城の構造
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真里谷城の構造は、房総丘陵の尾根上に築かれた丘陵城郭で、中世日本で見られる山城の特徴を持つ。日本国内が戦国時代に入るより前の時代の関東争乱期に築城され、戦国末期に登場する城と比較すると古いタイプの城郭である。城の規模は東西400メートル、南北700メートル程の規模で、縄張は多郭雑形形式で最南部に主郭があり、主郭から北西方向の尾根上に曲輪群が二の郭、三の郭、四の郭と展開されている。 主郭は城の最南部に位置し、通称「千畳敷」とも呼ばれる詰の曲輪と城山神社社地を主とし、その周囲を腰曲輪で囲んだ曲輪群で構成されている。千畳敷は主郭の中心位置にあたり、長方形型の東西50メートル、南北70メートル程度の広さの平坦な曲輪で、土塁で囲って防御性が高められている。特に東側には約7メートル程の高さの大土塁が設置されている。主郭北の土塁の下に城山神社が鎮座する。 二の郭は主尾根から南西方向に張り出した支尾根上に設けられており、主郭と二の郭は大堀切で隔てられている。さらに二の郭は堀切によって北東と南西の2つの曲輪に分断されている。この堀切は三の郭と大堀切とを結ぶ堀底道として使用されていたと考えられ、ここに主郭に入る手前の防御施設として木戸口を設置していたと考えられている。 三の郭は主尾根から西南西方向に張り出した支尾根上に設けられ、二の郭と三の郭、三の郭と四の郭との間は支谷で区切られている。三の郭は四の郭との中間にある支谷を登る大手道を防御する役割を有する。四の郭は城址の北端に位置し、出郭的なものであったと考えられる。
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 13:47 UTC 版)
台地の南隅、主郭にあたる曲輪1には東北と西北に土塁、西北と西南に空堀、そして東南の斜面には二段ずつの腰曲輪がある。曲輪2は城内で最も広い面積を占め、外郭と思われる。曲輪3と4はL字型の空堀により分断される。曲輪1と2に面する空堀に土塁があり、曲輪3の南斜面に二~三段の腰曲輪がある。曲輪3と4の北斜面に細長い腰曲輪が2~3段ある。曲輪1の虎口が東南と西北にある。
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 16:26 UTC 版)
四王寺山(標高410メートル)の中腹(標高291メートル)にある。現在は堀切や土塁が残る。
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 08:32 UTC 版)
天竜川と二俣川が合流する手前で形成している蜷原台地の先端部、現在城山と呼ばれている小山に築城されている。台地自体の標高は40メートル、本丸の標高は80メートル、比高は40メートルほどとなる。山を階段状に削り取り、北側から南側に外曲輪・北曲輪・本丸・二の丸・蔵屋敷・南曲輪を配置している(いわゆる連郭式山城)。城の東側は険しく、西側も天竜川で隔てられており、しかも切り立った岩盤上に城は立地している。ただし、ゆえに水の確保が難しく、川からの取水が必要となった。虎口は遺構が明らかになっていないが、城の南西部に開いていたと想定されている。 天守台に石垣が使われており、他の土塁部分にも上部などに石垣が使われていた形跡が残っている。天守台の築造時期については、大久保忠世が武田勢と対峙していた天正3年から10年ころまでと想定され、家康による浜松城の改修と時期を同じにすることもあり共通した部分が多く見られる。石垣は野面積み、天守の隅石には当時の先端の積み方である算木積みが用いられている。石には当地で掘り出される石灰岩が使用されており、石の加工が容易なこともあり浜松城の石垣より丁寧に加工されている。
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 10:19 UTC 版)
衣ヶ浦(ころもがうら、三河と知多半島の間に位置する入江)の北端東岸に面して築かれ、西から順に本丸、帯曲輪、さらに、入江のない他の三方に堀が巡らされて二の丸、三の丸と続き、三の丸東側に大手門が置かれていた。天守はなかったが、北西と南東に隅櫓があり、周りを土塀で囲んで本丸を形成、二の丸との間には内堀と馬出しが設けられていた。
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 15:11 UTC 版)
