マグナカルタ
「マグナカルタ」とは、1215年にイングランド王ジョンのもとで制定された憲章の名称である。国王の権力を法的に制限した世界初の憲章とされ、今日の「憲法」の始まりとして世界史上重要な意義をもつ。
「マグナカルタ(Magna Carta)」はラテン語で「大いなる憲章」という意味であり、英語では「the Great Charter」と訳される。
「マグナカルタ」は「マグナ・カルタ・リベルタトゥム(Magna Carta Libertatum)」の略称・通称である。「Libertatum」は「of the liberties(自由のための)」という意味である。
「マグナカルタ」の概要
マグナカルタは、1215年6月にイングランド南東部の町ラニーミード(Runnymede)において、国王ジョンの署名によって成立した。マグナカルタは、ジョン王への反発を強めた国民(貴族ら)によって起草された。当時イングランド王国では、ジョン王による国民の追放、領地の没収、侵略の企て(に起因する敗戦)、といった身勝手な振る舞いに対する不満が募っていたのである。マグナカルタを突きつけられたジョン王は、民の怒りを抑えるためにも、自分の命を守るためにも、マグナカルタを容認せざるを得なかった。
マグナカルタはラテン語で書かれている。全63カ条からなり、教会は自由であると認める、王の一存で軍役代納金や税金を徴収することを禁ずる、不当な逮捕や罰金を禁ずる、といった条文が連なる。なお条文は何度か改定が行われている。
マグナカルタの成立は、国王が絶対的権力を持って当然という価値観が支配的であった時代にあっては画期的な出来事であった。「憲法」の草分けでもあり、憲政や民主主義の歴史においてきわめて重要な意義をもつ。とりわけ、自然権のような基本的な人権を王と国民が同じくして保つという観点は、その後の国家構築や政治運営に大いに影響を与えている。
イングランドの王朝としてイングランド王国を継承する現代のイギリスは、一個の独立した成文憲法を持たない(そのため不文憲法の国とされる)が、現代イギリスの憲法を構成する複数の成文法の中には「マグナカルタ」も含まれている。
2009年にユネスコは「世界の記憶」にマグナカルタを登録している。
「マグナカルタ」の語源・由来
マグナカルタは全ての条例がラテン語で書かれていることから、ラテン語の「マグナ」と「カルタ」というそれぞれ単一の言葉を組み合わせた言葉が語源となっている。「Magna Carta」と表記され、マグナは「大きな」という意味を持ち、カルタは「憲章」と訳されることが多いため、マグナカルタは「大憲章」とも訳される。「マグナカルタ(ビデオゲーム)」とは
ゲームの「マグナカルタ」は、2004年にバンプレストが発売したPlayStation 2用のゲームソフトのタイトルである。「マグナカルタ」はタイミングを合わせてボタンを押すことで戦う、アクション性の高いRPGである。人間と先住民の異種族とが戦いを繰り広げるファンタジー世界における主人公の冒険と成長が描かれる。
マグナ‐カルタ【Magna Carta】
マグナ・カルタ
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マグナ・カルタ(大憲章、だいけんしょう、ラテン語: Magna Carta / Magna Carta Libertatum、英語: Great Charter of the Liberties、直訳では「自由の大憲章」)は、イギリス(連合王国)の不成典憲法を構成する法律の一つであり、イングランド王国においてジョン王の時代に制定された憲章である。
- ^ 意訳。「イングランドに身柄のある敵国の商人は、原則として身体の自由と財産権をなんら損なうことなく留め置かれる。ただし、王か王室裁判所の所長が、敵国に身柄のあるイングランド商人がどのような待遇を受けているか知った後は、イングランド内の敵国商人は互恵主義に基づいて扱われる」 Constitution Society, The Magna Carta (The Great Charter), 1215, Article. 41.
- ^ John W. Baldwin, "Master Stephen Langton, Future Archbishop of Canterbury: The Paris Schools and Magna Carta", The English Historical Review, Volume CXXIII, Issue 503, 1 August 2008, Pages 811–846, saying, "As a postscript to Stephen Langton's role in Magna Carta, some detective work is required to account for the Unknown Charter at Paris. Initially found in the French archives by an English Royal Commission early in the nineteenth century, it lay buried in their unpublished reports. The French archivist Alexandre Teulet had edited it in 1863 in his comprehensive Layettes du Trésor des Chartes (vol. I, nos. 34 and 1053), but it was John Horace Round who ‘discovered' it thirty years later in 1893 as he was examining the reports of the Royal Commission in London."
