安城合戦後の流れ
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信広が捕縛されて今川氏の人質となったため、織田氏の人質となっていた竹千代と信広とが交換された。竹千代が生きて三河に戻ったことにより松平宗家は断絶を免れ、広忠の今川氏に対する忠義は報いられた。しかし、義元は竹千代を岡崎城に置くことを良しとせず、すぐに駿府へ人質として送らせた。これより義元は三河切り取りの仕上げに取り掛かり、西三河を自己の勢力圏に取り込んでいく。 まず安城城に天野景泰、井伊直盛らを城番として置き、岡崎城にも山田景隆を城代として派遣した。また水野氏とは一旦和議が成り、刈谷城を返還した。(緒川城主水野信元の弟である刈谷城主水野信近は、一旦、今川氏に服属したのち再び今川氏に反旗を翻して織田方へ寝返ったとされ、最終的に水野氏を恭順させることには失敗した。信近はこのために今川家臣岡部元信により攻め滅ぼされた)。 また、尾張と三河の国境地域に所領を有していた丹羽氏清は天文19年(1550年)までに今川氏に下っており、翌天文20年1551年には、今川方に与していた東条松平家の松平甚二郎が俄かに逆心するも、すぐさま所領を追われ東条松平家は弟の松平忠茂が継いだ。この年、信秀が死去すると家督を継いだ織田信長は、同年丹羽氏の内紛に介入して氏清と子の氏識を攻め、愛知郡横山で戦ったが、これに敗れた。更に同年、信長を見限った鳴海城主山口教継と桜中村城主山口教吉の父子が今川方に寝返った。 信長は天文21年(1552年)に教吉を攻め赤塚の戦いが発生するが、これを打ち破ることができず引き分けに終わった。その後、山口教継は大高城を攻略したうえ、沓掛城主近藤景春を調略して、これを今川方へ転じさせた。さらに知多郡西北部に位置する寺本城の城主花井氏が今川方に下り、天文23年(1554年)には、碧海郡に残されていた重原城も今川氏の手に落ちた。今川氏は水野氏宗家を屈服させるために村木砦を築いて緒川城を圧迫、窮地に陥った水野信元は織田氏に救援を要請し、村木砦の戦いで信長が勝利したことにより緒川城は危機を脱した。 織田方は知多郡において水野氏の危機を救ったものの、碧海郡の要域や尾三国境地域はこのとき既に今川方の手に落ちていた。このため織田方に与していた加茂郡西部の国衆は今川方の圧迫に晒され次々と臣従しており、天文23年(1554年)には、織田氏の西三河北部における重要拠点であった西広瀬城が今川方の東広瀬城主三宅高貞等、三宅氏の諸将によって攻略された。 さらに義元は翌弘治元年(1555年)に、三河衆を長駆、尾張国海東郡に派遣し、西側より織田氏の勢力を脅かした。三河衆は今川方に与した同国海西郡荷ノ上の服部友貞と共に蟹江城を攻め、これを落とした(この際、大久保忠俊を始めとする戦功著しかった者達が蟹江七本槍と呼ばれる)。このような安城合戦後の一連の流れによって、以前とは逆に今川氏の勢力が尾張に入り込むことになった。 だが、順調かに見えた今川氏の三河経略も奥三河において綻びが生じる。同年9月、美濃国岩村・明智の両遠山氏の支援を受けて足助鈴木(鱸)氏が蜂起、これに加茂郡広瀬の三宅高貞が同調した他、大給松平家の松平親乗も今川氏に叛旗を翻した。これに対して義元は同月中に遠江衆を動員して親乗討伐に向かわせるが退けられた。 このような情勢下、翌10月には、天文18年の戦いの折りに今川方に降伏し許されていた吉良義安が俄かに反旗を翻し、織田方へ通じた。義安は天文18年に屈伏したのち今川の部将として軍役に服し、義元もこれに融和的態度を取っており、前年の天文23年には義元のはからいにより、東条吉良氏の家督に併せて西条吉良氏の家督も継ぎ、両吉良氏の合一を成していた。その他にも義安は、弘治元年3月の竹千代の元服の際には理髪役を務めていたのだった。それにもかかわらず義安は家臣より離反の進言を受け、突如として緒川の水野氏の軍勢を西条城へ引き入れたのだった。だが、吉良氏の勢力の内、荒川・幡豆・糟塚・形原の諸城はこれに同調せず、今川氏への恭順を維持した。 一方加茂郡では、翌弘治2年(1556年)正月に今川方であった滝脇松平家の松平乗遠の嫡男松平正乗が松平親乗との合戦で討死した。このころ酒井忠尚も謀反したが、こちらは同年2月中には今川方へ帰順した。しかし翌3月末、松平親乗の攻撃をうけた滝脇城が陥落し、松平乗遠とその父である松平乗清の両名が討死した。 また同じく3月には、織田信長が幡豆郡荒川城を攻めた。東条松平氏の寄騎であった松井忠次は、碧海郡野寺原にてこれを迎撃、この際の戦功により忠次は義元より感状を与えられた。また織田方は加茂郡西部へも侵攻しており、三宅氏の梅坪城を攻略して、弘治2年(1556年)に城代を置いた。さらに同年、織田家臣柴田勝家も福谷城を攻めたが、守将の酒井忠次、原田氏重らはこれをよく守り、今川方が大久保忠勝らを援軍として送ると、勝家はこれに押されて敗走した。 