三国志演義では
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小説『三国志演義』においても武陵太守として登場している。劉備軍の張飛が攻めてきたとき、配下である鞏志の諫言を退け戦ったが敗れ、武陵に逃げ戻る。しかし、鞏志に裏切られ矢で射殺されてしまう。金禕は演義にも登場するが、金旋の子であるとは明言されていない。
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三国志演義では
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小説『三国志演義』における華雄は、正史とは見違えるような活躍を見せる。身の丈九尺(210cm)を誇る豪傑であり、関西の人と設定されている。董卓討伐軍が編成された時、驍騎校尉として汜水関の守将を務めて連合軍先鋒の孫堅軍を迎え撃ち、密かに抜け駆けしようとした鮑忠を察して斬って都督に昇進する。その後も豪傑ぶりを発揮し、孫堅軍の祖茂を手始めとして、袁術軍の兪渉、韓馥軍の潘鳳など多くの武将を討ち取る。袁紹は「顔良・文醜を従軍させていれば、こんな事にはならなかった」と、嘆くことになっている。 しかし続いて出撃してきた関羽の前に、華雄は一合にして討ち取られてしまう。関羽が帰陣したときには、出発の際に差し出された酒がまだ温かであったというものである(横山光輝の漫画『三国志』でも、華雄迎撃に赴く関羽に曹操が景気づけに酒を差出す場面があり、これを飲んで出撃した関羽に酔いが回らないうちに討ち取られる描写となっている)。 なお、胡軫との主従関係が史実とは逆転しており、『演義』では胡軫が華雄の副将となっている。
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三国志演義では
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詳細は「三国志演義の成立史#関羽」を参照 小説『三国志演義』では、身の丈9尺(後漢から三国時代の尺度で約216cm)、2尺(約48cm)の髭、「熟した棗(=なつめ)の実のような」と形容される紅顔で重さ82斤(後漢から三国時代の尺度で約18kg)の青龍偃月刀(冷艶鋸:れいえんきょ)と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨っている。主人公的存在だけあって、史実に比べ活躍は非常に華々しいものとなっており、たとえば、 董卓配下の猛将華雄を、曹操に勧められた酒が冷めないうちに斬った話 張遼に説得され曹操へと投降する際に3つの条件を出す。 曹操の元を去るとき、曹操軍の検問に手形がなかったことから見咎められて、6人の将軍を斬り殺して突破した話(五関突破) 孫権軍に処刑されたあと、呂蒙を祟り殺した話 など、講談や元曲・京劇(戯曲)などでの創作が、積極的に取り入れられている。 名馬赤兎については呂布の死後曹操が持っており、降伏した関羽の心を得るべく譲ったことになっている。曹操からの贈り物は二夫人への贈り物を含め全て封印した関羽であるが、「この馬は一日に千里を駆けると知っております。今幸いにこれを得たならば、もし兄者(劉備)の行方が知れました時、一日にして会うことが出来ましょうぞ」として唯一これを受け取り、以降は関羽の愛馬として活躍する。 また、養子として関平が、次男として関興、三男として関索が出てくる。正史によれば、関平は実子(養子とする記述はない)。関興は諸葛亮にその才能を評価されていたものの二十数歳で亡くなっている。関索に至っては正史やその註にも一切記載が無く、後世に作られた伝承「花関索伝」の登場人物を流用したもので、実在しない人物だと考えられる。 赤壁の戦いに敗走した曹操を華容で待ち伏せるが、憔悴した曹操を見兼ねて旧恩により見逃す。このことを諸葛亮に咎められ死罪を言い渡されるが、劉備のとりなしで事なきを得ている。 死後に呂蒙を呪い殺すとされているが、義理堅い関羽の印象にそぐわず、また非現実的であることなどから近年では削除されることもある。その場面によると孫権は関羽を処刑した後、祝宴を開いて呂蒙を第一の功労者として上座に座らせ、呂蒙に親しく杯を渡す。呂蒙は恭しく杯を受け取るが、突然その杯を地面に叩きつけるなり、孫権の胸倉を掴んで押し倒し「青い眼の小童よ、拙者が誰か解るか」「我こそは関雲長なり」と大喝。