初期フライブルク期とは? わかりやすく解説

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初期フライブルク期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)

マルティン・ハイデッガー」の記事における「初期フライブルク期」の解説

1919年戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期ハイデッガーフッサール助手として勤めつつ、フライブルク大学教壇に立つ一般的にこの時期は初期フライブルク期と呼ばれる。この時期主要な著述講義としては、ドイツ留学中田辺元聴講した1923年学期講義存在論事実性の解釈学』や、マールブルク大学ナトルプ提出した1922年論文アリストテレス現象学的解釈──解釈学的状況提示』(ナトルプ報告)などがある。 1919年戦時緊急学期講義では「哲学理念世界観問題」が講じられ哲学史でなく「始原学(Urwissenschaft)」としての哲学理念提示しリッケルト克服することが目指された。 1918年19年講義はされなかったが講義草稿残っている「中世神秘主義哲学的基礎」では「マイスター・エックハルトにおける非合理性」と題して、「宗教的体験直接生、すなわち聖なるもの神的なものへの献身妨げることのできない生き生きとした性質は、規定され史的に条件付けられた認識論心理学頂点として生じる」として、エックハルトのいう離脱について「多様なものは、生すなわち主体分散させ、落ち着かなさへともたらす」と論じられた。また、フリードリヒ・シュライアマハー宗教本質について』の抜粋作成しクレルヴォーのベルナルドゥスの『雅歌についての説教 』にも触れている。この他アビラのテレサ「魂の内なる城」、アッシジの聖フランシスコ伝記聖フランチェスコの小さい花」、トマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」などを読んでいた。 1919年フライブルク大学で「哲学使命について」講義同年長男イェルク生まれる。 1919年20年フライブルク大学講義現象学根本問題」ではフッサールのいう「記述」は認識論によって方向付けられており、これは「古い思考習慣残滓」 と批判され対象化客観化することなし経験-「事実的生経験」のなかで、「予期連関において、十全動機付けの網を、非反省的に生きながらも、省察的に経験する」 ことが求められる。この「省察」という用語にはポメレリア貴族パウル・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク (Paul Yorck von Wartenburg) 伯の影響があるとされるまた、としての世界現象を「環世界」「共世界(Mitwekt)」「自己世界」の3つ区分し各世界そのつど自己表出性格と持つとされた。 1920年4月8日フッサール61歳祝賀会ヤスパース出会う二男ヘルマン生まれる。1920年夏、「直観表現現象学哲学的概念形成理論講義1920年マールブルク大学員外教授招聘候補上げられパウル・ナトルプフッサールハイデッガー推薦したが、イェンシュは反対し、就任したのはニコライ・ハルトマンであった1921年講義アウグスティヌス新プラトン主義」が開かれた1921年6月カール・ヤスパース世界観心理学書評ヤスパース送った1921年から1922年にかけて冬学期フライブルク大学で「アリストテレス現象学的解釈現象学的研究入門講義1922年学期、「アリストテレス存在論論理学現象学的解釈講義日本人留学生からのポンドによる謝金でトートナウベルクに部屋数3つある山荘建てる。トートナウベルクはシュヴァルツヴァルト標高1000mの高地にあり、ヴォージュ山脈、スイスアルプス山脈眺望できる保養地である。ハイデッガー1934年ラジオ放送された講演「我々はなぜ田舎留まるか」において、「南部シュヴァルツヴァルトの広い谷間急斜面海抜1150メートルところに小さなスキー小屋がある。広さは縦6メートル、横7メートルで、低い屋根の下に部屋三つリビング・キッチン寝室勉強するときの独居房がある」「山々重み、その原生岩の厳しさ樅の木ゆっくりとした成長花咲牧草地の輝くばかりの、それでいて素朴な華やかさ秋の夜長に聞こえ谷間小川のせせらぎ埋もれた平地厳しいまでの素さ、これらすべてが、あの山の上毎日現存在突き抜けて行き、その中を揺れ動く。」とトートナウベルク山荘について語り、「冬の真夜中に激し雪嵐小屋周り吹き荒れて、すべてを覆い尽くすとき、そのとき哲学絶頂期である。そのとき哲学問いは、簡明かつ本質的たらざるをえないすべての思考徹底的に究明することは、厳しく鋭くあること以外ではありえない。これを言葉で表す苦労は、聳え立つ樅の木の嵐に向かって抵抗のようなのである」と述べた1922年11月フッサール推薦ハイデッガーゲッティンゲン大学教授招聘されヘルマン・ノール教育学部移ったため)、ゲオルク・ミッシュ報告ではハイデッガー学生人気があり、その哲学生の哲学フッサール解釈学的方法ディルタイ精神史補完させようしたものとされた。選考結果第一候補はモーリッツ・ガイガー、ハイデッガー第二候補となった1923年学期、「オントロギー事実性の解釈学講義序言で「探求における同伴者若きルターであり、模範ルター憎んだアリストテレスであった衝撃与えたのはキルケゴールであり、私に眼をはめ込んだのはフッサールである」と書いた。

※この「初期フライブルク期」の解説は、「マルティン・ハイデッガー」の解説の一部です。
「初期フライブルク期」を含む「マルティン・ハイデッガー」の記事については、「マルティン・ハイデッガー」の概要を参照ください。

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