エジプト保護国化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)
「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「エジプト保護国化」の解説
1875年にディズレーリ首相は喜望峰ルートに代わって増えていくエジプトからインドへ向かうイギリス船籍のルートを確保するため、フランス資本で作られ、株をフランスが多く握るスエズ運河に注目するようになった。フランス資本家が破産しかけだったエジプト副王イスマーイール・パシャが所持するスエズ運河の株(全株式40万株中17万7000株)を買収するという情報をつかんだディズレーリは友人のライオネル・ド・ロスチャイルド男爵に協力を依頼して資金を確保し、先手を打ってその17万7000株を買収した。これによりイギリス政府がスエズ運河の最大株主となった。ディズレーリはヴィクトリア女王に「陛下、これでスエズ運河は貴女の物です。フランスに作戦勝ちしました」と報告した。ヴィクトリアはフランスよりドイツ宰相ビスマルクが悔しがっているだろうと思って、この報告を大いに喜んだという(ビスマルクが「イギリスは政治力を失った」などと豪語していることにヴィクトリアが憤慨していた時期だった)。 1876年、運河を買収されたエジプト政府は財政破綻し、債権者のイギリスとフランスを中心としたヨーロッパ諸国によりエジプト財政が管理されることとなった。1878年にはイギリス人とフランス人が財政関係の閣僚として入閣した。英仏はエジプト人から過酷な税取り立てを行い、エジプトで反英・反仏感情が高まっていった。高まる反ヨーロッパ感情を利用して副王イスマーイールはイギリス人やフランス人閣僚たちを罷免したが、英仏から激しい反発を受け、彼は退位を余儀なくされた。 そもそもエジプトを統治するムハンマド・アリー朝は原住民のアラブ系エジプト人にとってはトルコからの「輸入王朝」であり、人事ではトルコ系が優先された。これにアラブ系エジプト人は不満を抱いており、1881年2月にはアラブ系将校の待遇をトルコ系将校と同じにすることを求めるアフマド・オラービー大佐の指揮の下にオラービー革命が発生した。エジプト副王タウフィーク・パシャの宮殿が占拠され、彼はオラービーの推挙したアラブ系将軍を陸軍大臣に任命することを余儀なくされた。その後オラービーは軍の人事問題だけではなく、憲法制定や議会開設など政治的要求まで付きつけるようになった(英仏はエジプト議会が予算審議権を持つことで自由に債権回収ができなくなることを恐れていた)。タウフィークはオラービーに屈して1882年2月4日には彼を陸相とする民族主義内閣を誕生させるに至った。オラービーはただちにヨーロッパへの債務の支払いを全面停止して、反ヨーロッパ姿勢を示した。さらに1882年4月にオラービー暗殺を企てたとして50名のトルコ系将校を逮捕し、副王タウフィークとの対立も深めた。 6月11日、アレクサンドリアで反ヨーロッパ暴動が発生し、英国領事をはじめとするヨーロッパ人50人が死傷する事件が発生し、それをきっかけに英国地中海艦隊とオラービー政府の間に小競り合いが発生し、オラービー政府は13日にイギリスに宣戦布告した。いつ殺されてもおかしくない状態だった副王タウフィークはイギリス軍の下に逃れ、「オラービーは反逆者」と宣言した。 このような状況の中でヴィクトリアは「キリスト教徒が咎めなくして殺されている」と主張してグラッドストンに武力介入を促した。自由主義者であるグラッドストンは民族運動に理解があり、帝国主義政策に消極的だったが、スエズ運河の確保はもはやイギリスにとって死活問題になっており、またヨーロッパ人虐殺で英国世論が硬化していた事もあり、しぶしぶながら武力介入を決定した。しかし他のヨーロッパ諸国は参戦を拒否し、イギリスが単独でオラービー追討を行う事になった。 ガーネット・ヴォルズリー将軍率いるイギリス軍は1882年8月19日にアレクサンドリアに上陸してスエズ運河一帯を占領し、ついで9月13日にテル・エル・ケビールの戦い(英語版)において2万2000人のオラービー軍を壊滅させ、カイロを無血占領した。オラービーは逮捕されて死刑を宣告されるもタウフィークの恩赦で英領セイロン島へ流罪となった。 この戦いに皇太子バーティが従軍を希望していたが、ヴィクトリアはこの不健康な肥満体の皇太子がエジプトのような不衛生な土地へ行ったらすぐにも病を患うだろうと心配していた。それにそもそもヴィクトリアは皇太子の能力をまったく信用していなかった。ヴィクトリアは皇太子の代わりに三男コノート公アーサーを王室代表で出征させた。アーサー王子らエジプト遠征軍が帰還するとヴィクトリアは彼らが持ち帰ってきたオラービーが使用していた絨毯の上に立って勝利を誇示し、アーサー王子らに勲章を与えた。 この戦いによりエジプトは英仏共同統治状態からイギリス単独の占領下に置かれることになった。依然としてエジプトは形式的にはオスマン皇帝に忠誠を誓う副王の統治下にあったが、実質的支配権はイギリス総領事クローマー伯爵が握るようになった。彼の下にインド勤務経験のある英国人チームが結成され、エジプト政府の各部署に助言役として配置された。エジプト政府は全面的に彼らに依存した。イギリス人らは副王アッバース2世を傀儡にして税制改革からナイル川の運航スケジュールまであらゆることを自ら決定した。スーダンで発生したマフディーの反乱の鎮圧にエジプト軍が動員された際、アッバース2世には何も知らされず、彼は出兵の翌日になって酔っ払った英国軍将校からそれを聞かされるような始末だった。 イギリスに反乱を起こしたアフマド・オラービー大佐 テル・エル・ケビールの戦いでオラービー軍に突撃をかけるイギリス軍を描いた絵 戦争後、実質的なエジプト統治者となったイギリス総領事クローマー伯爵
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