徳川家康と増善寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 06:29 UTC 版)
徳川家康(竹千代)が、今川義元の人質時代に増善寺の等膳(とうぜん)和尚とは岡崎時代から顔見知りということもあり、人質の身をよく理解してくれた等膳和尚を募ってよくこのお寺を訪れたという。ある日のこと、竹千代が増善寺を訪れ参道で鳥を捕っていると、村人が竹千代に向かって「この寺は殺生禁断(せっしょうきんだん)の寺だ、殺生するとはけしからん」と言って罵ったという。 竹千代は等膳和尚にこのことを告げると、和尚からも「むやみに鳥類を殺生することは仏の道に背くもの」として説教されたという。この時に竹千代は、「自分は父親の葬儀にも墓参りもすることなく、駿府に人質に来たため1度だけでもいいから岡崎に墓参に行きたい」と告げたという。このことを聞いた和尚は竹千代のために密かに持舟の港から岡崎に連れて行き無事帰途に着いて墓参を実現したと寺の記録に記されている。 等膳和尚はこの縁によって可睡斎の住職となり、駿河・遠江領内の曹洞宗を統括する「僧録(そうろく)の位を得たという(「可睡斎(かすいさい)文書」)。
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