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アメリカ合衆国による沖縄統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/05/17 03:48 UTC 版)
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1945年(昭和20年) - 1972年(昭和47年)
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公用語 不明 首都 那覇市[1] - 琉球列島高等弁務官
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1957年 - 1958年 ジェームス・E・ムーア 1969年 - 1972年 ジェームス・B・ランパート - 行政主席
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1952年 - 1956年 比嘉秀平 1968年 - 1972年 屋良朝苗 - 面積
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1950年[2][3][注 1] 3625.27km² 1972年[2] 2243.58km² - 人口
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1950年[4][注 2] 914,937人 1960年[4] 883,122人 1970年[4] 945,111人 - 変遷
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米国軍政府開設 1945年4月5日 米国民政府に改編 1950年12月15日 琉球政府設立 1952年4月1日 奄美群島返還 1953年12月25日 日本に返還 1972年5月15日
通貨 B円(1948年 - 1958年)
USドル(1958年 - 1972年)時間帯 UTC +9(DST: なし) - GDP - 9億8530万ドル(1971年)
1人当たり国民所得 - 907ドル(1971年)
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アメリカ合衆国による沖縄統治(アメリカがっしゅうこくによるおきなわとうち)とは、1945年(昭和20年)のアメリカ軍による沖縄占領から、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄本土復帰に至るまでの、27年間に及ぶアメリカ合衆国による統治時代のこと。沖縄ではアメリカ世[5][6](アメリカよ、琉球方言では-ゆ)ともいわれる。
目次 |
地理
鹿児島県大島郡と沖縄県で構成された。後にトカラ列島は1952年(昭和27年)2月10日に、奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日に日本に返還された[7][8]。
琉球政府章典によると、その範囲は「北緯28度東経124度40分の点を起点として北緯24度東経122度、北緯24度東経133度、北緯27度東経131度50分、北緯27度東経128度18分、北緯28度東経128度18分の点を経て起点に至る線の内側」とされた。
歴史
戦争終結直後の混乱期
アメリカ軍は第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月26日に慶良間諸島へ、4月1日に沖縄本島に上陸し、沖縄諸島各地に侵攻を開始した。沖縄本島の防衛にあたっていた日本軍と地上戦を繰り広げた(沖縄戦)。アメリカ軍は本島上陸後の4月5日に、アメリカ海軍元帥チェスター・ニミッツは米国海軍軍政府布告第一号(いわゆるニミッツ布告)を公布し、奄美群島以南の南西諸島地域における日本政府の行政権を停止し、軍政府が統治すると宣言し、読谷村に琉球列島米国軍政府(以下軍政府と略す)を設立した[9][10]。
6月に入ると日本軍は組織的抵抗が不可能となり、沖縄本島と幾つかの島嶼はアメリカ軍によって占領された。8月14日にポツダム宣言の調印が予告されると、8月20日に、解体した沖縄県庁に代わる沖縄本島の統治機関として、アメリカ軍によって『沖縄諮詢会』が設置され、後に権限が沖縄諸島全体までに拡大された。また宮古支庁、八重山支庁は戦火を免れ存続していたため、それぞれ宮古列島、八重山列島の行政をアメリカ軍直属で行うこととなった。1946年(昭和21年)2月には、アメリカ軍が占領しつつも日本の主権が認められていた鹿児島県大島郡(奄美群島やトカラ列島)も、鹿児島県から分離されて軍政当局下に置かれ、大島支庁からも本土出身者が追放された。
アメリカは当初、琉球人は日本帝国主義に支配された異民族であると認識し、日本本土の一部でなく、日本が武力で制圧した島だと考えた。また沖縄人は自ら政治、経済を行えないという先入観から、沖縄人の自治能力を過小に評価していた為、沖縄における民主化に対して消極的であった。そのためにまず、民主主義の基礎を築くことにし、市町村長、市町村議会の選挙を実施した[11]。沖縄諮詢会設立においては、日本軍と帝国主義者と関係にあった人物は諮詢会員の選考から除外された[12]。1947年(昭和22年)には幾つかの政党が結成されたが、軍政府は「政党の行動制限」を設け、軍政府の政策に批判・阻止する政党には厳しい罰則が加えられた[13]。
