日本でのヒット
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「スウィング・アウト・シスター」の記事における「日本でのヒット」の解説
たとえデビューアルバムがヒットに恵まれても、続くアルバムで好調な売れ行きを持続させることは欧米諸国ではなかなか難しい。ジャズ系列のラジオで頻繁に曲がオンエアされてこそいたが、スウィング・アウト・シスターも商業的にはその例に漏れていなかった。ところが、彼らは日本で高い人気を獲得した。これは、日本・東京放送(現・TBSテレビ)のテレビドラマ『真昼の月』の主題歌用に書き下ろした「Now You’re Not Here」(あなたにいてほしい)が、ドラマとともに大ヒットしたためだった。日本でのみ発売された同シングルは30万枚を越える洋楽売り上げ1位を記録し、1997年第11回日本ゴールドディスク大賞洋楽部門のグランプリ・シングル賞を受賞した。オリコン洋楽シングルチャートでは1996年8月19日付から11週連続1位を獲得した。
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日本でのヒット
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元々は中村八大が1961年7月21日に開催した自身のリサイタルのために制作した楽曲であったが、曲直瀬信子の推薦により、坂本九のシングル曲としてレコーディングされることになった。 1961年7月21日、サンケイホールで開催された「第3回中村八大リサイタル」で、坂本九の歌唱によって初披露された。 坂本九はリサイタルの2時間ほど前に初めて譜面を渡され、ぶっつけ本番で初披露した。その際、譜面では4ビートなのだが、坂本はそれを8ビートでアレンジして歌った。また、曲中マイナーになる部分があるが、坂本が外してマイナーで歌ってしまったため、マイナーになったという説もある。中村八大は、歌手がたまたま音程が外れたり、アレンジしたものが面白かったらその場で譜面を書き換えてしまう大らかさがあった。 同年8月19日、NHKで放送されていたバラエティ番組「夢であいましょう」でテレビ初披露。同番組において、1961年10月・11月の「今月のうた」として発表され、同年10月15日にレコードが発売されると爆発的なヒットとなった。発売から3か月で30万枚を突破。当時の日本のレコード売り上げランキング(『ミュージック・ライフ』誌に掲載されていた国内盤ランキング)では1961年11月 - 1962年1月まで3か月にわたり1位を独走した。 売り上げだけを見れば相当なものであったが、当時最も新しく不良の音楽とされたロカビリー(現代でいうロックンロール)出身の九の独特な歌い回しが耳に合わない当時の保守的な日本の歌謡界においては評価は高くなかった。日本レコード大賞にも選ばれていない。だが、この評価は世界での大成功により覆された。 坂本九は本楽曲で1961年の「第12回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした。また、2000年の「第51回NHK紅白歌合戦」の第一部終了後、紅白に出演していた時の坂本九の映像のもと、出場歌手によって「上を向いて歩こう」が大合唱された。 「夢であいましょう」の出演者の一人だった黒柳徹子は、当時の日本に「ランキング」というもの自体無く(オリコンの集計は1968年開始)、ましてや「全米ビルボード1位」というのが、どれほどすごいことなのか分からず、坂本がアメリカから帰って来た時も「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」として、世界各国で発売されていることは知っていたため、それに対して「すごいね」とは言ったものの、「よくやった」、「おめでとう」という言葉を、当時の坂本に言うことが出来なかった。作詞の永六輔や作曲の中村八大も、特に喜んでいる素振りもなく、普通にしていた、と後に語っている。 作詞者の永六輔自身は、レコーディングの時に歌い出しの「上を向いて……」の部分を初めて聴いて「ウエヲムーイテ」が「ウヘホムフイテ」に聞こえたといい、「何だその歌い方は!」と九に向かって激怒し、「これでは絶対ヒットしない」と言った。この独特の歌い方は、母がやっていた小唄と、プレスリーやバディ・ホリーの影響であるとも言われている。永六輔は後に、九の母が九に小唄や清元などの邦楽を教えたという話から、九と邦楽の歌い方を結びつけて考えるようになり、九の邦楽的な歌い方が、この歌の世界的なヒットと関係があると考えた。また、この坂本が編み出した独特の歌唱法は、当時はとても斬新で、個性的に捉えられた。 なお、本曲の間奏で流れる口笛も、口笛が得意だった坂本九本人が担当している。 1994年以後、日本の音楽教科書にも何度か掲載されている。
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日本でのヒット
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「ビューティフル・サンデー」の記事における「日本でのヒット」の解説
