第1次輸送
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:14 UTC 版)
第二遊撃部隊警戒部隊(指揮官:左近允尚正第16戦隊司令官)第16戦隊:青葉・鬼怒・浦波 第1輸送隊:一等輸送艦第6号・9号・10号 第2輸送隊:二等輸送艦第101号・102号 重巡洋艦青葉、軽巡洋艦鬼怒、軽巡洋艦北上(内地で修理中、レイテ沖海戦・多号作戦には関係せず)、駆逐艦浦波で編成された第16戦隊(司令官:左近允尚正中将)は、複雑な経緯でレイテ沖海戦および鈴号作戦(多号作戦第一次輸送)にのぞんだ。まず第16戦隊は戦時編制において南西方面艦隊(司令長官:三川軍一中将、所在:マニラ)に所属するが、捷号作戦時の兵力部署は第一遊撃部隊(指揮官:栗田健男中将、旗艦:愛宕)の第四部隊で、リンガ泊地で栗田艦隊各艦とともに訓練に従事していた。10月18日朝、連合艦隊司令部は第16戦隊を第二遊撃部隊(指揮官:志摩清英中将、通称志摩艦隊、旗艦:那智)に編入し、同時に第二遊撃部隊を三川中将(南西方面艦隊)の指揮下に入れた。連合艦隊は第二遊撃部隊(志摩艦隊)を海上機動反撃作戦に投入する意図をもち、第二遊撃部隊はマニラへの進出を命じられた。当時、第16戦隊は第一遊撃部隊と共にリンガ泊地を出動、ブルネイに向けて移動中であった。ところが三川中将は南方軍総司令部の海上機動計画が確定していないのを見て、第二遊撃部隊は馬公方面で、第16戦隊はブルネイ湾で待機するよう命じた。 10月19日正午、連合艦隊司令部は「三川中将指揮の海上機動反撃作戦の準備がおくれる場合は、第二遊撃部隊を小沢機動部隊の指揮下に復帰させる」予定を通知した。同日、南方軍総司令部のレイテ島陸兵増援計画が具体化する。ビサヤ地区(中部フィリピン諸島)から二個大隊2000名をレイテ島に輸送するという案だった。レイテ島東側(連合軍上陸作戦中)に逆上陸するか、レイテ島西岸に揚陸するか、判断をせまられた三川中将は後者に決定し「陸兵輸送は第16戦隊と輸送艦2隻程度で可能」と報じた。三川中将の報告に対し、連合艦隊司令部は第二遊撃部隊を三川中将(南西方面艦隊)の指揮下で作戦に従事させる旨を伝えた。 10月20日朝、第二遊撃部隊は澎湖列島馬公市に到着する。同日正午、第16戦隊は第一遊撃部隊と共にブルネイに入港した。同日夕刻、志摩中将は「第16戦隊を海上機動反撃作戦に従事させ、本隊(第21戦隊、第一水雷戦隊)は栗田艦隊と共にレイテ湾に突入したい」と意見具申する。ちょうどこの時、南方軍総司令部は台湾所在の第68旅団をフィリピンに輸送するよう命じられており、大本営陸軍部を通じて第二遊撃部隊に第68旅団の海上輸送を要請した。南方軍の要請を知った西尾秀彦南西方面艦隊参謀長は大本営海軍部に対し「第二遊撃部隊(第21戦隊と第一水雷戦隊)は掩護決戦兵力として使用するのが妥当」、南方軍の要請は「却ッテ戦機ヲ失スル虞(おそれ)大ニシテ適当ナラズト思考ス」と意見具申した。大本営海軍部と陸軍部が協議した結果、第二遊撃部隊の第68旅団輸送は中止となった。 10月21日、草鹿龍之介連合艦隊参謀長は第二遊撃部隊のレイテ湾突入を認めた。同日1600、第二遊撃部隊(第21戦隊:那智〈志摩長官旗艦〉・足柄・第一水雷戦隊〈司令官:木村昌福少将、旗艦〈軽巡洋艦阿武隈〉・第7駆逐隊〈曙・潮〉・第18駆逐隊〈不知火・霞〉〉)は馬公を出撃、ルソン島西岸を南下した。この間、第二航空艦隊の基地物件を台湾からフィリピンに輸送するため、第一水雷戦隊の第21駆逐隊(若葉・初霜)を分派。このあと、第21駆逐隊はスル海で空襲を受け若葉を喪失した(10月24日)。三川中将が第二遊撃部隊のスリガオ海峡経由レイテ湾突入を正式に命じたのは23日午前10時の南西方面艦隊電令作第687号「第二遊撃部隊本隊ハ指揮官所定ニ依リ行動 X日黎明「スリガオ」海峡突破「レイテ」湾ニ突入 第一遊撃部隊ノ作戦ニ策応 同方面所在敵攻略部隊ヲ撃滅スルト共ニ間接ニ警戒部隊ヲ援助スベシ」「警戒部隊(第十六戦隊)ハ電令作第六八四号ニ依リ行動陸軍部隊ノ輸送揚陸ニ任ズベシ」だったが、志摩中将はレイテ湾突入を確信してすでに行動中であった。以後の第二遊撃部隊(第21戦隊、第一水雷戦隊)のスリガオ海峡における戦闘は省略する。 最終的にレイテ島への増援第1陣は、鈴二号作戦にともなう日本陸軍第35軍の兵力(第30師団、通称号「豹」の一部)、すなわちミンダナオ島カガヤンからの2個大隊・2,000名強と決まった。またビサヤ地区の第102師団(通称号「抜」)を、陸軍舟艇部隊と応援の海軍舟艇隊(セブ島に配備の小型機帆船3隻、第33特別根拠地隊の大発動艇4隻)で海上輸送することになった。