解放戦争と内戦(1810年-1829年)
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「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」、「五月革命 (アルゼンチン)」、および「アルゼンチン独立戦争」も参照 1806年、1807年のイギリス軍のブエノスアイレス、モンテビデオ侵攻後、アメリカ独立革命などの影響を受けていたクリオーリョ達は、ナポレオンによるフェルナンド7世の退位とそれを契機に勃発したスペイン独立戦争によって生じた政治的空白を埋めるために、カビルド・アビエルト(開かれた市会)を開いて表面的にはフェルナンド7世への支持を標榜しながらも、5月25日に副王の退位と自治委員会(プリメラ・フンタ)の設立を決議し、実質的にペニンスラール(スペイン本国出身者)から植民地行政権を奪取した。この五月革命は、しかし、すぐに矛盾を明らかにした。つまり、植民地時代から続く都市のスペイン=ヨーロッパ的な文明生活と、地方のアメリカ=土着的伝統生活の差異は、ブエノスアイレスと内陸諸都市の対立となって新たな国家を形成する際に相互の対立をもたらし、「本質的に異なる二つの国家プロジェクトを持つアルゼンチンの共存」(アルゼンチンの文学者 アルトゥーロ・ソネーゴによる表現)は、独立時に国家形成のあり方を巡って大きな波乱を引き起こしたのである。1810年5月25日の五月革命から、1829年のフアン・マヌエル・デ・ロサスの登場による小康を挟んで1853年の自由主義者による憲法制定と、1862年の国家統一まで、特にブエノスアイレスを中心とするヨーロッパ的なアルゼンチンと、モンテビデオ、および内陸部諸州を中心とする土着的なアルゼンチンの対立が続き、最終的に1880年の首都令により、ブエノスアイレスが正式に連邦の首都に定められるまでこの対立は続くこととなった。 シモン・ボリーバルと並ぶラテンアメリカの解放者ホセ・デ・サン・マルティン。立憲君主制によるアルゼンチンの独立を主張した。 ブエノスアイレスの代表者 マヌエル・ベルグラーノ。ブエノスアイレスを中心とした中央集権主義を推し進める一方で、アルト・ペルーの解放に力を注ぎ、インカ帝国の復興をも実現しようとした。アルゼンチンの国旗の制定者でもある。 連邦同盟の代表者 ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス。ブエノスアイレスの中央集権主義に対抗し、連邦同盟の諸州の先頭に立って戦い続けた。アルゼンチンの国旗に連邦主義の赤を加え、アルティーガスの旗を制定した。 スペイン語とケチュア語で書かれた南アメリカ連合州(リオ・デ・ラ・プラタ連合州)の独立宣言 五月革命は革命を指導した各指導者の展望も全くの不統一であり、早急に独立を目指したジャコバン的なマリアーノ・モレーノから、自治の拡大のみに意識を絞ったコルネリオ・サーベドラまで幅広い路線を抱えていたため、すぐに内部対立が生じた。独立派の勢力にも、君主制または立憲君主制の導入を試みた君主派、共和制による統一を試みた共和派があり、君主派の中でもスペイン王室から国王を迎えるべきだと主張するホセ・デ・サン・マルティンから、ベネズエラの独立指導者フランシスコ・デ・ミランダのように、インカ皇帝を復活させてインカ皇帝を元首とした立憲君主制の導入を試みようとしたマヌエル・ベルグラーノのような勢力まで千差万別だった。1816年7月9日にトゥクマン議会で公布された南アメリカ連合州(リオ・デ・ラ・プラタ連合州)の独立宣言にはベルグラーノが大きな役割を果していたが、アルゼンチンの独立宣言はスペイン語とケチュア語で発表され、インカ皇帝の復活が決議されたのである。そして、国家の公用語はスペイン語、ケチュア語、アイマラ語となる予定だった。 さらに、ブエノスアイレス主導の中央集権主義、つまり植民地時代から続く海外貿易のブエノスアイレス港による独占と自由貿易を認めることを軸に進んだ独立運動は、まもなく地方諸州に大きな困窮をもたらすことが明らかになった。五月革命はアルゼンチンとの自由貿易を望むイギリスによって祝福され、他方で自らもブエノスアイレスの大商人や大土地所有者だった独立指導者(サーベドラ、モレノ、プエイレドン、ベルグラーノら)もヨーロッパやイギリスとの自由貿易を望み、1810年から1816年の間に貿易の自由化が制度化されていった。