源氏将軍観の高揚と足利氏の「源氏嫡流」化
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「源氏将軍」の記事における「源氏将軍観の高揚と足利氏の「源氏嫡流」化」の解説
前述の「源氏将軍観」の高まりによって次のような現象が生じた。かつての源氏将軍たる頼朝と同じ河内源氏の出身である御家人の中には、後に室町幕府を開くこととなる足利氏がおり、時宗政権期に当主であった足利家時は、烏帽子親である北条時宗が頂戴する将軍・源惟康の近臣筆頭として支えることで同時に時宗政権に協力する姿勢を示して北条氏から優遇されていたが、やがてその出自ゆえに足利氏の方が将軍にふさわしいとの認識を周囲に呼び起こし、足利氏にその野心があるとの猜疑心を生みだしたようで、時宗の死よりわずか3ヶ月後、弘安7年(1284年)6月25日に自殺を遂げた。家時の自殺の理由については諸説あったが、最新の研究では足利氏を「源氏将軍観」から切り離すため、時宗に殉死することで北条氏への忠誠を示す意図があったとされている。翌8年(1285年)の霜月騒動の折には安達泰盛と対立した平頼綱が「泰盛の子宗景が藤原氏から源氏に改姓し将軍にならんとする陰謀あり」と執権北条貞時に讒言し、その頼綱が後に討伐された(平禅門の乱)のも次男の飯沼資宗を将軍にせんとする疑いをかけられたことによるもので、これらは「源氏将軍」を擁立する運動であったという。 これらのことは、以後新たに源氏将軍を擁する反乱が起こり得る可能性があることを示しており、当時の執権・北条貞時はその対策として足利氏を「源氏嫡流」として公認したという。このことは他の源氏との格差が明示されることになるため、足利氏の側も歓迎し、これによって北条・足利両氏で合意が形成され、その一環として貞時の子・高時の代には、足利貞氏の最初の嫡子に、高時の偏諱「高」と清和源氏の通字「義」の使用を認めて「高義」と名乗らせたとされる。但し、これは足利氏が将軍になる可能性を認めることになるため、公認に際しては北条氏の擁立する親王将軍に伺候する立場を示すことで同氏へ服従する姿勢を示すことを条件とし、足利氏はこれを遵守した。例えば、前述の家時の自殺もその行為の一つと捉えることができるが、貞氏自身も、正安3年(1301年)に烏帽子親の北条貞時に従って出家し、元亨3年(1323年)の貞時の十三回忌法要に際しては、当時の実力者・長崎円喜に次ぐ230貫文という高額の費用を進上している。これによって足利氏は北条氏得宗家から優遇されてその政治的立場を安定させることに成功し、得宗に次ぐ家格を維持することができた。 建武3年(1336年)2月、京都周辺で後醍醐天皇方との戦いに敗れ九州に落ち延びた足利尊氏は、その途上で「将軍家」を自称し、諸国の武士もすぐにそれを支持した事実が確認されているが、事前にその前提となる思想的基盤が形成されていたはずであり、前述した父・貞氏の代までに足利氏が源氏将軍の資格を持つ「源氏嫡流」となったことがそれにあたるとされている。
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