源氏将軍観の高揚と足利氏の「源氏嫡流」化とは? わかりやすく解説

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源氏将軍観の高揚と足利氏の「源氏嫡流」化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/06 01:47 UTC 版)

源氏将軍」の記事における「源氏将軍観の高揚と足利氏の「源氏嫡流」化」の解説

前述の「源氏将軍観」の高まりによって次のような現象生じた。かつての源氏将軍たる頼朝と同じ河内源氏出身である御家人中には、後に室町幕府を開くこととなる足利氏がおり、時宗政権期に当主であった足利家時は、烏帽子親である北条時宗頂戴する将軍源惟康近臣筆頭として支えることで同時に時宗政権協力する姿勢示して北条氏から優遇されていたが、やがてその出自ゆえに足利氏の方が将軍にふさわしいとの認識周囲呼び起こし足利氏にその野心があるとの猜疑心を生みだしたようで、時宗の死よりわずか3ヶ月後、弘安7年1284年6月25日自殺遂げた。家時の自殺の理由については諸説あったが、最新の研究では足利氏を「源氏将軍観」から切り離すため、時宗殉死することで北条氏への忠誠を示す意図があったとされている。翌8年1285年)の霜月騒動の折には安達泰盛対立した平頼綱が「泰盛の子宗景が藤原氏から源氏改姓し将軍にならんとする陰謀あり」と執権北条貞時讒言し、その頼綱が後に討伐された(平禅門の乱)のも次男飯沼資宗将軍せんとする疑いかけられことによるもので、これらは「源氏将軍」を擁立する運動であったという。 これらのことは、以後新たに源氏将軍擁する反乱起こり得る可能性があることを示しており、当時執権北条貞時はその対策として足利氏を「源氏嫡流」として公認したという。このことは他の源氏との格差明示されることになるため、足利氏の側も歓迎し、これによって北条足利両氏合意形成され、その一環として時の子・高時の代には、足利貞氏最初嫡子に、高時偏諱「高」と清和源氏通字「義」の使用認めて高義」と名乗らせたとされる。但し、これは足利氏将軍になる可能性認めることになるため、公認に際して北条氏擁立する親王将軍伺候する立場を示すことで同氏服従する姿勢を示すことを条件とし、足利氏はこれを遵守した例えば、前述の家時の自殺もその行為一つ捉えることができるが、貞氏自身も、正安3年1301年)に烏帽子親北条貞時に従って出家し元亨3年1323年)の貞時の十三回忌法要に際しては、当時実力者長崎円喜に次ぐ230貫文という高額費用進上している。これによって足利氏北条氏得宗家から優遇されてその政治的立場安定させることに成功し得宗に次ぐ家格維持することができた。 建武3年1336年2月京都周辺後醍醐天皇方との戦い敗れ九州落ち延びた足利尊氏は、その途上で「将軍家」を自称し諸国武士もすぐにそれを支持した事実確認されているが、事前にその前提となる思想的基盤形成されていたはずであり、前述した父・貞氏の代までに足利氏源氏将軍資格を持つ「源氏嫡流となったことがそれにあたるとされている。

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