1949年(昭和24年)、東西冷戦が激化すると、朝鮮半島の軍事的緊張が高まった。アメリカによる極東地域戦略のため、沖縄に大規模な軍事基地や施設を建設した。軍道1号線(現在の国道58号)の拡張、那覇軍港の整備、弾薬倉庫、米兵用住宅などの軍用地開発が推進された。そのため沖縄本島は極東最大の米軍基地へと変わり、米軍からは「太平洋の要石(Keystone of the Pacific )」とも言われた[14]。この工事と並行して、ジョセフ・R・シーツ軍政長官は復興支援を行った。ガリオア資金を増額し、群島知事と群島議員選挙の実施、不必要な軍用地に対する土地所有権を認定するなど、住民からはシーツ善政と評された[15][16]。
沖縄統治体制の確立
敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は1946年(昭和21年)1月29日に日本本土と奄美群島以南の南西諸島の行政分離を行うと発表し[17][18]、1951年(昭和26年)9月8日に調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の第三条には、琉球諸島と大東諸島をアメリカ合衆国の信託統治下に置くことが規定された[19]。当初、1950年(昭和25年)11月4日に奄美群島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島を四分割しそれぞれ群島政府を設置した。しかし同年9月に住民により選出された知事と議員らが日本復帰を公言した。その結果に不快感を示した軍政府は、翌年の1951年(昭和26年)4月1日に琉球臨時中央政府を設立し[20]、群島政府の権限は大幅に削減され、そして1952年4月1日に群島政府が廃止され琉球政府が創設された。また軍政府は1950年(昭和25年)12月15日に琉球列島米国民政府(USCAR:ユースカー、以下民政府と略す)と改称した[21]。琉球政府は、立法院と裁判所と共に三権の一つとなったが、琉球政府により制定された法令の執行の停止、琉球政府の長である行政主席は民政府により任命されるなど常に民政府は絶対的な権力を持っていた。[22][23]
なお、奄美群島は1953年(昭和28年)12月25日に日本に返還された。このとき、米軍は「日本へのクリスマスプレゼント」だと冗談交じりに自画自賛していたという。しかし、奄美群島から沖縄本島へ労働に来ていた人々は「日本人」と言うこととなり、パスポートの所持の必要、公務員からの追放が行われるなど、いくつかの副作用がもたらされた。
米軍と沖縄住民との対立
アメリカ軍は演習地や補給用地、倉庫群などの用地として、次々に集落と農地を強制的に接収した。特に現在の宜野湾市の伊佐浜の田園地帯と伊江島では集落ごと破壊され、大規模な土地接収が行われた[24][25]。住民はこれらの様子を「銃剣とブルドーザーによる土地接収」として例え、アメリカ軍の強権の代名詞となった[26]。またサンフランシスコ条約締結以降、軍政府は沖縄の本土復帰を唱える団体や運動を弾圧、さらに米軍兵による事件が相次ぎ、住民に反米感情が高まっていた[26][27]。
土地接収問題を解決すべく1954年(昭和29年)4月30日に立法院は、「軍用地処理に関する請願」を全会一致で可決し、軍用地の一括支払い(土地の買い上げ)の反対等を盛り込んだ「土地を守る四原則」を掲げた[28][29]。しかし、1956年6月9日にアメリカ側からプライス勧告が発表され、極東地域の重要な軍事拠点であるとして、土地買上げと土地の接収は正しいと結論づけた[29][30]。この勧告に住民は反対し、同月20日に殆どの市町村で住民大会が一斉に行われ、島ぐるみ闘争へと発展した[29][31]。こうした反対運動の結果、軍用地の賃上げ等の民政府から妥協案が提示され、島ぐるみ闘争は終結した[32]。
本土復帰へ
サンフランシスコ平和条約が発効されてちょうど8年、1960年(昭和35年)4月28日に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成し、以降毎年4月28日にはデモ行進が行われ、また沖縄本島の辺戸岬沖で海上集会を行った[33][34]。1962年(昭和37年)3月19日、当時のアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは沖縄は日本国の一部であると容認し、本土復帰に前向きであった。しかし前年、琉球列島高等弁務官に就任したポール・W・キャラウェイ陸軍中将は絶対的な権力を利用して、議会が採決した法案を次々と拒否し、また経済界にまで介入し、経営者や幹部の不正を摘発し処罰を与えたなど波紋を呼んだ(キャラウェイ旋風)[35]。日米協力に混乱をきたすとして、ケネディ大統領はキャラウェイを更迭した[35]。
1965年(昭和40年)8月19日に当時の佐藤栄作首相が訪問し、「沖縄が日本に復帰しない限り、戦後は終わらない。」と述べた。来沖した背景としてはベトナム戦争に対する反戦運動と復帰運動があった。戦争が激化すると沖縄は米軍にとって非常に重要な存在となり、連日飛行場から頻繁に爆撃機の離着陸が行われた。反戦復帰運動が高まり、戦争に支障をきたす恐れがあり、住民の反米・反戦感情を抑える為、民政府は佐藤に目を付けた。[36]
