安城合戦後の流れとは? わかりやすく解説

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安城合戦後の流れ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:51 UTC 版)

安城合戦」の記事における「安城合戦後の流れ」の解説

信広が捕縛され今川氏人質となったため、織田氏人質となっていた竹千代と信広とが交換された。竹千代生きて三河戻ったことにより松平宗家断絶免れ広忠今川氏対す忠義報いられた。しかし、義元竹千代岡崎城に置くことを良しとせず、すぐに駿府人質として送らせた。これより義元三河切り取り仕上げ取り掛かり西三河自己の勢力圏取り込んでいく。 まず安城城天野景泰井伊直盛らを城番として置き、岡崎城にも山田景隆城代として派遣した。また水野氏とは一旦和議成り刈谷城返還した。(緒川城主水信元の弟である刈谷城主水野信近は、一旦、今川氏服属したのち再び今川氏反旗を翻し織田方へ寝返ったとされ、最終的に水野氏恭順させることには失敗した。信近はこのため今川家岡部元信により攻め滅ぼされた)。 また、尾張三河の国境地域に所領有していた丹羽氏清天文19年(1550年)までに今川氏下っており、翌天文20年1551年には、今川方に与していた東条松平家松平二郎俄かに逆心するも、すぐさま所領追われ東条松平家は弟の松平忠茂継いだこの年信秀死去する家督継いだ織田信長は、同年丹羽氏内紛介入して氏清と子の氏識を攻め愛知郡横山戦ったが、これに敗れた。更に同年信長を見限った鳴海城山口教継中村城山口教吉父子今川方に寝返った信長天文21年(1552年)に教吉を攻め赤塚の戦い発生するが、これを打ち破ることができず引き分け終わったその後山口教継大高城攻略したうえ、沓掛城近藤景春調略して、これを今川方へ転じさせた。さらに知多郡西北部位置する寺本城の城主花井氏が今川方に下り天文23年1554年)には、碧海郡残されていた重原城も今川氏の手落ちた今川氏水野氏宗家屈服させるために村木砦築いて緒川城圧迫窮地陥った水野信元織田氏救援要請し村木砦の戦い信長勝利したことにより緒川城危機脱した織田方は知多郡において水野氏危機救ったものの、碧海郡の要域や尾三国境地域はこのとき既に今川の手落ちていた。このため織田方に与していた加茂郡西部国衆今川方の圧迫晒され次々と臣従しており、天文23年1554年)には、織田氏西三河北部における重要拠点であった西広瀬城が今川方の東広瀬城三宅高貞等、三宅氏諸将によって攻略された。 さらに義元は翌弘治元年1555年)に、三河衆長駆尾張国海東郡派遣し西側より織田氏勢力脅かした三河衆今川方に与した同国海西郡荷ノ上の服部友貞と共に蟹江城攻め、これを落としたこの際大久保忠俊始めとする戦功著しかった者達が蟹江七本槍呼ばれる)。このような安城合戦後の一連の流れによって、以前とは逆に今川氏勢力尾張入り込むことになった。 だが、順調かに見えた今川氏三河経略奥三河において綻び生じる。同年9月美濃国岩村明智の両遠山氏支援受けて足助鈴木()氏が蜂起、これに加茂郡広瀬三宅高貞が同調した他、大給松平家松平親乗今川氏叛旗翻した。これに対して義元同月中に遠江衆を動員して親乗討伐向かわせる退けられた。 このような情勢下、翌10月には、天文18年戦い折り今川方に降伏し許されていた吉良義安俄かに反旗を翻し織田方へ通じた義安天文18年屈伏したのち今川部将として軍役服し義元もこれに融和的態度取っており、前年天文23年には義元はからいにより、東条吉良氏家督併せて西条吉良氏家督継ぎ、両吉良氏合一成していた。その他に義安は、弘治元年3月竹千代元服の際には理髪役を務めていたのだったそれにもかかわらず義安家臣より離反進言を受け、突如として緒川水野氏軍勢西条城引き入れたのだった。だが、吉良氏勢力の内、荒川幡豆・糟塚・形原諸城はこれに同調せず、今川氏への恭順維持した一方加茂郡では、翌弘治2年1556年正月今川であった滝脇松平家松平乗遠嫡男松平正乗が松平親乗との合戦討死した。このころ酒井忠尚謀反したが、こちらは同年2月中には今川方へ帰順した。しかし翌3月末、松平親乗攻撃をうけた滝脇城が陥落し松平乗遠とその父である松平乗清両名討死した。 また同じく3月には、織田信長幡豆郡荒川城を攻めた東条松平氏寄騎であった松井忠次は、碧海郡野寺原にてこれを迎撃この際戦功により忠次義元より感状与えられた。