東条松平家とは? わかりやすく解説

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東条松平家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/23 00:24 UTC 版)

東条松平家(とうじょうまつだいらけ)は、清和源氏新田氏松平氏の庶流。始祖は松平宗家5代目・松平長親の三男・義春三河国東条城を居城とし東条松平家と呼ばれた。青野松平家とも。十四松平・十八松平の1つに数えられる。


  1. ^ 徳川家康四男
  2. ^ 吉良義尭・二男
  1. ^ 林董一編『尾張藩家臣団の研究』(名著出版、1980年)128頁及び166頁。
  2. ^ 中村孝也『家康の族葉』(講談社、1965年)140頁
  3. ^ 鈴木悦道『新版 吉良上野介』(中日新聞本社、1998年)81 - 82頁、この中で鈴木悦道氏は「義春が幼い吉良持清を後見した」とする見方を、更に義春の孫・家忠が東条城入城後にその様に言ったものであると説明。
  4. ^ 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)543頁。この中で筆者は「三河志」の碧海郡下青野村の条を引いて、義春の本拠地を碧海郡青野と推定
  5. ^ 『日本歴史地名大系 23 - 愛知県の地名』(平凡社、1981年)716頁。額田郡下六栗村(現・幸田町六栗)の項で同村が中世にははじめ吉良東条氏の支配下にあったが、その後松平義春の支配に移ったとして、その根拠文書として大永3年9月19日羽角馬頭天王宛寄進状(原典『幡豆郡神社誌』)を挙げる。この寄進状には、かつて幡豆郡に属した下六栗村花籠の地より永楽銭二十貫文を羽角馬頭天王社に進納する内容と実名「義春」の署名・花押がある。但し、姓氏の記載はない。
  6. ^ 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)547-548頁・所収文書、「岡崎城代山田隆景等連署血判起請文」(今川観泉寺文書)および同書の549-550頁の解釈文。
  7. ^ 新井白石(原著)『新編 藩翰譜 第二巻』人物往来社、1967年)松井氏の項、新井白石はこの冒頭に松井忠直を「東条家の家人」と指摘している。
  8. ^ 堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜 第六』(続群書類従完成会、1984年)巻第三百七十三、松井称松平の康親の項。
  9. ^ 堀田正敦等編『新訂 寛政重修諸家譜 第二』続群書類従完成会、1964年、『寛政譜』巻第九十二・吉良氏の項。「養寿寺本」は青山善太郎『西尾町史(上)』(国書刊行会、1988年、204頁)の平坂町上矢田・養寿寺所蔵「吉良氏系図」の義春の部分、所伝は「東條宮内少輔、号善念寺殿」とのみ註す。


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