この他、弘治2年には設楽郡作手亀山城の奥平貞勝が織田方の調略を受けた。貞勝は菅沼氏総領家にあたる田峰城主の菅沼定継や奥平氏の支族と共に今川氏に反旗を翻し(貞勝本人に今川氏へ叛意はなかったものの息子の奥平貞能らを筆頭に家中が反今川となったためこれを抑えられなかった)、同年2月、今川方の秦梨城を攻略した。これに対し義元は討伐の軍を送り、貞勝の弟奥平貞直の拠る日近城を攻めるが奥平氏は籠城戦の末に撃退、この時、今川方の松平忠茂が討死した。一旦は今川方の軍勢を退けた貞勝であったが、奥平氏の所領は尾張から離れており縁戚の他に援軍は望めず、さらに同年4月に斎藤道三が息子の斎藤義龍によって討たれたことで(長良川の戦い)、織田家に内訌が生じる(稲生の戦い)など情勢も悪く、義元が菅沼定村(野田菅沼氏)や本多忠俊、戸田宣光ら東三河衆の諸将を奥平氏討伐に差し向けると形成は一挙に不利となった。 同年8月、奥平氏の重臣阿知波氏が守る額田郡雨山城が今川方に攻撃を受け、菅沼定村を討ち取るも、本多忠俊の手勢により城は奪われた。貞勝は亀山城に退くが奥平氏に勝ち目なく貞勝は謀叛から半年程で今川方に帰順、義元に赦免を乞うた。さらに同月下旬、同心していた菅沼定継は今川方に与した弟の菅沼定直により討たれ、蜂起は鎮定された。このような情勢を受けて同年後半には足助鈴木(鱸)氏も今川方へ下り、松平親乗も同年中に帰参して翌弘治3年には駿府へ伺候した。 また、弘治元年に今川氏に反逆した吉良義安も、弘治3年(1557年)までに今川方に降り、義元によって再び赦免された。三河国内の反今川蜂起は概ね平定され、同年4月には今川と織田の和議が三河国上野原にて執り行われた。この際、義安は義元によって三河国主として担ぎ出され、織田方の尾張守護斯波義銀らと共に参会したが、両者の席次争いによって和睦儀礼が成立しないという事態が生じた。和睦が不首尾に終わったことで義安は面目を失い、信長の庇護を求めて尾張へ出奔した。しかし、義安は信長に不満を抱いていた義銀および尾張国戸田城の石橋氏と謀って、荷之上の服部党と共に海上より今川勢を尾張国内に引き入れようとした。だがこの策略は半ばにして露見し、三者は尾張を追放された。尾張を追われた義安は義元を頼ったが、二度も敵意を示したことを重く見た義元は義安を助命こそしたものの、その身柄は駿府へ連行され、義安は幽閉の身となった。結果、弘治3年10月には西条城は今川氏に接収され城代が置かれた。義元は義安の弟である吉良義昭を東条城に入れ吉良氏は断絶を免れたが、西条領は押収され、今川の直轄領となった。 一方で三河北部では、永禄元年(1558年)に寺部城主鈴木(鱸)重教が謀叛し織田方に寝返った。これに三宅高貞が同心すると三宅一族の諸家も従った。対して義元は松平元康を将とする三河衆を討伐に派遣し(この戦いが元康にとっての初陣であった)、元康は火攻めを用いて寺部城を攻略、鈴木氏は再び今川氏に臣従した。さらに元康は中条氏の衣城を落とし、織田方に攻略されていた梅坪城を奪還すると、三宅正貞が守る伊保城を下し、三宅高貞の拠る東広瀬城も攻略した(正貞と高貞は同じ三宅氏ではあるが別流であるとされ、これ以後、正貞らは今川氏へ帰順したが、高貞は従わず、東広瀬城はのちに高貞が奪還したともされる)。この時西広瀬城も元康の攻撃を受けたとされる。元康によって加茂郡西部の大部分は再び今川氏の手に帰し、義元は元康の武功を賞して三河山中の地と太刀を与えた。また同年5月には岩村遠山氏が設楽郡名倉の岩小屋城まで出兵したが、今川方の作手奥平氏の手勢に打ち払われた。これに加えて、同年中には、松平家次の守る尾張国品野城も織田方による攻撃を受けるが、城兵の逆襲により大勝した。 安城合戦後、三河における織田方の勢力は退潮が明らかとなり、さらに尾東や知多郡においても勢力が動揺、三河南部および北部への勢力再拡大の試みも挫かれた。情勢は完全に今川方有利に傾き、織田氏は苦境に立たされた。そして、翌永禄2年(1559年)、義元は山口教継・山口教吉父子を駿府へ召し出し、これを切腹させた。これにより、山口氏の領地は接収され、鳴海・大高の両城はともに今川氏直属となった。 信長は、今川方の動きに対抗して鳴海城周辺に丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、さらに大高城近傍には丸根砦・鷲津砦を築き、三河方面との連絡を遮断した。このため、鳴海・大高の両城は窮地に陥り、知多郡北部において今川の勢力は封じ込まれた。今川方が、これを救援する為に発生した戦役が桶狭間の戦いであるとも言われている(鳴海城、大高城は愛知県名古屋市緑区鳴海町と大高町)。
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