その後の波紋
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「2005年の沖縄近海における台湾漁船の抗議行動」の記事における「その後の波紋」の解説
2005年6月9日、国民党は陳傑が「日本が横暴な手段を取り続けるなら、台湾は海軍を派遣して漁民を守るべきだ」「戦争も辞さない覚悟がある」と発言するなど、民進党の陳水扁政権に対し批判を強めた。また漁民側も中国側の関心を五星紅旗を挙げることもありうると示唆するなど国際問題として顕在化する恐れが出てきた。 また18日深夜、宮古島東の海域で海上保安庁の巡視艇が台湾の漁船「金明財11号」を拿捕。これを受けて21日から台湾漁民による日本側の漁船と巡視艇に対する取り締まり活動を行うことを表明された。 21日、国防部長の李傑と、立法院長の王金平、民進党の李文忠、中国国民党の周錫瑋、親民党の林郁方を含む立法院国防委員会の超党派の15名は報道陣70名と共に射程80キロの対艦ミサイル雄風三型を搭載した3855トンの済陽級フリゲート鳳陽に乗船して蘇澳港を朝9時半に出発。11時にもう1隻のフリゲート、その後2隻の沿岸警備局の船舶が合流し尖閣諸島周辺海域へと出発した。そして尖閣諸島近海の台湾側防空識別圏付近で国民党など野党連立は目的地到達間近に記者達を後部飛行甲板に集め、海軍の帽子とウインドブレーカーを着用した上で、中華民国の国旗を手に、「歴史的、地理的、法的に釣魚島は中華民国の領土」という王金平の発言に続き野党議員による国家主権を守れというシュプレヒコールを行った。しかし李傑や民進党関係者はこの抗議活動の参加を避けており、台湾内部での世論の複雑さを露呈する形となった。 当時台北市長であった馬英九も「台湾は日本と交戦することを躊躇してならず、台湾は東京に対し漁業域の確定を要求すべき」と国民党主席の座を争う王金平を意識した発言をしている。 表 話 編 歴 尖閣諸島島嶼 魚釣島 久場島 大正島 北小島 南小島 沖の北岩 沖の南岩 飛瀬 北西小島 北小島(久場島付近) 北東小島 北小島(大正島付近) 自治体 沖縄県石垣市登野城 尖閣諸島問題 第三清徳丸襲撃事件 南小島不法占拠事件 1971年尖閣諸島反日デモ 保釣運動 2005年の沖縄近海における台湾漁船の抗議行動 聯合号事件 尖閣諸島中国漁船衝突事件2010年尖閣諸島抗議デモ 尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件 香港活動家尖閣諸島上陸事件日本人活動家尖閣諸島上陸事件 2012年尖閣諸島抗議デモ 2012年の中国における反日活動 尖閣諸島国有化2012年尖閣諸島抗議デモ 2012年の中国における反日活動 尖閣諸島中国船領海侵犯事件 中国機尖閣諸島領空侵犯事件 尖閣諸島防空識別圏問題 その他 下関条約 ポツダム宣言 カテゴリ - コモンズ - ウィキソース 表 話 編 歴 日本の周辺における領域・海域に関する主張北方領土問題 北方地域 日露和親条約 - 樺太・千島交換条約 - 日ソ中立条約 - ソ連対日参戦(ソ連対日宣戦布告 - 樺太の戦い - 占守島の戦い) - 日ソ共同宣言 千島列島 - 南樺太 竹島問題 竹島 マッカーサー・ライン - ラスク書簡 - サンフランシスコ平和条約 - 李承晩ライン - 第一大邦丸事件 - ヴァン・フリート特命報告書 - 日韓基本条約 - 日韓漁業協定 - 李明博竹島上陸 - 韓国軍竹島沖射撃訓練 尖閣諸島問題 尖閣諸島 第三清徳丸襲撃事件 - 南小島不法占拠事件 - 1971年尖閣諸島反日デモ - 保釣運動2005年の沖縄近海における台湾漁船の抗議行動 - 聯合号事件 - 尖閣諸島中国漁船衝突事件(2010年尖閣諸島抗議デモ - 映像流出事件) - 香港活動家尖閣諸島上陸事件(日本人活動家上陸事件 - 2012年尖閣諸島抗議デモ - 2012年の中国における反日活動) - 尖閣諸島国有化( 2012年尖閣諸島抗議デモ - 2012年の中国における反日活動) - 尖閣諸島中国船領海侵犯事件 - 中国機尖閣諸島領空侵犯事件 - 尖閣諸島防空識別圏問題 沖縄・琉球問題 沖縄 琉球処分 - 琉球独立運動 - 沖縄戦 - アメリカ合衆国による沖縄統治 - 沖縄返還 - 中国人による沖縄県への認識 沖ノ鳥島の法的な地位 沖ノ鳥島 国連海洋法条約 - 沖ノ鳥島保全法 島 - 岩礁 - サンゴ礁 周辺国との国境海域 日本海 日本海呼称問題(南海)- 対馬海峡(朝鮮海峡)- 大和堆 - 韓国の対馬領有権主張 東シナ海 日中中間線 - 沖縄トラフ - 日中漁業協定 - 東シナ海ガス田問題 - 与那国島の防空識別圏問題 - 日韓大陸棚協定 - 男女群島および鳥島問題 領土帰属の国際判例
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「樺太1945年夏 氷雪の門」の記事における「その後の波紋」の解説
JMPの活動停止後、望月利雄は、自衛隊ロケで世話になった箕輪登と、製作会社M・M・Cを設立、1976年(昭和51年)には映画『星と嵐』(製作:東京映画=M・M・C 配給:東宝)に関わり、望月は製作、箕輪は監修とクレジットされている。これによって望月側と東宝側は和解したとみられる。 国弘威雄は、1977年(昭和52年)に刊行した『私のシナリオ体験-技法と実践』の中で『氷雪の門』について取り上げ、「ソ連だとか中国だとかいうと、盲目的に追随するジャーナリストや人々」を「尻馬に乗った親ソ派」と非難、彼らの攻勢が東宝の翻意につながったとしているが、その一方、東宝系での公開中止の主因として、「前もって観客動員数を約束をせねばならず、つまり前売券は何十万枚売れるという確約をせねばならず、その条件が整わなかった」ことがあったのは認めている。ただし、『氷雪の門』の製作協力券(売上金の過半は製作費と劇場の取り分に充てられる)と他作品の全国前売券(売上金の過半は劇場の取り分と配給会社への保証に充てられ、製作費とは別建て)の違いについては触れていない。そして、東宝が求めた製作協力券の保証枚数や、それに対するJMPの実売枚数についての具体的な記述はない。 また国弘は、JMPを「望月利雄の会社」と解していて、三池信や前記の役員を単なるスポンサー筋とみなしている。同役員の怠業や不正については1977年に至っても把握していない。 1978年(昭和53年)、民社党と同盟は日本映画の全国上映運動を積極的に行なったが、その第二弾は『忘却の海峡』、第三弾は『氷雪の門』であった。『忘却の海峡』は松山善三の脚本・監修により、樺太在住韓国人帰還問題を描いており、『氷雪の門』と好一対をなす作品である。ただ、この上映運動を通じて、「ソ連のクレームがついて、大手映画会社が手を引いたとかいわれる“幻の映画”」という不正確な情報はさらに広まり、『氷雪の門』が“幻の映画”となった真因の確認を怠る結果を招いた。 その後も『氷雪の門』は元スタッフの手で一部名画座での限定上映や、ホール等での非劇場上映などが行なわれていたが、製作から約36年後の2010年(平成22年)7月17日より全国で順次劇場公開されることになった。
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