源氏将軍復活と源氏将軍神話誕生の過程
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「源氏将軍」の記事における「源氏将軍復活と源氏将軍神話誕生の過程」の解説
元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇の建武の新政をめぐる国内の動乱のさなか、足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ室町幕府を開いたことで、実朝の死から約120年ぶりに河内源氏出身の源氏将軍が復活することとなった。 『太平記』によれば、後醍醐天皇の親政下の建武2年(1335年)、幕府とともに滅亡した北条高時の遺児時行が叛旗を翻し鎌倉に攻め上った際、尊氏は「そもそも征夷将軍の任は代々の源平の輩、其の位に居するの例、計らず。此の一事、殊に朝の為、家の為、深き所なり」即ち、源氏平氏が征夷大将軍の任についた例は数えきれないとして、自らも将軍宣下を受けた上で北条討伐を行いたいと奏上したという。 足利将軍家がかつての源氏将軍と同族であり、徳川将軍家も源氏を称するなど、いわゆる幕府の将軍家による支配の中の歴史において、あたかも「武家政権の長は源氏であるべき」、あるいは「源氏でなければ将軍になれない」という誤解ともいえる観念が生じたものと考えられている。 しかし、戦国時代に室町幕府を実質的に滅ぼした織田信長が、権大納言と右近衛大将に就任し、天下人として公認された。当時の征夷大将軍足利義昭は近衛中将なので信長は朝廷内の近衛府では上官に当たる。しかし、天正6年(1578年)4月、天下統一(四海平定)がまだとの理由で突然いっさいの官職から辞任し、嫡男信忠に譲りたいと申し立てた。しかし、朝廷は信忠譲渡は無視し、正親町天皇は、その後も天正9年3月7日、信長に左近衛大将に就任するよう勧めたり律令制官職体制に戻そうと努める。そして京都所司代の村井貞勝に相談したところ「征夷大将軍、太政大臣、関白」の案が信長の相談なしに勇み足的に出されたと言われ、そのまま、安土城に勅使を出したが、信長は突然の申し出に戸惑い、返事をしないままとなった(三職推任問題)。だが信長は平氏が本姓だが、朝廷内に征夷大将軍に推すことに何らの疑問や議論もなく、源氏でなければ将軍にしないという認識はまるでなかった。 本能寺の変での信長横死の後で、羽柴秀吉は公卿に任じられた際、征夷大将軍を兼任するように推されたが断っている(『多聞院日記』天正12年(1584)10月16日条)。その後天下統一し、近衛前久の猶子となって関白に任ぜられ豊臣政権を開く。なお江戸時代になり江戸幕府の儒者の林羅山が、「秀吉が将軍職を欲し、室町幕府15代将軍の足利義昭に猶子とするよう要請し断られた」と書いたが何の史料もないことであり、単なる豊臣家を貶め、徳川将軍の体制を高める宣伝に過ぎないと言われている(『豊臣秀吉譜』)。 豊臣政権の後、藤原姓を称したこともある徳川家康が源氏として征夷大将軍に任ぜられ、日本史上3人しかいない幕府開府者がいずれも源氏だと、源氏でなければ将軍になれないという源氏将軍神話、源氏将軍信仰が徳川幕府から広められたと考えられている。
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