空母時代
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「ロング・アイランド (護衛空母)」の記事における「空母時代」の解説
1941年(昭和16年)1月23日、モーマックメイルは空母改造予定艦に指定された。3月6日に海軍に買収され、特設航空母艦に改装される。同年6月2日に初代艦長ドナルド・B・ダンカン大佐の指揮下、「ロング・アイランド(AVG-1)」として就役する。完成直後の飛行甲板は全長約110mしかなく、19m延長されて129mになった。ロング・アイランドの最高速力18ノットでは、無風状態の場合、F2A バッファロー戦闘機やF4F ワイルドキャット戦闘機が離陸するのがやっとであった。そこで新開発の油圧式カタパルトが装備され、重量のある艦上爆撃機や艦上攻撃機の運用が可能になった。海面から飛行甲板までの高さは約15.8mで、正規空母並であった。悪天候下で正規空母ワスプ(USS Wasp, CV-7)の艦首飛行甲板が波に突っ込むような状況でも「ロング・アイランドの飛行甲板は完全に乾いた状態にあった」と艦長が報告したほど、優れた安定性を示したという。艦尾に設けられた主武装の5インチ51口径砲1門は、浮上してきたUボート用の武装であった。 日米関係が緊張していた数ヶ月間にロング・アイランドは、護衛空母による航空機運用の可能性を実証する実験を行うため、バージニア州ノーフォークを出航した。飛行甲板の延長や、カタパルトの設置により、護衛空母の存在価値を大いに高めた。またロング・アイランドの運用や試験で得られたデータは、ボーグ級航空母艦やサンガモン級航空母艦の設計と建造に大いに寄与した。なおロング・アイランドは、初代ラングレーや日本海軍の軽空母と同様の平甲板型空母であったが、後継艦は右舷に小型艦橋を設けている。イギリス海軍側から、見張りの重要性、輸送船団の位置把握など、艦橋の設置を要望された為の措置であった。 12月8日の太平洋戦争の勃発時、ロング・アイランドはニューファンドランドで商船団を護衛していた。1942年(昭和17年)3月には護衛空母チャージャー (USS Charger, AVG-4) が就役し、大西洋艦隊に配備されている。5月10日、ロング・アイランドはアメリカ西海岸へ向けて出航する前にノーフォークでパイロットを乗艦させ、6月5日にサンフランシスコに到着する。本艦はニミッツ提督の太平洋艦隊に配属され、ウィリアム・S・パイ海軍中将の任務部隊(戦艦4隻基幹)に同行した(両軍戦闘序列)。また、ミッドウェー海戦で勝利を収めた機動部隊の航空援護をおこなった。この海戦で空母ヨークタウン(USS Yorktown, CV-5)が沈没し、太平洋方面のアメリカ軍正規空母は3隻(サラトガ、エンタープライズ、ホーネット)になった。そこで大西洋艦隊から空母ワスプ(USS Wasp, CV-7)を太平洋艦隊に転用して最前線に投入し、ロング・アイランドは補助航空母艦として航空機輸送任務に従事した。ボーグ級航空母艦のコパヒー (USS Copahee, CVE-12) も同年6月15日に就役していたが、訓練中のためウォッチタワー作戦に間に合わなかった。 同年8月初頭、ロング・アイランドはアメリカ海兵隊機を載せて真珠湾を出撃、フィジーで待機した。8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦によりガダルカナル島とフロリダ諸島に来襲し、アメリカ海兵隊が上陸して完成したばかりの日本軍飛行場を奪取した。ラバウル航空隊の空襲に脅威を感じたフランク・J・フレッチャー提督は、新鋭戦艦ノースカロライナ (USS North Carolina, BB-55) と正規空母3隻(サラトガ、エンタープライズ、ワスプ)を擁しながら、上陸部隊と輸送船団への掩護を打ち切ってソロモン諸島南方海域へ後退した(第一次ソロモン海戦)。敵中に取り残された海兵隊は、物資不足に悩まされながら飛行場の復旧を急いだ。この飛行場は、ミッドウェー海戦で戦死した海兵隊航空部隊将校ヘンダーソン少佐(VMSB-241)の名前を冠してヘンダーソン飛行場と命名された。 「カクタス航空隊」も参照 ロング・アイランドはヘンダーソン飛行場にアメリカ海兵隊機を空輸するため、軽巡洋艦ヘレナ (USS Helena, CL-50) と駆逐艦1隻に護衛されてガ島に接近した。8月20日午前9時30分、日本海軍の飛行艇はガ島南東約250浬地点で「〇九三〇 D2 敵ノ兵力 空母一 巡洋艦一 駆逐艦二 其ノ他、基地ヨリノ方位一一六度五二〇浬、針路三五〇度速力一四節」を報じた。この空母は艦橋のないタイプであった。また別の飛行艇は「一二〇五 D1 敵兵力空母一 巡洋艦四 駆逐艦九/一二一五 D一 敵機動部隊ノ位置「ツラギ」ノ一三三度二四七浬、針路一三〇度速力一八節」を報じ、この空母は艦橋をもつタイプであった。二つの空母の位置には約70浬の差があり、日本側は別個の機動部隊と判断、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将)が護衛していた一木支隊第二梯団を反転退避させた。 同20日午後、ガ島南東約200浬の洋上で、ロング・アイランドは海兵第232偵察/爆撃中隊のSBD ドーントレス急降下爆撃機 12機、海兵第223戦闘飛行隊のF4F ワイルドキャット戦闘機 12機を射出した。海兵隊機を発進させたあとのロング・アイランドはニューヘブリディーズ諸島に帰投したので、ガ島北方から迫っていた南雲機動部隊の第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、龍驤)と対決せずに済んだ。一木清直陸軍大佐が率いる一木支隊先遣隊約900名の夜襲を8月21日未明のイル川渡河戦(テナル川の戦い)で撃退したヘンダーソン飛行場基地は、次々に増強される。そして8月24日から25日の第二次ソロモン海戦において連合軍勝利の一因になった。 その後、ロング・アイランドは同年9月20日に太平洋戦線を離れ、パイロット養成訓練を再開するため西海岸へ帰投した。1943年(昭和18年)6月中旬、護衛空母(escort aircraft carrier) の制定にともない、同艦種(CVE)に類別変更された。1946年(昭和21年)3月に退役後、しばらく予備役になったが、1948年(昭和23年)3月にパナマの会社に売却された。 ロングアイランドは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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