生涯・事跡とは? わかりやすく解説

生涯・事跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 13:50 UTC 版)

フセヴォロド・メイエルホリド」の記事における「生涯・事跡」の解説

ユリウス暦1874年1月28日グレゴリオ暦2月9日ペンザ生まれる。メイエルホリド家は、ロシア在住するボルガ・ドイツ人家系で(ユダヤ系ともされる)、父エーミールワイン製造業を営んでいた。モスクワ大学法学部中退している。1895年21歳誕生日機にルーテル教会から正教会改宗し洗礼名「フセヴォロド」を名乗るその後モスクワ・フィルハーモニー協会演劇学校でウラジーミル・ネミロヴィッチ=ダンチェンコ(Vladimir Nemirovich-Danchenko)に師事し、ここにメイエルホリド舞台人として活動の幕が切って落とされた。1898年には恩師であるネミロヴィッチ=ダンチェンコに従いモスクワ芸術座旗揚げ参加している。 モスクワ芸術座では、アントン・チェーホフの『かもめ』の上演でトレープレフ役を演じチェーホフ影響され演劇における様式美追求したが、モスクワ芸術座における自然主義的心理主義演劇論齟齬をきたし、1902年モスクワ芸術座退団した退団後、メイエルホリドは自らの理想追い求めてスネギリョフやコシェヴェーロフら有志語らいいくつかの劇団結成しカフカス巡業出たメイエルホリド役者として舞台に立つ他に、演出畑に進出するメイエルホリドは、実験的劇場とそれにふさわしい新し演技構築模索していく。1905年に、当時モスクワ芸術座における自然主義演劇行き詰っていたスタニスラフスキーから、新し演劇創造への協力求められる。そこで、メイエルホリドモスクワ芸術座付属の「演劇スタジオ」を作り、そこで『タンタジールの死』の演出など、様々な条件演劇的な実験試みる。その経験生かしその後象徴主義演技の熱心な主導者となっていく。特に1906年から1907年にかけて、サンクトペテルブルクヴェラ・コミサルジェフスカヤ劇場上演した修道女ベアトリス』を制作し同作は、アンドレイ・ベールイAndrei Bely)、ヴァレリー・ブリュソフ(Valery Bryusov)、ゲオルギー・チュルコフ(Georgy Chulkov)らから象徴主義不動劇として評価受けたまた、1906年演出しアレクサンドル・ブロークの『見世物小屋』は象徴主義脱構築から、広く論争巻き起こした。その他、コミッサルジェフスカヤ劇場では、プシビシェフスキの『永遠物語』、イプセン作『ヘッダ・カプラー』、メーテルリンク作『修道女ベアトリーチェ』などを演出し象徴主義流行隆盛期出現せしめた。 しかし、コミサルジェフスカヤとの蜜月長く続かず喧嘩別れの後、1908年ペテルブルク帝室アレクサンドリンスキー劇場およびマリインスキー劇場演出家となる。両劇場時代メイエルホリド世界各国演劇研究取り組みその中で伝統的な民衆演劇応用したメイエルホリドは、レールモントフ作『仮面舞踏会』、モリエール作『ドン・ジュアン』、ワーグナー作『トリスタンとイゾルデ』その他を演出しロシア革命直前直後混迷するロシア演劇にあって演劇革新という観点で独自の足跡残したメイエルホリドは、自分たち演技者観客との有機的接触求め演劇演出の手法を探求していった。そのような実験的手法の中から、客席舞台との連続性強調舞台における非日常性の強調映画モンタージュ形式共通する時空間など演出手法確立する至った1917年ロシア革命によってメイエルホリド実験的演出および演劇革新実現絶好機会到来した考え積極的に革命参画した。メイエルホリドロシア演劇人中、一番早く革命歓迎した一人であり、1918年8月にはすでにロシア共産党ボリシェビキ)に入党している。同年から1921年までソ連教育人民委員部文部省)の演劇部門を統括する1918年秋、革命一周年祝してマヤコフスキー作『ミステリヤ・ブッフ』を演出上演するが、これはソ連時代職業的演劇人の担い手になる最初社会主義的演劇との評価受けていた。『ミステリヤ・ブッフの上以来演劇革命ともいえる「演劇十月」を唱え新時代にふさわしい新し演劇創造運動邁進する。それはたとえば、舞台観客融合はかった『曙』、大胆な構成主義舞台展開した堂々たるコキュ』、ソビエト現実するどく風刺した南京虫』『風呂』、古典見事に現代化した『森林』『検察官』『知恵悲しき』等の舞台演出結実することになる。また、国立高演劇工房では、後の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインらを養成している。革命後は、アジ・プロ演劇手法の確立コメディア・デラルテサーカスなどの動きと、科学的な生産時間動作研究であるテイラー・システムなどを参考にしつつ、機械的イメージとを組み合わせた身体訓練法ビオメハニカBiomechanics)」の提唱などを次々と行い1920年代におけるソビエト・ロシア演劇もとより20世紀前半国際演劇大きな影響与えた。すなわち演劇における身体性集団性復権である。そしてまた当時若手作曲家ドミートリイ・ショスタコーヴィチとも親交があり、自らの劇場音楽部長に任命し戯曲南京虫」の舞台音楽依頼している。 1923年ロシア共和国人民芸術家称号授与された。また、同年メイエルホリド劇場創立するとともに1924年までメイエルホリド劇場モスクワ革命劇場芸術指導者を兼務する。しかし、演劇創作絶対的自由と不断革新目指すメイエルホリド姿勢は、スターリン代表される共産党官僚全体主義的統制相対するようになった1938年1月形式主義文化害毒流布していると批判されメイエルホリド劇場閉鎖されメイエルホリド1939年6月14日第一回全ソ演出家会議自己批判要求されたがそれを拒否し、「ソ連共産党形式主義狩り出すつもりで、芸術殺してしまった」と非難したために、その翌日投獄される以後弾圧続き逮捕・投獄され、残忍な拷問受けた末にフランス日本イギリス諜報部協力した供述させられた。入獄時のきびしい取調べは、現存するメイエルホリド本人ヴィシンスキー判事宛の嘆願書描かれているが、スターリン粛清時のむごたらしさをも伺うことができる貴重な文献である(この他に、モロトフあての手紙も現存している)。 彼等は私の頭を下向けにしたまま床に尽き転がした足の裏背中固いゴム警棒殴った殴打連日続いた。ようやく座ることが許される。それでも、同じ所を殴り続けるので内出血酷く熱湯浴びせられるような痛み襲われる。あまりの苦しさ大声泣き叫ぶ。しかし、取調官は、じゃあ供述書署名せよ。でないと殴り続けることになる。頭と右手以外は血まみれだぞ。そう脅された私は、1939年11月16日供述書署名したのである。 そしてメイエルホリドは、1940年2月1日死刑判決を受け、(おそらく)翌日銃殺された。 自身の妻で、女優のジナイーダ・ライヒは夫の逮捕後の1939年7月15日に、モスクワ市ブリューソフ小路自宅何者かによって殺害されている。GPUによる粛清説が有力である。ショスタコーヴィチの証言によればライヒうめき声何時間も続いたが、隣人達は関わり合い恐れて誰一人様子を見に行かなかったという。 スターリンの死後非スターリン化に伴い1955年11月28日ソ連最高軍事部会メイエルホリドの名誉回復発表した

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