ルネサンス以降
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ガリレイ親子。ガリレオの父ヴィンチェンツォ・ガリレイ(1520年-1591年)は音楽家で音響の研究に数的・数学的な手法を用いた。その息子のガリレオ・ガリレイも父の手法を受け継ぎ、音の高さや弦の振動周波数などについて定量的な研究を行なった。(息子のほうはこうした数的手法を物体の運動にまで適用し「近代科学の父」と称されるようになった) ボイルは、音を伝わらせる媒体としての空気の存在を実証した。 メルセンヌは、音のスピードが強弱に依存しないこと、エコーを使って音のスピードの測定を行なった。
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ルネサンス以降
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14世紀のビュリダンは、物自体に impetus(インペトゥス、いきおい)が込められているとして、それによって物の運動を説明した。これをインペトゥス理論と言う。 ベルギー出身のオランダ人工学者シモン・ステヴィン (Simon Stevin、1548 — 1620) は力の合成と分解を正しく扱った人物として有名である。1586年に出版した著書 "De Beghinselen Der Weeghconst " の中でステヴィンは斜面の問題について考察し、「ステヴィンの機械」と呼ばれる架空の永久機関が実際には動作しないことを示した。つまり、どのような斜面に対しても斜面の頂点において力の釣り合いが保たれるには力の平行四辺形の法則が成り立っていなければならないことを見出したのである。 力の合成と分解の規則は、ステヴィンが最初に発見したものではなく、それ以前にもそれ以後にも様々な状況や立場で論じられている。同時代の発見として有名なものとしてガリレオ・ガリレイの理論がある。ガリレオは斜面の問題がてこなどの他の機械の問題に置き換えられることを見出した。 その後、フランスの数学者、天文学者であるフィリップ・ド・ラ・イール (1640 — 1718) は数学的な形式を整え、力をベクトルとして表すようになった。 ルネ・デカルトは渦動説 (Cartesian Vortex) を唱え、「空間には隙間なく目に見えない何かが満ちており、物が移動すると渦が生じている 」とし、物体はエーテルの渦によって動かされていると説明した。
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ルネサンス以降
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ルネサンス期においても、プラトンの思想と新プラトン主義は区別されていなかった。 15世紀のフィレンツェでメディチ家を中心にプラトン研究が盛んになり、プラトンやプロティノスの著書がラテン語に翻訳された。ビザンツ出身の学者ゲミストス・プレトン、プロティノスの『エンネアデス』をラテン語訳したプラトン主義者マルシリオ・フィチーノが知られる。フィチーノは美に対するプラトン的な愛(プラトニック・ラブ)によって人間は神の領域に近づくことができると考えた。 新プラトン主義の思想はルネサンスの文芸・美術にも大きな影響を与えた。 18-19世紀英国のトマス・テイラー(英語版)も広義の新プラトン主義者とされる:8。
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ルネサンス以降
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1417年、イタリアの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニが、上記ルクレティウス『事物の本性について』の写本を発見し、エピクロス主義が再び知られるようになった。 1431年、イタリアの人文主義者ロレンツォ・ヴァッラは『快楽について(De Voluptate)』を著し、古代のストア主義とエピクロス主義を比較し、前者の禁欲主義を捨て後者の快楽論を採る。そして、人間の感覚的自然は快楽と幸福を求める、自然は神的なものであり、それゆえ快楽こそ真の善である、と主張した。 17世紀、フランスのピエール・ガッサンディはエピクロスの教理を解説した著書の序文で、エピクロスの道徳説を公式に承認している。 1748年に『人間機械論』を書いたラ・メトリは、欲望を生活原理と考えその根拠としてエピクロスの唯物論をあげたためにかえってエピクロスの倫理学への評判を落とした。 1841年、カール・マルクスはエピクロスの自然哲学を主題として博士論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異(英語版)』 を著している。 近代以降、新資料も発見されている。その例として、イタリアのヘルクラネウム遺跡のパピルス荘で発見されたエピクロス『自然について(英語版)』やピロデモスの著作のパピルス、トルコのオイノアンダ(英語版)遺跡で発見されたオイノアンダのディオゲネス(英語版)の碑文がある。
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