- ^ マグナ・カルタ写本4点を初の同時展示、発布800周年で - ロイター(2015年 02月 3日 15:22 JST版 2015年2月3日閲覧)
- ^ F・W・メイトランド『イングランド憲法史』創文社、1981年、P.87頁。
- ^ “David Cameron: I'll fix human rights 'mess'”. BBC. (2015年7月15日)
- 1 マグナ・カルタとは
- 2 マグナ・カルタの概要
- 3 概要
- 4 バロン戦争へ
- 5 参考文献
マグナカルタ
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ジョン王に対してイングランド諸侯の反発は最高潮に達し、マグナカルタを起草して王に承認を求めた。マグナカルタの「保証条項」が王権の制限をもたらすことを危惧した王は直ちに拒否した。1215年5月5日諸侯は臣従誓約を破棄して反乱し、ジョン王は反乱諸侯の所領の没収を命じた。しかしロンドン市民が反乱に荷担し、彼らがここを拠点とするようになると、ジョン王は妥協を余儀なくされ、6月19日にマグナカルタが承認された。 ところがマグナカルタは「保証条項」で、25人の諸侯が王国内の平和と諸自由に対して権利を持ち、責任を担うことを規定していたため、王権だけでなく教権にとっても好ましいものではなかった。このことはイングランド王が教皇の封臣となっていた当時、教皇権の裁治権を狭めるものであると考えられたからである。このことを見抜いたイングランドの聖職者たちはマグナカルタ派の反乱に荷担せず、反乱は世俗諸侯によって遂行された。教皇はマグナカルタを批判し、これに力を得たジョン王はマグナカルタを守らなかった。反乱諸侯はフランス王権に介入を依頼し、カンタベリー大司教もこれに荷担する様子を見せたが1216年10月18日突然にジョン王は逝去した。息子ヘンリー3世の即位にあたって、マグナカルタから「保証条項」が削除され、さらにこの修正版には摂政ウィリアム・マーシャルの印章と共に、教皇特使の印章が付与された。
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マグナ・カルタ
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マグナ・カルタ
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「ジョン (イングランド王)」の記事における「マグナ・カルタ」の解説
ブーヴィーヌの惨敗でイングランドに戻ったジョンを待っていたのは、国内諸侯の反発だった。ジョンは戦費捻出のため議会を通さずに(国王特権で)臨時課税を乱発しており、苛政への不満が鬱積していたのである。強圧を持ってこれを抑えようとしたジョンに対して諸侯は結束して反抗し、内戦状態となった。戦いが起こるとジョンを見限る者が多く、支持を失ってロンドンを制圧されたジョンは、以前から突き付けられていた諸侯の要求事項を受け入れざるを得ないと決意。1215年6月15日、ラニーミードにて行われた調印で、国王の徴税権の制限や法の支配などが明記されたマグナ・カルタ(大憲章)が制定された。 保身のためマグナ・カルタへの合意を余儀なくされたジョンだったが、すぐに不服をローマ教皇に訴えて、インノケンティウス3世に無効破棄を宣言してもらうなど反撃に転じ、再び圧政と恣意的重税を行うようになった。これに憤慨した諸侯たちが再び蜂起して、またもジョンとの間で内乱となり、諸侯がフランス王太子ルイに援軍を求めて招聘したことで第一次バロン戦争が勃発した。ジョンは一旦ロンドンから撤退してルイの軍隊と戦いを繰り広げたが、そのさ中に赤痢に罹って1216年10月19日に病没した。 ジョン当人の崩御により戦争理由が無くなると、諸侯はウィリアム・マーシャルを摂政に立てたうえで、王位を9歳のヘンリー(ジョンの息子)に継承させた。同年11月、マグナ・カルタはイングランド王に即位した息子ヘンリー3世の名前であらためて発行された。
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「マグナカルタ」の例文・使い方・用例・文例
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