イングランド王権との対立とは? わかりやすく解説

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イングランド王権との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)

中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「イングランド王権との対立」の解説

イングランド王教権ジョン王の時代カンタベリー大司教選任問題めぐって対立したカンタベリー大司教ウォルター1205年に死ぬと、その後継を巡って王とイングランド教会は別々の人物後任としようとし、ジョン王教皇インノケンティウス3世仲裁求めたインノケンティウス3世はこの訴え対し、王と教会両方批判した上でスティーブン・ラングトンを大司教にするよう命じた。ところがこの決定ジョンは不満をあらわにした。というのもたとえば前任ウォルターの例をあげれば、彼はカンタベリー大司教であるとともに政治家でもあって、先代国王リチャード1世十字軍遠征参加して不在の間、国内政治をとって安定守ったこのようにカンタベリー大司教イングランド国内にあって単なる宗教的権威とどまらず国王重要な高級官僚としての役割担っていたのであった当時イングランドにはカンタベリー大司教選任には王の同意が必要であるという慣例があった上、ラングトンはパリ大学出身高名な神学者であったが、伝統的にイングランドプランタジネット王家フランスカペー王家対立関係にあり、フランス大学出であることもジョン王には気に入らなかった。教皇イングランドにおける全教会の聖務停止科しジョン王報復として教会財産の没収命じた。この争い1214年まで続けられ結果イングランド王大司教選挙施行許可選挙結果への同意権確保したものの、ラングトンを大司教とすることを受け入れイングランド王教皇封臣となることを認めさせられ、さらに多額賠償金を払うこととなった。 このときジョン王王権対すイングランド諸侯反発最高潮達しマグナカルタ起草して王に承認求めた後述するマグナカルタの「保証条項」が王権の制限もたらすことを危惧した王は直ち拒否した1215年5月5日諸侯臣従誓約破棄して反乱しジョン王反乱諸侯所領没収命じた。しかしロンドン市民が反乱荷担し、彼らがここを拠点とするようになると、ジョン王妥協余儀なくされ、6月19日マグナカルタ承認された。ところがマグナカルタ王権にとって不利であるだけでなく、教権にとってもあまり好ましいものでないことは明らかとなったマグナカルタ伝統的に保証条項」と呼ばれる箇所で、25人の諸侯王国内の平和と諸自由に対して権利持ち責任を担うことを規定していたからである。このことはイングランド王教皇封臣となっていた当時教皇権の裁治権狭めるのである考えられたからである。教皇マグナカルタ批判し、これに力を得たジョン王マグナカルタを守らなかった。反乱諸侯フランス王権介入依頼しカンタベリー大司教など幾ばくかの聖職者もこれに荷担する様子見せたので、いよいよ混乱避けられぬかと思われ矢先に、1216年10月18日突然にジョン王逝去した。息ヘンリー3世即位にあたってマグナカルタから「保証条項」が削除され、さらにこの修正版には摂政ウィリアム・マーシャル印章と共に教皇特使印章付与された。 一方でこの時期イングランド国内では議会制度形成された。13世紀にはすでに大会議(グレート・カウンシル、"Great council")と小会議(スモール・カウンシル、"Small council")に分けられる封建的集会存在し裁判所としての役割をしていたことが知られるが、ヘンリー3世がわずか9歳即位すると、小会議の役割増大したヘンリー3世成人して親政開始すると、小会議に行政官プランタジネット家故郷である南フランス系の親族参加させ、彼らを重用した。このことは諸侯との対立招き課税巡って彼らと対立したためにヘンリー3世一時的に妥協したが、税金徴収される結局は約束破った。しかしヘンリー3世一連の諸侯との交渉において何人かの固定した成員によって形成される常設国王評議会(キングズ・カウンシル、"King's council")を認め、のちにこれが議会パーラメント、"parliament")と呼ばれるようになったヘンリー3世に不満を持つ諸侯シモン・ド・モンフォール中心に反乱すると、モンフォール従来成員のほかに各州より2名の自由民と各都市から2名の代表を集めて議会開いた結局乱は鎮圧され、これは定例とはならなかったのであるが、エドワード1世時代1295年の「模範議会 ("Model Parliament")」からは平民の代表が呼ばれることが規則となったエドワード1世はこの模範議会聖職者平民課税同意求めたが、聖職者教権訴え教皇ボニファティウス8世教皇勅書俗人聖職者に(クレリキス・ライコス、"Clericis laicos")」を発し、俗教会課税にはそのつど教皇認可が必要であり、違反に対して破門持って応じるとしたので、エドワード1世意図くじかれた。 14世紀半ばエドワード3世時代になると、イングランド教会対す教権支配に対して国内聖職者からの反発強くなってきた。というのも前述したように、この時期教皇庁アヴィニョン遷移させられイタリア半島にある教皇領周辺勢力浸食され慢性的な資金難あえいでおり、収入一環として聖職売買さかんにおこなっていた。とくにジョン王以来教皇教会支配強まったイングランドでは聖職売買によって地位得た外人聖職者受け入れざるをえない状況続いていた。国王議会1351年聖職者任命無効令を、1353年上訴禁令出してイングランド国内における教権教会法影響排除しようとした。これは教権との政治上の駆け引きにおいて有効な武器として使われることもあったが、実際に行使されことはなかった。 [先頭へ戻る]

※この「イングランド王権との対立」の解説は、「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の解説の一部です。
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