初期フライブルク期
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「初期フライブルク期」の解説
1919年の戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデッガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブルク大学の教壇に立つ。一般的にこの時期は初期フライブルク期と呼ばれる。この時期の主要な著述・講義としては、ドイツ留学中の田辺元も聴講した1923年夏学期講義『存在論 ― 事実性の解釈学』や、マールブルク大学のナトルプに提出した1922年の論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報告)などがある。 1919年の戦時緊急学期講義では「哲学の理念と世界観問題」が講じられ、哲学史でなく「始原学(Urwissenschaft)」としての哲学理念を提示し、リッケルトを克服することが目指された。 1918年〜19年に講義はされなかったが講義草稿が残っている「中世神秘主義の哲学的基礎」では「マイスター・エックハルトにおける非合理性」と題して、「宗教的体験の直接生、すなわち聖なるもの、神的なものへの献身の妨げることのできない生き生きとした性質は、規定され、史的に条件付けられた認識論と心理学の頂点として生じる」として、エックハルトのいう離脱について「多様なものは、生すなわち主体を分散させ、落ち着かなさへともたらす」と論じられた。また、フリードリヒ・シュライアマハー『宗教の本質について』の抜粋を作成し、クレルヴォーのベルナルドゥスの『雅歌についての説教 』にも触れている。この他、アビラのテレサ「魂の内なる城」、アッシジの聖フランシスコの伝記「聖フランチェスコの小さい花」、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」などを読んでいた。 1919年、フライブルク大学で「哲学の使命について」講義。同年、長男イェルク生まれる。 1919年〜20年のフライブルク大学冬講義「現象学の根本問題」ではフッサールのいう「記述」は認識論によって方向付けられており、これは「古い思考習慣の残滓」 と批判され、対象化、客観化することなしに経験-「事実的生経験」のなかで、「予期連関において、十全な動機付けの網を、非反省的に生きながらも、省察的に経験する」 ことが求められる。この「省察」という用語にはポメレリア貴族のパウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (Paul Yorck von Wartenburg) 伯の影響があるとされる。また、生としての世界の現象を「環世界」「共世界(Mitwekt)」「自己世界」の3つに区分し、各世界はそのつど自己表出の性格と持つとされた。 1920年4月8日、フッサール61歳祝賀会でヤスパースと出会う。二男ヘルマン生まれる。1920年夏、「直観と表現の現象学;哲学的概念形成の理論」講義。1920年、マールブルク大学員外教授招聘候補に上げられ、パウル・ナトルプとフッサールがハイデッガーを推薦したが、イェンシュは反対し、就任したのはニコライ・ハルトマンであった。 1921年、講義「アウグスティヌスと新プラトン主義」が開かれた。1921年6月、カール・ヤスパース『世界観の心理学』書評をヤスパースに送った。1921年から1922年にかけて冬学期にフライブルク大学で「アリストテレスの現象学的解釈/現象学的研究入門」講義。 1922年夏学期、「アリストテレスの存在論と論理学の現象学的解釈」講義。日本人留学生からのポンドによる謝金でトートナウベルクに部屋数が3つある山荘を建てる。トートナウベルクはシュヴァルツヴァルトの標高1000mの高地にあり、ヴォージュ山脈、スイスアルプス山脈を眺望できる保養地である。ハイデッガーは1934年のラジオ放送された講演「我々はなぜ田舎に留まるか」において、「南部シュヴァルツヴァルトの広い谷間の急斜面の海抜1150メートルのところに小さなスキー小屋がある。広さは縦6メートル、横7メートルで、低い屋根の下に部屋が三つ、リビング・キッチンと寝室と勉強するときの独居房がある」「山々の重み、その原生岩の厳しさ、樅の木のゆっくりとした成長、花咲く牧草地の輝くばかりの、それでいて素朴な華やかさ、秋の夜長に聞こえる谷間の小川のせせらぎ、雪に埋もれた平地の厳しいまでの素朴さ、これらすべてが、あの山の上の毎日の現存在を突き抜けて行き、その中を揺れ動く。」とトートナウベルク山荘について語り、「冬の真夜中に、激しい雪嵐が小屋の周りに吹き荒れて、すべてを覆い尽くすとき、そのときが哲学の絶頂期である。そのとき、哲学の問いは、簡明かつ本質的たらざるをえない。すべての思考を徹底的に究明することは、厳しく鋭くあること以外ではありえない。これを言葉で表す苦労は、聳え立つ樅の木の嵐に向かっての抵抗のようなものである」と述べた。 1922年11月、フッサールの推薦でハイデッガーはゲッティンゲン大学教授に招聘され(ヘルマン・ノールが教育学部に移ったため)、ゲオルク・ミッシュの報告ではハイデッガーは学生に人気があり、その哲学は生の哲学、フッサールの解釈学的方法、ディルタイの精神史を補完させようとしたものとされた。選考の結果、第一候補はモーリッツ・ガイガー、ハイデッガーは第二候補となった。 1923年夏学期、「オントロギー、事実性の解釈学」講義の序言で「探求における同伴者は若きルターであり、模範はルターが憎んだアリストテレスであった。衝撃を与えたのはキルケゴールであり、私に眼をはめ込んだのはフッサールである」と書いた。
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