祝宴に列席していた一同が顔色を変えて平伏すると、呂蒙はばったりと倒れ、全身の穴という穴から血を吹き出して死ぬことになる。関羽の魂が乗り移ったように描かれている。またその首を贈られた曹操が戯れに「別れて久しいが、お変わりなかったかな?」と声をかけると眼と口を開いて睨み付け曹操を驚かせた。その後、曹操は関羽の亡霊を恐れ衰弱し病死したとも語られている。 また関羽が斬首された後、その霊が玉泉山の普浄という僧の前に、同じくして死んだ関平と周倉、それに家臣の霊と共に現れ、呉や呂蒙に対する恨みを綴るが普浄の説得により成仏する、という話もある。普浄という人物は話によっては、関羽を以前助けた人物だとも、関羽が死んでから百年後にいた人物だとも言われており、存在した年代がはっきりしておらず、フィクションなのか実在したのかさえもわからない。
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三国志演義では
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小説『三国志演義』では、劉備が漢中を領有した翌年に死んでいるはずの老将黄忠が劉備に「年寄りは役に立たぬ(この時劉備も六十代)」と馬鹿にされ、敵に突っ込んでいき矢をうけ、その傷が元で陣没することになっている。また、関羽の仇である糜芳・傅士仁・潘璋・朱然・馬忠らが張苞・関興らの手により次々と戦死するが、これは全くの創作である。 他にも、劉備を追ってきた陸遜が、諸葛亮発案の石兵八陣にかかり進軍できずに途中で引き返し、魏の攻撃に対処することになっている。 劉備が指揮を執る蜀軍の兵力は75万となっている。
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三国志演義では
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『三国志演義』においては馬超の挙兵と馬一族の殺害の順序が逆になっており、馬超は一族を殺された復讐の念から曹操に兵を挙げるという図式になっている。 馬超は鬼神のごとき武勇を発揮し曹操を追い詰めるも、結果的にはやはり離間の計で韓遂と仲違いし、敗北する。許褚の活躍も史実以上に大きく取り上げられており、特に戦役中盤に挿入された馬超との一騎討ちでは、「動きが悪くなるからこんなものはいらぬ」として鎧を脱ぎ棄て、上半身裸で馬超と互角に武を競う名場面が用意されている。
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三国志演義では
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小説『三国志演義』では、孫権が呉の国主になったときに配下となった武将の一人として名があがる。「身長八尺(約184cm)、面如美玉」と体躯堂々たる美男として描かれている。書生(儒学者・知識人)と名乗る。正史で209年荊州争奪戦は参戦していない、周瑜とは全く面識もない、夷陵の戦い以前まで陸遜は無名だった。正史と違い赤壁の戦いと合肥の戦いも参戦している。正史でも演義でも、孫策や周瑜が陸康の領地を攻め落としたため、陸家は呉郡に避難した。孫策の死後、孫権が人材登用を行いた時に初めて孫氏政権に仕えた。呂蒙から代理役や後継者としての能力を認められ、陸遜を薦められた。 夷陵の戦いのときには闞沢が陸遜を推薦したが、無名に近かった彼の起用に張昭・顧雍らが反対している。陸遜の才能を知る孫権は、多数意見を力づくで排除して闞沢に同調し、皇帝の権力の象徴である尚方宝剣を授ける。夷陵の戦い後は張昭が、劉備が没した際に蜀を攻めるべきか悩む孫権に対して陸遜の意見を聞くよう進言している。また夷陵の戦いにおいては、正史では劉備を破った後、蜀軍を追撃しなかった。蜀軍の撃破後、正史と違い追撃したが諸葛亮の石兵八陣の罠に命を落としそうになり、追撃を諦めることになっている。その後はほとんど登場しないが、諸葛瑾と同時期に死去した。また二宮事件に関する記述はなく、病没として扱われる。死後、諸葛恪が代わり政権を握っている。
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