丘陵部の市街化が進んで地形が大規模に変わっており、表面からわかる遺構は少ない。Eの字の縦棒にあたる場所が城の中心で、開発で破壊されるまでそこに東西50メートル、南北80メートルほどの平場があったという。さらにその東南部、西南部に3段の平場があった。 E字の下の横棒にあたる尾根は隣接する住宅団地の造成により上面が削り取られ、中の横棒との間にあたる谷は埋め立てられている。 E字型の真ん中の横棒にあたる尾根だけが、1995年(平成7年)に発掘された。そこは城の主体部ではなかったが、尾根の上面が幅10メートル余の平らな場所になっており、北の谷に面して土塁が設けられていた。南の谷に面する傾斜には、細長い平場が上・中・下の3段作られていた。平場に上から降りていく傾斜路もあった。尾根の先端では、さらに2段、低い位置に平場があり、2番目の平場は南斜面の細長い平場のうちいちばん低い所に続いていた。尾根の上には掘立柱建物2棟の柱跡が見つかり、他にも柱列が複数あった。 E字の上の横棒にあたる尾根は、未発掘ではあるが、上面に土塁の跡らしいものがある。 上と真ん中の尾根が連結する部分では、谷をさらに延長して西へ掘り下げているのが、地表から観察できる。その北に接する虎口らしき地形の防備か、切り通しの可能性がある。
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 16:16 UTC 版)
城は二つの同心円から成り、同心円の中心の城塞の円周は400メートルである。 また、かつては城を周囲10キロメートルを囲む50フィート(約15メートル)、厚さ25フィート(約7.6メートル)の 花崗岩でできた城壁があった。その中に都市やイブラーヒーム・ラウザ(イブラーヒーム・アーディル・シャー2世の霊廟)やゴール・グンバズ(ムハンマド・アーディル・シャーの霊廟)も建築されるなど、城を中心に城郭都市が建設されていた。 城壁には鉄あるいは真鍮製の重砲が装備されており、城を攻めたムガル帝国の軍勢はこれにより甚大な被害を受けることとなった。 堀の深さは3メートルとされているが、現在では泥が堆積しているため、その深さは不明瞭である。 ガガン・マハル メフタール・マハル ビジャープルの重砲
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/19 16:24 UTC 版)
小規模ではあるが技巧的な城館として残されている。南端Iにある主郭は、県道の改修時に発掘調査が行われ、三分の一程度が削り取られている。主郭の周りは土塁と空堀がめぐっており、曲輪IIも土塁が全周し、その外側は大規模な空掘で囲まれている。北面中央の開口部は櫓門の虎口跡と思われる。曲輪IIIは大規模な土塁が全周し、東北部には破壊された土橋で城外と接続されていたことが考えられる。 主廓の発掘調査では堀の城内側が柵で囲まれ、南西の堀底には三ヶ所の障子堀の遺構が発掘されている。 岡見城との間にある深い谷津に阻まれている。この谷津を境に西側が河内郡で東側が信太荘に分断されていた。そして、小野川の南側の対岸は東条荘であり、小坂城は敵対する土岐氏との境目に築かれた城と位置づけられる。 城跡は2006年(平成18年)11月24日付で市の史跡に指定された。
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/05 10:13 UTC 版)
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 01:31 UTC 版)
典型的な平山城であり、丘陵に沿って縦に曲輪が連なっている。現在でも曲輪や土塁の跡などが残されており、散策路が整備されている。武家屋敷や政庁の位置は不明だが、韮山高校のグランドに御座敷という地名が残っており、1990年(平成2年)から1991年(平成3年)にかけて、韮山高校の校舎の建て替え工事に伴い発掘調査が行われており、井戸や園池のほか、屋敷跡と思われる遺構も出土している。
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 23:40 UTC 版)
城域は内郭と外郭に分かれており、内郭は南方に谷が刻まれた半島状の丘陵上に占地し、往時は三方を湿地帯で囲まれた要害であった。一方の外郭は内郭から繋がる丘陵上を自然地形と空堀で分断した広大な地積を持ち、千葉氏の勢力が伸張したのち、家臣団の屋敷地として整備されたと考えられる。
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城の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 07:57 UTC 版)
岡見城は、館の回りに空堀を掘り、土塁で囲ってある。本郭は、城山と呼ばれ、城の中心になっている。本郭の東側にも土塁に囲まれた郭がある。本郭の東側を下ると溜池があり、その東側にはもう一つの郭跡が残されている。
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