徳川家康との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:32 UTC 版)
詳細は「上田合戦」を参照 天正11年(1583年)、昌幸は上杉氏に対する千曲川領域を抑える城が必要になり、徳川家康の命で川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地に松尾城(後の上田城)と、その周囲に当時流行の城下町も築いた。また、同時期には北条氏と通じていた一族である根津昌綱を懐柔、近隣の屋代秀正、室賀満俊らを調略し、丸子氏を滅ぼしている。これら一連の活動は徳川家の家臣として行なっているが、昌幸は家康との和睦条件の齟齬から独立を策していたとされている。 天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いが起こり、家康は主力の指揮を執り尾張国に向かい、昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留した。昌幸は家康の注意がそれたのを見て、吾妻衆に上野白井城を計略を以て攻めさせ、沼田城周辺で北条氏と小競り合いを繰り返している間に、知行宛行状を濫発して沼田・吾妻の所領を改めて確保し、さらに室賀正武を殺害し、徳川を刺激しないため正武の妻子の命は助けて、上杉に引渡した。この事件は真田による謀殺ではなく、昌幸を暗殺しようとした室賀を返討ちにした事件として噂が広められた。こうして沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握した。当時佐竹義重、宇都宮国綱の連合軍と沼尻の合戦を展開していた氏政、氏直父子は、昌幸の動きを警戒しており、主要街道の確保に躍起になっていた。 家康は12月に羽柴秀吉と和議を結んで尾張から撤兵する。そして北条氏直から和議の条件の履行を迫られたため、天正13年(1585年)4月、甲府に軍を進めて昌幸に対し沼田領を北条氏に引き渡すように求めた。しかし昌幸は相応の替地が宛がわれない限りは引き渡しに応じないと拒否。家康は浜松城に引き返した。 昌幸は家康との手切れを決断し、徳川軍の侵攻に備えて7月15日に次男の信繁を人質にして上杉景勝に従属する。閏8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、藤田氏邦を沼田城に侵攻させた。昌幸はわずか2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめている(第一次上田合戦)。結城晴朝のもとに上田の戦勝の知らせが届いた時にはその数字は2千人に膨れ上がり、晴朝は「誠に心地好き次第」として喜んだ。この上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも2度以上あったとされる。一方、家康は上田の敗戦を受けて、北条氏との同盟強化に乗り出さなければならなかった。また、氏直は沼田攻めを手掛けるも、落とせなかった。
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