戦後の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
戦後、東京の内藤愛次郎は21cmの巨大輪「天津」(桃色無地)を選出し大輪朝顔復興のきっかけになった。京都半日会の伊藤穣士郎は戦前の多数の品種、特に黄蝉葉種を保存していた。中村によればこの中に黄蝉葉の団十郎も含まれてるとされる。名古屋朝顔会が昭和24年(1949年)、東京朝顔研究会が昭和26年(1951年)がいち早く再興され、その後各地の朝顔会が次々と復活していった。戦後長年にわたる泰平に恵まれて大輪朝顔は発展を遂げた。全国の朝顔会も戦前をしのぐ発展を遂げ、新たに発会する地方も多かった。東京朝顔研究会は1970年代には1000人弱に及ぶ会員数を誇った。2020年現在はそのようなブームは落ち着いているが、東京朝顔研究会をはじめ各地の朝顔会が活動中であり、黄蝉葉「団十郎」も栽培されている。
※この「戦後の歴史」の解説は、「団十郎朝顔」の解説の一部です。
「戦後の歴史」を含む「団十郎朝顔」の記事については、「団十郎朝顔」の概要を参照ください。
戦後の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:26 UTC 版)
1952年(昭和27年)5月28日 - 第1種漁港に指定される。漁港の区域水域:小動崎南端を中心として半径五百メートルの円内の海面及び神戸川最下流道路橋から下流の河川水面 陸域:水域円弧内の県道片瀬鎌倉線(県道を含まず。)から水際線までの地域 1987年(昭和62年)10月23日 - 航路標識として、腰越港防波堤灯台が置かれる。 1998年(平成10年)11月5日 - 「腰越のまちづくりを考える-鎌倉市腰越漁港改修検討委員会」が設置される。本港は、施設の老朽化や用地不足などの問題から、改修が必要となっており、鎌倉市がこれを検討してきた。そして、市民の意見を取り入れて改修計画を策定すべく、公募による市民6名、漁業関係者3名、学識経験者2名、神奈川県職員2名によって本委員会が設置された。この委員会の主催により、市民との意見交換会などが行われ、開発の方向性について一定の方針が固められた(外部リンクも参照のこと。)。 1999年(平成11年)9月 - 「腰越FISH & JAZZ」の第1回が行われる。腰越地区の町内会・商店会によって構成される「腰越まちづくり市民懇話会」と腰越漁協の主催によって行われているイベント。本港の用地を使って、特産品の販売や、鎌倉市出身のジャズピアニストらによるジャズの演奏などが行われる。1999年以降、毎年9月下旬または10月上旬に開催されている。 2001年6月 - 第三管区海上保安本部が、腰越漁協を「救命胴衣着用モデル漁協」に指定。遊漁船が多いことから、一般の釣り客の救命胴衣着用を推し進めるために指定された。また、この頃から、静岡県浜松市のスポーツ用品メーカー「ワイズギア」が、救命胴衣の開発にあたって、腰越漁協の漁師の協力を仰いでいる。
※この「戦後の歴史」の解説は、「腰越漁港」の解説の一部です。
「戦後の歴史」を含む「腰越漁港」の記事については、「腰越漁港」の概要を参照ください。
戦後の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 14:44 UTC 版)
敗戦後、日本のレコード業界は、さっそく各地に従軍や疎開していた歌手や作曲家・作詞家を呼び戻し始め、翌年から早くも活動を再開した。この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心し、デビューしたのが美空ひばりや並木路子など「第三世代」とでも呼ぶべき歌手である。特に並木と霧島昇がデュエットした「リンゴの唄」は戦後の解放的な雰囲気を謳歌する曲として有名である。 だがこのことが、戦前からの歌手にとっては明暗を分けることになった。特にあおりを大きく受けたのが初期の歌手である。昭和一桁の時代から歌い続けている彼らは、古いイメージから脱却しようとするレコード会社の意向にそぐわない存在であった。このため自然と冷や飯食いの待遇となり、多くの歌手が引退を余儀なくされた。移籍して活動を続ける者もあったが、戦前のようなヒットが飛ばせず苦しむことが多かった。戦後も変わらずヒットを飛ばすことが出来たのは藤山一郎などごくわずかな歌手のみである。一方、第二世代、昭和10年代中盤デビューの歌手らは、まだ若く、新時代でも活躍した。 また、レコード会社の陣容も変化した。コロムビア・テイチクの強さは変わらなかったが、ポリドールが東海林太郎の移籍と上原敏の戦病死により大きな柱を失い沈下してしまう。代わりに岡晴夫など第二世代の歌手を多く擁していたキングが台頭し始めた。この時期の3社の陣容は以下の通りである。 コロムビアには藤山一郎、霧島昇、伊藤久男、近江俊郎、美空ひばり、二葉あき子、山口淑子(旧李香蘭)(渡辺はま子はビクターへ移籍) テイチクには田端義夫、ディック・ミネ、淡谷のり子、菅原都々子 キングには岡晴夫、小畑実、津村謙、松島詩子 この新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続き、その中で藤山一郎と奈良光枝のデュエットによる「青い山脈」など、戦後流行歌が数多く生まれた。 終戦直後の混乱期に、各社で戦前の曲で戦時色のないものが再発された。戦争直後で混乱していたのか、松山時夫の「片瀬波」を誤って松平晃の曲として再発し、後世ファンを混乱させることもあった。 次第に若い戦後派の勢力が増し、音楽性も戦後の明るさを強調する目的から戦前とは違う発展を遂げ始めた。これに戸惑ったのが戦前派の歌手である。彼らの多くは昭和28年(1953年)を過ぎる頃からヒットが出にくくなってきた。特に流行歌界に衝撃を与えたのが、藤山一郎のレコード専属歌手としての引退宣言である。 初期歌手の中で最前線に立っていた藤山も、昭和28年以降ヒットが出づらくなっていた。さらに彼自身、今の流行歌界の現状に強い不信感をおぼえ「今の唄はパチンコ・ソングが多い」と批判していた。藤山は昭和29年(1954年)に引退を決意し、23年間のレコード専属歌手生活に終止符を打った。以降、本来の西洋古典音楽に戻り、NHKの音楽放送を通じてクラシック歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した。 こうして戦前派の歌手は昭和30年代半ばまで紅白歌合戦に出場していたとはいえ、ヒットの表舞台からほぼ去り、流行歌界は演歌系歌手の戦後派の天下となった。
※この「戦後の歴史」の解説は、「流行歌」の解説の一部です。
「戦後の歴史」を含む「流行歌」の記事については、「流行歌」の概要を参照ください。
- 戦後の歴史のページへのリンク