これにより、植民地時代に発展していた内陸部の軽工業は、産業革命を進めていた安価なイギリス製品に自由競争で破れ(この時にイギリスのヨークシャー製のポンチョは3ペソ、国産のポンチョは7ペソだった)、地方諸州で失業と貧窮が広がることになる一方で、アルゼンチンの皮革や塩漬け肉の輸出と引き換えに、高価なヨーロッパ製の嗜好品がブエノスアイレスの上流階級にもたらされた。 ラ・プラタ副王領の中でもパラグアイ、アルト・ペルー、バンダ・オリエンタル、コルドバは革命当初からブエノスアイレスの主導権を拒否していたが、ブエノスアイレスが制圧に成功したのはコルドバのみに限られ、パラグアイではマヌエル・ベルグラーノの遠征軍が1811年に敗れ、バンダ・オリエンタルは王党派の支配が続き、アルト・ペルーの解放も一向に進まなかった。このような経過の中で、自由貿易により困窮する地方勢力は1814年にバンダ・オリエンタル出身のホセ・ヘルバシオ・アルティーガスの連邦同盟の下に結集することになった。アルティーガスはブエノスアイレス主導の独立運動を打破するために、共和派として各州が対等の立場でアメリカ合衆国のような連邦国家を形成することを望んでおり、さらにラテンアメリカの産業を保護するための保護関税や、雇用と国内市場創出のための支配地における農地改革の実践などの優れて反寡頭支配的な功績を残したが、ブエノスアイレスとリオデジャネイロの寡頭支配層の挟み撃ちにあって1820年にポルトガルにより東方州が完全占領されると、アルティーガスは失脚した。これ以降、連邦主義はロサスやリトラル三州のカウディージョを代表とする、寡頭支配を望む大土地所有者による既得権益保護のための制度となった。なお、1820年の中央政府崩壊後のブエノスアイレス州でも1821年に州内務大臣になったベルナルディーノ・リバダビアの政策(永代借地法)により、土地の寡占化が進行することになった。 このような情勢の中でアルト・ペルー遠征が最終的に失敗し、ベルグラーノが北部軍司令官を辞任すると、アンデス軍司令官となったサン・マルティンによりスペインとの戦いが継続された。サン・マルティンは1817年にチリへの遠征を行い、チャカブコの戦いとマイプーの戦いでチリとアルゼンチンの独立を保障した後、チリ軍の客将となって南スペインの南米支配の最大の拠点だったペルーを解放した。一方でアルゼンチン本国では、それぞれがガウチョとカウディーリョの軍事力を頼みにしていたアルティーガスの連邦同盟と、プエイレドンのトゥクマン議会の内戦が激化していた。プエイレドンは1819年5月中央集権憲法を制定したため、地方諸州の蜂起を招き、失脚した。しかし、アルティーガスも1820年1月にタクアレンボーの戦いでポルトガル軍に敗れ、パラグアイに亡命した。このような情勢の中で1820年2月にセペーダの戦いでリトラルのカウディーリョは政府軍を破り、中央政府は崩壊した。 しかし、中央政府の崩壊の不利と、ポルトガル・ブラジル連合王国に支配され、シスプラチナ県改名されたバンダ・オリエンタルの奪回は地方諸州とブエノスアイレスを団結させるには十分であった。リトラル三州を中心とする旧連邦同盟諸州から東方州の奪還を求める声が強くなり、1825年1月にはブエノスアイレス州に外交権を認める基本法が制定され、4月にはフアン・アントニオ・ラバジェハ将軍率いる33人の東方人のバンダ・オリエンタルに潜入し、12月にはバンダ・オリエンタルを巡ってブラジル戦争に発展した。この戦争の中で一旦は統一派、連邦派の立場の違いを乗り越えた中央政府が再建され、連合州はリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに国名を改名するが、初代大統領に選出されたベルナルディーノ・リバダビアの現実を省みない近代化諸政策は完全に裏目に出てしまい、政策の失敗はリバダビアの失脚、中央政府の崩壊、中央集権憲法の失効を招いた。失脚したリバダビアに代わってブエノスアイレス州知事のマヌエル・ドレーゴが戦争を継続したが、戦争そのものもイツサンゴの戦いの勝利などで有利に進んでいた戦局を生かせずに、1828年にイギリスの干渉によりウルグアイの独立を認める形で終結することになった。 教育面では、1821年にブエノスアイレス内務大臣となったリバダビアによって教育改革が進み、ブエノスアイレス大学(1821年)が設立された。
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