源氏将軍復活と源氏将軍神話誕生の過程とは? わかりやすく解説

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源氏将軍復活と源氏将軍神話誕生の過程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/06 01:47 UTC 版)

源氏将軍」の記事における「源氏将軍復活と源氏将軍神話誕生の過程」の解説

元弘3年1333年)に鎌倉幕府滅亡し後醍醐天皇建武の新政をめぐる国内動乱のさなか、足利尊氏征夷大将軍に任ぜられ室町幕府開いたことで、実朝の死から約120年ぶりに河内源氏出身源氏将軍復活することとなった『太平記』によれば後醍醐天皇親政下の建武2年1335年)、幕府とともに滅亡した北条高時遺児時行が叛旗翻し鎌倉攻め上った際、尊氏は「そもそも征夷将軍の任は代々源平の輩、其の位に居するの例、計らず此の一事殊に朝の為、家の為、深き所なり」即ち、源氏平氏征夷大将軍の任についた例は数えきれないとして、自らも将軍宣下受けた上で北条討伐行いたい奏上したという。 足利将軍家がかつての源氏将軍同族であり、徳川将軍家源氏称するなど、いわゆる幕府将軍家による支配の中の歴史において、あたかも武家政権の長は源氏あるべき」、あるいは「源氏なければ将軍なれない」という誤解ともいえる観念生じたものと考えられている。 しかし、戦国時代室町幕府実質的に滅ぼした織田信長が、権大納言右近衛大将就任し天下人として公認された。当時征夷大将軍足利義昭近衛中将なので信長朝廷内の近衛府では上官に当たる。しかし、天正6年1578年4月天下統一四海平定)がまだとの理由で突然いっさい官職から辞任し嫡男信忠譲りたいと申し立てた。しかし、朝廷信忠譲渡無視し正親町天皇は、その後天正9年3月7日信長左近衛大将就任するよう勧めたり律令制官職体制戻そう努める。そして京都所司代村井貞勝相談したところ「征夷大将軍太政大臣関白」の案が信長相談なしに勇み足的に出されと言われそのまま安土城勅使出したが、信長は突然の申し出戸惑い返事をしないままとなった三職推任問題)。だが信長平氏本姓だが、朝廷内に征夷大将軍推すことに何ら疑問議論もなく、源氏なければ将軍にしないという認識はまるでなかった。 本能寺の変での信長横死後で羽柴秀吉公卿任じられた際、征夷大将軍兼任するように推されたが断っている(『多聞院日記天正12年(1584)10月16日条)。その後天下統一し、近衛前久猶子となって関白に任ぜられ豊臣政権を開く。なお江戸時代になり江戸幕府儒者林羅山が、「秀吉将軍職欲し室町幕府15代将軍の足利義昭猶子とするよう要請し断られた」と書いたが何の史料もないことであり、単なる豊臣家貶め徳川将軍体制高め宣伝に過ぎないと言われている(『豊臣秀吉譜』)。 豊臣政権の後、藤原姓称したこともある徳川家康源氏として征夷大将軍に任ぜられ、日本史上3人しかいない幕府開府者がいずれも源氏だと、源氏なければ将軍なれないという源氏将軍神話源氏将軍信仰徳川幕府から広められたと考えられている。

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