また織田方は加茂郡西部へ侵攻しており、三宅氏梅坪城を攻略して、弘治2年1556年)に城代置いた。さらに同年織田家臣柴田勝家福谷城を攻めたが、守将の酒井忠次原田氏重らはこれをよく守り今川方が大久保忠勝らを援軍として送ると、勝家はこれに押され敗走したこの他弘治2年には設楽郡作手亀山城奥平貞勝織田方の調略受けた。貞勝は菅沼氏総領家にあたる田峰城主の菅沼定継奥平氏支族と共に今川氏反旗を翻し(貞勝本人に今川氏叛意はなかったものの息子奥平貞能らを筆頭家中が反今川となったためこれを抑えられなかった)、同年2月今川方の秦梨城攻略した。これに対し義元討伐の軍を送り、貞勝の弟奥平貞直の拠る日近城攻めるが奥平氏籠城戦の末に撃退、この時、今川方の松平忠茂討死した。一旦は今川方の軍勢退けた貞勝であったが、奥平氏所領尾張から離れており縁戚の他に援軍望めず、さらに同年4月斎藤道三息子斎藤義龍によって討たれたことで(長良川の戦い)、織田家内訌生じる(稲生の戦い)など情勢悪く義元菅沼定村野田菅沼氏)や本多忠俊戸田宣光東三河衆の諸将奥平氏討伐差し向ける形成一挙に不利となった同年8月奥平氏重臣阿知波氏が守る額田郡雨山城今川方に攻撃を受け、菅沼定村討ち取るも、本多忠俊の手勢により城は奪われた。貞勝は亀山城に退くが奥平氏勝ち目なく貞勝は謀叛から半年程で今川方に帰順義元赦免乞うた。さらに同月下旬同心していた菅沼定継今川方に与した弟の菅沼定直により討たれ蜂起鎮定された。このような情勢受けて同年後半には足助鈴木()氏も今川方へ下り松平親乗同年中に帰参して翌弘治3年には駿府伺候したまた、弘治元年今川氏反逆した吉良義安も、弘治3年1557年)までに今川方に降り義元によって再び赦免された。三河国内の今川蜂起概ね平定され、同年4月には今川織田和議三河国上野原にて執り行われた。この際義安義元によって三河国主として担ぎ出され織田方の尾張守護斯波義銀と共に参会したが、両者席次争いによって和睦儀礼成立しないという事態が生じた和睦不首尾に終わったことで義安面目を失い信長庇護求めて尾張出奔した。しかし、義安信長に不満を抱いていた義銀および尾張国戸田城の石橋氏と謀って、荷之上の服部と共に海上より今川勢を尾張国内に引き入れようとした。だがこの策略半ばにして露見し三者尾張追放された。尾張追われ義安義元頼ったが、二度敵意示したことを重く見た義元義安助命こそしたものの、その身柄駿府連行され義安幽閉の身となった結果弘治3年10月には西条城今川氏接収され城代置かれた。義元義安の弟である吉良義昭東条城入れ吉良氏断絶免れたが、西条領は押収され今川直轄領となった一方で三河北部では、永禄元年1558年)に寺部城主鈴木()重教が謀叛織田方に寝返った。これに三宅高貞が同心すると三宅一族諸家従った対して義元松平元康を将とする三河衆討伐派遣し(この戦い元康にとっての初陣であった)、元康火攻め用いて寺部城攻略鈴木氏は再び今川氏臣従した。さらに元康中条氏の衣城を落とし織田方に攻略されていた梅坪城を奪還すると、三宅正貞が守る伊保城を下し三宅高貞の拠る広瀬城攻略した(正貞と高貞は同じ三宅氏ではあるが別流であるとされ、これ以後、正貞らは今川氏帰順したが、高貞は従わず、東広瀬城はのちに高貞が奪還したともされる)。この時西広瀬城も元康攻撃受けたとされる元康によって加茂郡西部大部分は再び今川氏の手帰し義元元康武功賞して三河山中の地と太刀与えた。また同年5月には岩村遠山氏設楽郡名倉岩小屋城まで出兵したが、今川方の作手奥平氏の手勢に打ち払われた。これに加えて同年中には松平家次の守る尾張国野城織田方による攻撃を受けるが、城兵逆襲により大勝した安城合戦後、三河における織田方の勢力退潮が明らかとなり、さらに尾東や知多郡においても勢力動揺三河南部および北部への勢力再拡大試みも挫かれた。情勢は完全に今川有利に傾き織田氏苦境に立たされた。そして、翌永禄2年1559年)、義元山口教継山口教吉父子駿府召し出し、これを切腹させた。これにより、山口氏領地接収され鳴海大高両城はともに今川氏直属となった信長は、今川方の動き対抗して鳴海城周辺丹下砦善照寺砦中嶋砦を、さらに大高城近傍には丸根砦鷲津砦築き三河方面との連絡遮断したこのため鳴海大高両城窮地に陥り、知多郡北部において今川勢力封じ込まれた。今川方が、これを救援する為に発生した戦役桶狭間の戦いであるとも言われている(鳴海城大高城愛知県名古屋市緑区鳴海町大高町)。

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