しかし、それと裏腹に1968年(昭和43年)に嘉手納飛行場でB-52爆撃機の墜落事故、1969年(昭和44年)には基地内でVXガスが漏れる事故、そして1970年(昭和45年)12月20日に本島中部の旧コザ市(現在の沖縄市の一地域)で数千人の住民が暴徒化し、米軍車両数十台を焼き払う事件が勃発し(コザ暴動)、米軍への不満が爆発した。[37][38][39]
1968年(昭和43年)2月1日に立法院の定例会議に出席したフェルディナンド・T・アンガー高等弁務官は行政主席を住民による直接選挙を実施すると発表した。選挙当日は立法院議員選挙と那覇市長選挙も行われた。結果、革新派の屋良朝苗が当選した(第1回行政主席通常選挙)。[40][41][42]
統治の終了
詳細は「沖縄返還」を参照
1969年(昭和44年)11月19日から21日にかけて佐藤首相とリチャード・ニクソン大統領はワシントンD.C.で会談を開き、日米共同声明を発表し、1972年(昭和47年)に沖縄の施政権が日本に返還されることが約束された[43]。そして沖縄は1972年(昭和47年)5月15日に日本国に返還されたが、基地撤去を望んだ住民は返還協定の内容に失望した[44]。現在の沖縄県では基地の整理・縮小、兵力の削減、日米地位協定の見直しを求めている[45]。
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注釈
出典
- ^ 東京大学東洋文化研究所 琉球政府章典 - 第二条に規定されている。
- ^ a b 総務省統計局 統計データ 第1章 国土・気象 - 2章 統計対象・表章項目 国土の変遷
- ^ 沖縄県企画部統計課 第1表 沖縄県の人口、人口増減、面積及び人口密度(大正9年 - 平成17年)
- ^ a b c “国勢調査の概要(PDF)”. 総務省統計局 2011年9月3日閲覧。
- ^ 宮城(1992)p.6
- ^ “アメリカ世(あめりかゆー)”. 琉球新報 沖縄コンパクト事典. (2003年3月1日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ “トカラ列島の日本復帰”. 鹿児島県 2011年9月2日閲覧。
- ^ “奄美群島の日本復帰”. 鹿児島県 2011年9月2日閲覧。
- ^ 金城(2005)p.236
- ^ 安里(2004)p.302
- ^ 宮里(1966)p.8-9
- ^ 宮里(1966)p.8
- ^ 宮里(1966)p.14
- ^ 金城(2005)p.243-245
- ^ 金城(2005)p.245
- ^ 森田(1966)p.48-49
- ^ 金城(2005)p.239,240、付録p.14
- ^ 安里(2004)p.305,306、付録p.22
- ^ “日本国との平和条約(昭和27年条約第5号)”. 中野文庫 2011年8月31日閲覧。
- ^ “琉球政府設立に関する布告”. 東京大学東洋文化研究所 2011年8月31日閲覧。
- ^ “琉球列島米国民政府(USCAR)設立”. 沖縄県公文書館. (2008年12月15日) 2011年9月7日閲覧。
- ^ 金城(2005)p.245-249、付録p.14
- ^ 安里(2004)p.302,303、付録p.22
- ^ “伊佐浜土地闘争”. 沖縄県公文書館. (2009年3月11日) 2011年8月31日閲覧。
- ^ “伊江島土地闘争”. 沖縄コンパクト事典 琉球新報. (2003年3月1日) 2011年8月31日閲覧。
- ^ a b 安里(2004)p.307
- ^ 金城(2005)p.251
- ^ “過去の戦後処理事例と旧軍飛行場用地問題(PDF)”. 沖縄県 知事公室 基地対策課 2011年8月31日閲覧。
- ^ a b c 金城(2005)p.252
- ^ “プライス勧告発表、島ぐるみ闘争へ”. 沖縄県公文書館 2011年8月31日閲覧。
- ^ “プライス勧告と島ぐるみ闘争”. 沖縄県立総合教育センター 2011年8月31日閲覧。
- ^ 金城(2005)p.253
- ^ 金城(2005)p.255
- ^ 安里(2004)p.308
- ^ a b 金城(2005)p.258
- ^ 金城(2005)p.259,260
- ^ 金城(2005)p.264,265
- ^ 安里(2004)p.310
- ^ “矛盾に満ちた住民対立/コザ騒動から30年”. 琉球新報 2011年9月1日閲覧。
- ^ 金城(2005)p.262
- ^ 安里(2004)p.309-310
- ^ “琉球政府の時代 屋良朝苗”. 沖縄県公文書館 2011年9月1日閲覧。
- ^ “佐藤栄作総理大臣とリチャード・M・ニクソン大統領との間の共同声明”. 東京大学東洋文化研究所 2011年9月1日閲覧。
- ^ 金城(2005)p.265
- ^ “基地問題の取り組み”. 沖縄県 知事公室 基地対策課 2011年9月1日閲覧。
- ^ 宮城(1992)p.12-14
- ^ 金城(2005)p.241
- ^ 宮城(1992年)p.36
- ^ 宮城(1992)p.50-52
- ^ “首里城 正殿への道”. 国営沖縄記念公園 首里城公園 2011年9月7日閲覧。
- ^ 宮城(1992)p.32-34
- ^ 宮城(1992)p.34-36
- ^ 宮城(1992)p.52
- ^ 宮里(1966)p.72-74,115-118