徳川家康に臣従後の概要
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「牛久保六騎」の記事における「徳川家康に臣従後の概要」の解説
戦国時代に、東三河において牛久保城主牧野氏と同等の勢力があったか否かは疑問が残るが、越後国長岡藩の伝説を記述した「温古之栞」によると、三河国牛久保城主の牧野新次郎(康成)は、徳川家康に(降伏を勧められて恭順し)安堵された所領を、牧野氏・真木氏・野瀬氏などと均分に分けたとしている。但し、この文言は、徳川氏に恭順後のものであり、牛久保六騎時代の同時代文書とは言いがたい。「温古之栞」の中には稲垣氏、山本氏、岩瀬氏に関する記述が含まれていないが、この三騎は徳川家康に臣従して、所領を直接安堵される一方で、牧野組の旗下に附属していたと推察される。 牧野山城守(定成)は子の康成(初名は正勝、通称半右衛門)とともに城主牧野成定より一足早い永禄8年(1565年)より家康に帰属。永禄9年8月8日(1566年(新暦)8月22日)旧知平井郷92貫文の地の所領安堵状を家康より賜る。子の半右衛門康成は酒井忠次麾下に属して戦功を積み、天正18年(1590年)武蔵国足立郡石戸(埼玉県桶川市大字川田谷)5,000石を給され、孫の信成(内匠頭)の時には譜代大名に列せられた。その末裔は丹後国田辺藩主となった。 稲垣氏は、永禄8年(1565年)、岡崎城の家康に召し出されて、その直参資格を得た。しかし1566年に牧野氏に稲垣長茂が帰参して、その家臣筆頭となった。1590年の徳川家康の関東移封に伴いその直参組となり、牧野氏から離れ、やがて譜代大名(志摩国鳥羽藩・近江国山上藩)に列した。庶流の稲垣平助家は、家康の旗本身分を兼帯して牧野氏に帰参し、稲垣惣領家の跡式を相続したものと推察され、後に越後長岡藩の家老首座連綿となり2,400石が与えられた。 山本氏の惣領家は、永禄8年(1565年)、岡崎城の家康に召し出されて、その直参資格を得た。1590年、徳川家康の関東移封に際して、家康の旗本身分を兼帯して牧野氏に帰参した。主な庶流は、越前国福井藩松平氏の上級家臣、志摩国鳥羽藩稲垣氏の永代家老、徳川将軍家の旗本(但し小禄)などとなった。山本氏については初代帯刀左衛門尉成氏の庶兄が山本勘助晴幸であるという伝承が長岡藩家老の山本帯刀家の由緒書きにあるが、旧牛久保領内の神社に異説があるなど事実関係は不明確であり、現状は伝承に留まる(→三河山本氏)。幕末の長岡藩、家老職・軍事総督であった山本帯刀義路は、藩の戦争責任をとる形で、斬首を受けた。山本帯刀家はこれで一度廃絶とされたが、後に家名再興を許され、高野家より入った養子五十六が家名を再興した。 岩瀬氏は大塚岩瀬氏庶流の岩瀬和泉守の家系が牛久保城主・牧野氏に付属していたが、永禄8年(1565年)より、和泉守の子の氏定と孫の氏則父子がともに家康に属して軍功を積み、氏則の子氏與(清助・吉左衛門)のとき徳川家直参旗本に取り立てられ1500石を知行した。それ以後、歴代は岩瀬吉左衛門と称した(直参旗本・岩瀬吉左衛門家)。吉左衛門家の分家として分出された幕末の幕府外交官岩瀬忠震は著名。また譜代大名大久保氏の1,000石級の重臣となって吉右衛門を通称した大塚岩瀬氏の末流があり、幕末の相模国小田原藩家老職岩瀬大江進正敬は、藩の責任を負って切腹している。 真木氏は、かつて牛久保六騎の中では、反徳川派で今川派の旗頭的存在として牧野氏に尽した。譜代大名となった牧野氏は、戦国大名今川氏(駿河方)に服属していた旧体制時代の真木氏の功績を尊重し、徳川氏に恭順した後も、牧野氏の客人分として厚遇した。牛窪記は、真木氏も家康と岡崎で謁見したとしているが、同書以外にこの事実を伝えている文献が存在しないため、謁見の事実があったか否か疑問視されている。真木氏は上野国大胡城在城期の牧野氏2万石から、その家老首座を大きく上回る3,000石を与えられたが、当時の当主は扱いや待遇の不満などから出奔する一方で、子息・一族は藩内に存続した。結局、真木氏は譜代大名牧野氏の家臣として分割・吸収され、越後長岡藩の先法家や上級家臣、信濃国小諸藩家老連綿、及び越後国三根山藩では永代家老に次ぐ家格などとなった。幕末の小諸藩家老職・真木要人則道は、藩の責任を負って斬首を受けた。 野瀬(能勢)氏の惣領家は、永禄9年(1566年)5月の家康公御判礼により、牛久保牧野家所属の諸士を掌握する。しかしその後、公儀に召し出され徳川直参の旗本となったが、その庶流は、真木氏と同じく越後長岡藩の先法家や上級家臣などとなった。また、『明智記』には永禄9年、越前国一乗谷の朝倉氏館で足利義昭の下に参集した武士(後の公方衆)の中に細川藤孝・一色藤長らとともに能勢丹波守の名が見える。また、寛政重修諸家譜・第272巻は能勢頼則の子孫が織田家の家臣となると記す。また、『牛窪密談記』の編者・中神行忠(善九郎)は能勢氏の末葉と同書に記す。
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