿記』の記述からだけでは、天正20年段階で、浄瑠璃の伴奏に三味線が使われたかどうかは不明である。室木(1977)p.401
- ^ その場合、舞のある語りは無論のこと、舞のない語りも「舞」と称した。室木(1977)p.403
- ^ 鷗外『山椒大夫』が発表されてすぐ、柳田国男はすぐに自らの主宰する『郷土研究』で取り上げている。柳田はこのなかで「さんしょう」は本来「散所」ではないかとして「山荘太夫」と表記している。塩見(2012)p.87
- ^ 折口信夫は、高安長者伝説の「最原始的な物語」の再現をめざして小説化をはかった。折口は、『身毒丸』「附言」において「わたしは、正直、謡曲の流よりも、説教の流の方が、たとひ方便や作為が沢山に含まれてゐても信じたいと思ふ要素を失はないでゐる」と記している。折口信夫『身毒丸』
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 『世界大百科事典』(1988)pp.576-577, 岩崎・山本「説経節」
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- ^ 佐渡市. “佐渡市の文化財「佐渡の人形芝居」”. 2014年2月19日閲覧。
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- ^ “八王子車人形西川古柳座”. 2014年2月19日閲覧。
- ^ 説経節政大夫 大正大学、2015
- ^ 2010年度の総会報見世物学会、2010
説経節
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詳細は「説経節」を参照 説経節(せっきょうぶし)は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能で、仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である。 イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが編んだ辞書『日本大文典』(1604年-1608年)に「七乞食」(日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類)のひとつとしてSasara xecquió (「ささら説経」)を挙げ、それを「喜捨を乞ふために感動させる事をうたふものの一種」と説明しており、ささらを伴奏にして語られる説経節が乞食芸であったこと、そして、乞食のなかでも最下層のものと見なされていたことがわかる。 おもな演目は「苅萱」「俊徳丸(しんとく丸)」「小栗判官」「山椒大夫」「梵天国」「愛護若」「信田妻(葛の葉)」「梅若」「法蔵比丘(阿弥陀之本地)」「五翠殿(熊野之御本地)」「松浦長者」などであり、主人公の苛烈な運命と復讐、転生などをモチーフに中世下層民衆の情念あふれる世界を描いている。 古説経(初期の説経節)のテキストにおける節譜として、「コトバ(詞)」「フシ(節)」「クドキ(口説)」「フシクドキ」「ツメ(詰)」「フシツメ」の6種が確認されている。説経節は基本的に「コトバ」「フシ」を交互に語ることで物語を進行させていったものと考えられるが、「コトバ」は日常会話に比較的近い言葉であっさりとした語り、「フシ」は説経独特の節回しで情緒的に、歌うように語ったものと考えられる。これに対し、「クドキ」は沈んだ調子で哀切の感情を込めて語り、「フシクドキ」はそれに節を付けたものと考えられ、節譜への登場はわずかであるが、そこでは「いたはしや」「あらいたはしや」の語が語られるのを大きな特徴としていた。 近世に入って、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった。義太夫節に押されて早々と廃れてしまった上方に対し、江戸は三都のなかで最も説経節がさかんで、元禄年間には天満重太夫、武蔵権太夫、吾妻新四郎、江戸孫四郎、結城孫三郎らが櫓をかかげて説経座を営んだほか、説経太夫としては村山金太夫や大坂七郎太夫があらわれた。 しかし、18世紀初頭をすぎると江戸においても説経節による人形操りは衰退し、享保年間(1716年-1736年)にあらわれた2世石見掾藤原守重あたりを最後に江戸市中の説経座は姿を消してしまい、再び、大道芸・門付芸となった。その時点で古い説経節のスタイルは消え、構成も詞章も浄瑠璃の影響の強い説経浄瑠璃のかたちになっていた。
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