おく‐じょうるり〔‐ジヤウルリ〕【奥浄瑠璃】
奥浄瑠璃
名称: | 奥浄瑠璃 |
ふりがな: | おくじょうるり |
芸能工芸区分: | 芸能 |
種別: | 音楽 |
選択年月日: | 1961.03.31(昭和36.03.31) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 室町時代中期に生まれて各地で盛んに行なわれていた古浄瑠璃は、江戸時代に至り、義太夫節が確立されるとともにしだいにそれに吸収され、今日ではほとんどその姿を消してしまった。しかし奥州の仙台地方を中心として定着していた奥浄瑠璃【おくじょうるり】は、多少の転訛【でんか】があるものの古浄瑠璃の面影を遺して今日まで伝承されている。 三味線渡来以前の古浄瑠璃は琵琶や扇拍子で語られていた。奥浄瑠璃においても今では三味線を用いているが、芭蕉の「奥の細道」の中に、琵琶で語られていたという記事がある。また、伝承曲目中に「牛若東下り」「阿弥陀胸割【あみだのむねわり】」など古浄瑠璃系統のものがある。 演奏は、冬期の農閑期に、部落、部落をめぐって行なわれていたが、浪曲の隆盛とともにしだいに忘れられ、現在ではめったに演奏されなくなった。今、これをすぐに演奏できる人は岩手県在住の北峰一之進(芸名精悦)のみである。 |
奥浄瑠璃
奥浄瑠璃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 07:39 UTC 版)
『田村三代記』でも御伽草子のあらすじと近い形で誕生するが、物語の末尾で小林姫は93歳まで大往生すると、奥州南部岩手郡へと飛んで、小林寺の地蔵菩薩として化現し、末世まで人々を救ったと締め括られる。
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奥浄瑠璃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:41 UTC 版)
「だんぶり長者」の物語は、奥羽地方の盲人たちによって語られてきた琵琶や三味線などを伴奏にする奥浄瑠璃などで、神仏・社寺の縁起を説いた本地物の一つとして、江戸時代に語られていた。現在3種の写本が知られている。「檀毘尼長者之本地」、「鹿角郡田山村檀毘盧長者之本地」、「檀毘尼長者本地」が知られている。成田守の『奥浄瑠璃の研究』(1985年)では翻刻・解題あるいは諸本の比較検討が行われている。 「檀毘尼長者本地」(南部叢書)の解題で金田一京助は「表題の檀毘尼あるいは壇毘尼は、古書に『だんぶり』を往々として『だんびる』とあるからこれもそうよむのであろうが、尼を『ら・り・る』に読むことは難しい。筆録者の誤りであったか、それとも転写の誤りで、あるいは盧であるまいか。毘盧遮那などの毘盧をもって、だんぴるに当てたのが、盧の略体から偶然尼に転写されてきたものか」としている。 元来この伝説は、地元に伝わる素朴な昔話と中世独特の本地垂迹説を受けた神社縁起と物語(古浄瑠璃)とを習合してできた奥浄瑠璃「檀毘盧長者之本地」があって、この地方を漂泊した下級宗教人(山伏、修行僧)や座頭たちによって語られたため、巷間に伝わったものと考えられる。後世地元では度重なる火災で古記録を焼失してしまった為、南部藩に提出する公式記録等もこのフィクションに依らざるを得なかったものと考える。 菅江真澄は「けふのせばのの」で1785年(天明5年)の条で、小豆沢の大日堂の建立由来譚や、奥浄瑠璃の檀毘盧長者之本地譚に近い話を記録している。また『奥々風土記』や『鹿角由来記』にもこれに類する話が記載されている。昔話・伝説の檀毘盧長者之本地譚は秋田県鹿角市に2例、能代市二ツ井町に1例、男鹿市羽立に1例、岩手県安代町に1例、山口県佐波郡に1例確認されている。山口県の昔話は『泉長者』と言われている。
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