日本では当初キャニオン・レコードから発売された日本盤レコードは、全くといっていいほど売れず廃盤となったが、1975年11月からテレビ番組『おはよう720』(TBS)の「キャラバンII」のコーナーテーマとして起用されると、視聴者からの問い合わせやレコード化を希望する葉書が殺到した。それに伴い1976年に日本でTBSグループのディスコメイトレコードからシングルが再発売され、日本だけで再ヒットした。 同番組の海外(フランス・ドイツ)ロケの現地ドライバーが同曲が入ったカセットテープを車内でかけ続けたことで、番組スタッフの間で眠気が覚めてやる気になる曲だと評判になり、番組のコーナーテーマ曲に採用される。その後、視聴者からレコードの販売を希望する声が上がり、番組がレーベルを立ち上げて日本盤を発売した。2月末の放送でレコードのプレゼント告知を行ったところ、100枚分の募集に対して5日間で10万通以上の応募があった。 1976年3月10日に発売された日本盤はオリコンの総合シングルチャートで15週にわたり1位となり(オリコン洋楽チャートでは1976年3月22日付から21週連続1位、1976年度の年間1位も獲得)、約200万枚を売り上げた。オリコンの総合シングルチャートにおける洋楽アーティストの1位は、ニュー・シーカーズの「愛するハーモニー」以来4年ぶりのことであった。また、オリコン調べによる日本における外国人アーティストのシングル盤の記録としては、2016年12月現在破られていない。『オリジナル・コンフィデンス』誌に掲載された有線放送のリクエストランキングでも、1976年5月第4週に1位を記録している。 また、田中星児(ビクター盤。作詞:亜美ゆう、オリコン最高4位)とトランザム(作詞:松本隆、オリコン最高9位)の日本語版カバーもトップテンにランクインした。同曲のヒット中に『おはよう720』で田中星児が担当したユーゴスラビアロケが放送される。田中が現地で知り、同年2月に番組で紹介した曲「オー・マリヤーナ」をA面にしたレコードが企画され、3月中に急遽発売された。 この曲が日本でヒットした直前には、テレビ番組『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ)から誕生した「およげ!たいやきくん」が大ヒットしており、歌謡曲番組以外のテレビ番組からの大ヒットが続けて誕生することになった。石田達郎は、これらの曲(「およげ!たいやきくん」「ビューティフル・サンデー」「オー・マリヤーナ」)のヒットによりレコード会社の製作者の意識と大衆が求める歌のギャップが露呈した、さらにこれらの曲はテレビの視聴者からの発売を希望する声が殺到して、慌ててレコード会社が製作するという経緯をたどっており、黒い噂とは無縁の完全に大衆主導型のヒット曲だという趣旨を述べている。 田中は1976年末の『第27回NHK紅白歌合戦』で「ビューティフル・サンデー」を歌唱、番組では当時田中がお兄さん役を務めていた『おかあさんといっしょ』から『ゴロンタ劇場』のゴロンタ・トムトム・チャムチャム、そして当時再ブレイク中のトッポ・ジージョが応援役で出演した。さらに翌1977年春開催の「第49回選抜高等学校野球大会」の入場行進曲に採用され、田中が開会式にゲスト出演している。 1981年に日本の中学校の音楽教科書に掲載された。その後1986年からは日本の小学校の音楽教科書に何度か掲載された(1981年(中学校・音楽之友社)と2005年(小学校・東京書籍)は亜美ゆうの日本語詞で掲載)。
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日本でのヒット
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「ワルツ・フォー・デビイ」の記事における「日本でのヒット」の解説
日本では特に大ヒットし、LPやCDを含めた日本での累計売上は約50万枚に達する。日本のユニバーサルミュージックが2014年10月から期間限定で1枚1000円(税別)で販売したジャズカタログのシリーズ『ジャズの100枚。』においても本作が売上トップを記録した。2016年4月には日本レコード協会からゴールドディスクに認定されている。 2016年9月28日には、「録音55周年記念完全生産限定クリスタル・ディスク」が1セット20万円(税別)で販売され、同年末までに50セットを売り上げた。
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日本でのヒット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 00:15 UTC 版)
日本語にはあらかわひろしが翻訳し、ペギー葉山が1962年にこの歌をカバーした。ペギー葉山は、ブラジルのサンパウロでこの歌を知ったため、日本語とポルトガル語で歌っている。当時、日本では空前のカンツォーネ・ブームだったこともあり日本で大ヒットした。ペギーのバージョンは1963年10月頃から売れ始め、1964年には大ヒット曲になった。1964年の『第15回NHK紅白歌合戦』にペギーはこの歌で出演している。なお、ペギーの初期のバージョンは当初「泣きぬれて」というタイトルだった。ちなみに邦題は「涙の結婚」、「涙のウェディングベル」、「ザ・ウェディング」とカバーした歌手によって邦題が違う場合がある。
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日本でのヒット
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「Because I Love You (The Postman Song)」の記事における「日本でのヒット」の解説
この歌はTOKIO HOT 100において、1991年の年間チャート1位を獲得している。また、TVコマーシャルソング(JFEスチール、当時は川崎製鉄)として使用されたため知名度を得た。
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日本でのヒット
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スウェーデン盤の発売から2年後の1972年、この曲は日本で発売されてヒットした、一説には、ナンバー1のヒットとなり、50万枚を売り上げたともいわれるが、オリコンのチャートのデータによれば、週間チャート最高6位、18万8千枚以上を売り上げたとされている。このヒットによってビョルン&ベニーは、1972年11月に東京で開催された第3回世界歌謡祭に招かれ、この時ふたりはフリーダとアグネッタを一緒に連れて行った。 この曲が日本でヒットして当時、日本でのレコードレーベルであるCBS・ソニーに所属するスター歌手だった南沙織は、洋楽カバー・アルバム『哀愁のページ』でこの曲を取り上げた。
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