22日午後、南西方面艦隊司令長官・三川軍一中将は第16戦隊司令官左近允尚正中将に、16戦隊3隻(青葉・鬼怒・浦波)と輸送艦5隻(第6号、第9号、第10号、第101号、第102号)による陸兵輸送任務を命じた。NSB(南西方面部隊)電令作第684号は以下のとおり。 一、 101号、6号輸送艦は22日便宜マニラ発、24日夕刻までにカガヤンへ回航すべし。先任艦長指揮の下に回航するものとす。 二、 9、10号輸送艦はセブにおける作業終了後先任艦長指揮、24日夕刻までにカガヤンに回航すべし。 三、 16戦隊は24日夕刻までにカガヤンへ回航すべし(状況によりマニラ寄港差支えなし。) 四、 前項各輸送艦カガヤン着後、NSB警戒部隊指揮官(十六戦隊司令官)の指揮下に入るべし。 五、 警戒部隊指揮官はNSB第211910番電による陸海軍協定に基づき歩兵二大隊基幹兵力をカガヤンより輸送、これをレイテ島に揚陸せしむべし。 六、 右作戦終了せば各艦は警戒部隊指揮官所定によりマニラに回航、第二次陸兵輸送に備うべし。但し16戦隊は決戦の状況により一YB(第一遊撃部隊)の作戦に策応せしむることあるべし。 左近允中将直率の各艦は「第二遊撃部隊警戒部隊」と呼ばれていたが、兵力は分散していた。22日時点で左近允指揮官直率の第16戦隊(青葉・鬼怒・浦波)は前日にブルネイを出発し、23日マニラ着の予定で南シナ海を北上中だった。第6号・第101号・第102号輸送艦は、マニラ湾方面にあった。第9号・第10号輸送艦は甲標的をセブ島の第33特別根拠地隊に輸送する任務についていた。 10月23日4時45分のマニラ入港直前、青葉はアメリカ潜水艦ブリームの魚雷攻撃を受けて大破、航行不能になる。第16戦隊司令官は洋上で旗艦を青葉から鬼怒に変更した。鬼怒は青葉をマニラまで曳航、青葉はそのまま同地にとどまった。 10月24日午前7時、第16戦隊(鬼怒・浦波)はマニラを出撃したが、昼頃まで断続的に空襲を受け若干の被害をこうむった。同日夜、日本陸軍第35軍の陸兵約500名が機帆船3隻でセブ島からレイテ島へむかったが、1隻が沈没した。 10月25日8時30分から正午頃まで、第16戦隊(鬼怒・浦波)はミンダナオ島とネグロス島の間でB-24爆撃機の空襲を受けた。鬼怒は至近弾で通信機が故障したが、航海には問題なかった。1600、2隻(鬼怒・浦波)はミンダナオ島カガヤンに到着した。これより前、第1輸送隊(輸送艦第6号・9号・10号)と第2輸送隊(輸送艦第101号・102号)にもカガヤンからオルモックへの兵員輸送が命ぜられており(第1輸送隊は各艦350名、第2輸送隊は各艦400名)、こちらは既に陸兵を乗せ25日朝にカガヤンを出港、オルモックに向かっていた。第16戦隊(鬼怒・浦波)も直ちにカガヤンで陸兵約700名(2隻合計)と物資を搭載し、17時30分にオルモックへ向けて出港した。 翌10月26日黎明、それぞれオルモックに到着し兵員を揚陸する。第16戦隊(鬼怒・浦波)は5時0分にオルモックを出発し、マニラ(鬼怒航海長の回想ではコロン)に向かった。続いて出発した第1輸送隊もマニラに向かい、残る第2輸送隊は次の輸送任務のためビサヤ地区に向かった。マニラに向け帰投中の第16戦隊パナイ島北東端附近を航行中の同日10時15分頃から、アメリカ軍空母艦載機の攻撃を受ける。これはトーマス・スプレイグ少将の第77.4任務部隊(サマール沖海戦で栗田艦隊に攻撃された護衛空母部隊)で、海戦や神風特攻隊の攻撃で沈没艦や損傷艦を出したものの健在空母約10隻を擁しており、まだ充分な戦力を保持していた。浦波は12時24分に沈没。鬼怒も被雷と被弾により昼頃には航行不能となり、17時30分に沈没した。左近允中将は輸送艦10号に救助されたあと、27日にマニラで青葉に将旗を掲げた。 この頃、第二遊撃部隊は主隊(那智〈艦首大破〉・足柄・不知火・霞・潮〈損傷〉)がコロン湾に、駆逐艦3隻(初春・初霜〈直撃弾1〉・曙)がマニラにあった。浦波沈没・鬼怒航行不能との速報により、不知火(第18駆逐隊司令駆逐艦、司令:井上良雄大佐)が救援のため出動する。だが鬼怒は既に沈没しており(上述)、不知火は帰投中の27日にセミララ島で空襲を受け、駆逐艦早霜座礁地点のすぐそばで撃沈された。不知火と同様に、早霜座礁地点の側で駆逐艦藤波も撃沈された。なお鬼怒航海長によれば、不知火は26日午後6時30分頃、鬼怒生存者の目の前で空襲を受け轟沈したと回想している。救助された鬼怒航海長は、松型駆逐艦竹の臨時艦長に任命された。
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