十字軍
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十字軍(じゅうじぐん、ラテン語: cruciata、フランス語: croisade、英語: crusade)とは、中世に西欧カトリック諸国が聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。
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十字軍遠征
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@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}対抗してイルハン朝は東ローマ帝国と友好を結んでいた。イルハン朝が東ローマと結んだのには、フレグの母ソルコクタニ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカがネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためであるとも言われる。[独自研究?] 1268年、バイバルスがフレグ死亡後の混乱に乗じて北上し、アンティオキア公国を滅亡させた。1269年、バラクとカイドゥが協定を結んでヘラートへ侵攻。1270年、第8回十字軍で苦戦していたアッコン防衛にエドワード1世が派遣される。1270年7月21日、カラ・スゥ平原の戦い。
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十字軍遠征
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司教ウィルブランドはラドルフや彼の兄弟たちが率いる反乱軍をクーバーデンまで押し戻すことができ、1229年、ウィルブランドは統治権をそのまま保持することができた。つまり、反乱軍は目的をまだ果たせていなかった。そのためラドルフは再び戦争を始めようとした。しかしウィルブランドの軍勢はドレンテ勢より優勢となり、ラドルフは休戦を認めた。ラドルフらが交渉のためにハルデンベルグ(英語版)に赴いたものの、街に着くとラドルフはウィルブランドらに囚われ、1230年6月25日、そのまま処刑されてしまう。ラドルフの処刑で反乱軍は休戦規約を破棄し、戦争を再開した。しかしこれまでのような力は残っていなかった。 ラドルフの兄弟は処刑された首長ラドルフの跡を継いで反乱を継続させたため、ウィルブランドはフリース人やフローニンゲン市の市民らに対してドレンテ人の反乱制圧に協力するよう呼びかけた。フリース人らに加えて、Twente(英語版)市やサラント市に居住する貴族たちまでもがウィルブランドに協力した。無名の歴史家が当時記したA Certain Narrativeという歴史書には、フリース人らは自ら進んでウィルブランドの援助をしたと強調されている。多くの市民や騎士らが傘下に入ったことで、ウィルブランドは自身の軍を2つに分けなければならないほどだった。 しかしクーバーデンの郊外に住む人々はドレンテ人らに味方した。1230年、司教の軍勢はクーバーデン郊外にて反乱軍に敗れたものの、ドレンテの砦を破壊することができた。そして1231年、両者は和解した。その内容は、ドレンテ側が賠償金を払い、ラドルフの弟フレデリックがクーバーデンの統治権を保持する、というものだった。 しかしこの平和も長くは続かなかった。両者の和平が成立したその年、ドレンテ人とその協力者たちが、司教側に奪われていたクーバーデン郊外の砦に再び攻めかかったのだ。この戦闘で多くのドレンテ人たちが命を落としたが、フローニンゲン軍はその砦を死守し、Zuidlaren(英語版)をも制圧することに成功した。その一方でフローニンゲンの配下にいたフリース人部隊はこの戦で壊滅した。ドレンテ人を率いていたボルキュロのヘデリックはヴェストファーレンにて新兵を雇い、別のフリース人部隊も撃退した。 両者は幾度となく戦ったものの、1232年9月、十字軍遠征は中途半端な結果に終わった。
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