1980年モスクワオリンピック
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大会マスコット
- ミーシャ
- 熊をモチーフにしたマスコット。日本では、テレビ朝日系列(製作は朝日放送)にて、開催の前年からこのマスコットを主人公とした『こぐまのミーシャ』というアニメが放映されていた。主題歌にはロシア語の単語も使われていた。
- 開会式では、ミーシャの着ぐるみを着た子供たちがマスゲームを披露した。閉会式では最後に登場し、レフ・レシチェンコらが歌うデュエット曲「ダスビダーニャ、モスクワ! (さよなら、モスクワ!)」が流れる中ミーシャのマスコットが風船で打ち上げられ、森へ帰るミーシャの演出で大会を締めくくった。このときミーシャが別れの涙を流すマスゲームが行われた。[5](アメリカや日本といった西側諸国が大会をボイコットした事に対して涙を流した、という俗説は誤りである。)
- それから34年後の2014年、ソチで開かれたソチオリンピックの閉会式にてミーシャの孫とされるホッキョクグマのマスコットが現れ、モスクワオリンピック閉会式の映像を流した後、スタジアムに設けられた小さな聖火台の聖火を吹き消すと共に一筋の涙をこぼすという場面が演出された[6]。
テレビ放映
ソ連国内では全連邦ラジオで、欧州ではユーロビジョン[7](31カ国)とインタービジョン[7](11カ国)、中南米ではOTIを通じて放送された。オーストラリアではチャンネル7[7]、アメリカ国内ではNBC[7]で放映したが、一部の国では放送体制を大幅縮小した。また、カナダは当初CBCで放送予定だったが、カナダのボイコットを受け中止が決定した[7]。
日本では1977年にテレビ朝日系列が独占放映権を獲得した[7][1]。しかし、日本のボイコットが決まったため中継体制は大幅に縮小され、深夜の録画放送のみとなった。視聴率は開会式が11.2%と過去最低を記録し、競技1日目となった7月20日23:50からの中継も1.5%(いずれもビデオリサーチ、日本・関東地方)と低迷した[8]。放映権料についてはジャパンコンソーシアムを参照のこと。
なお、この前にテレビ朝日の重役で「怪物」と呼ばれた三浦甲子二がソ連の高官と会っていたことからチュメニ油田に絡む黒い噂を含む怪文書が流れたことがある。
影響
大会期間中
五輪期間中、モスクワではモノ不足による店の行列が消えた。外国人の目に実態が触れぬよう、当局がフィンランドで商品を買い占め、店の棚に並べさせていた[2]。街中では、清涼飲料水のコカ・コーラやファンタが当時のソ連にはなかった使い捨てコップで売られた。缶ビールやたばこのマールボロも現れた。外国製のガムはソ連製と違って味が長持ちした。一般市民はつかの間、西側の豊かさを実感した[2]。もっとも、子供たちは五輪中、サマーキャンプなどに送り出された。犯罪歴のある者や反体制派知識人は100キロ以上離れた僻地に隔離された。住民がだいぶ少なくなったモスクワには、全国から私服の秘密警察要員が集められた[2]。
国際的影響
大会そのものは事件もなく平穏に終わったが、西側諸国の集団ボイコットによりその権威が失墜したことは疑いようがなかった。ソ連の失望と怒りは深く、次のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国を巻き込んだ報復ボイコットにつながった。それを暗示するように、閉会式での電光掲示板では「ロサンゼルスで会いましょう」という文字が一切出なかった。
大会後、第3代キラニン男爵マイケル・モリスがIOC会長を退任し、後任にフアン・アントニオ・サマランチが新会長となった。これ以上の大量ボイコットを避ける為の政治的独立と、その裏付けになる経済的自立を志向し結果的にテレビ放映権や大型スポンサー契約に依存する商業主義への傾斜を強め、プロ選手の出場解禁に道を付けた。
日本国内の影響
種目によっては、世界トップレベルの大会への参加に8年間の空白が大きなマイナスに作用した。
- 団体競技の影響
- 男子体操団体総合 - 1960年のローマオリンピックから1976年のモントリオールオリンピック(以下モントリオール)まで続いた5連覇が自動的に途絶え、金メダル奪回は2004年のアテネオリンピックにて実現した[1]。
- バレーボール - その後、男女とも未だに金メダルの再獲得には至っていない。
- 男子ハンドボール - 1984年のロサンゼルスオリンピック(以下、ロサンゼルス)、1988年のソウルオリンピック(以下、ソウル)と2大会連続出場を果たすも、モントリオールの9位には及ばず。その後、自国開催の2020年東京オリンピック(以下、東京)まで33年間出場が途絶えた。
- 女子バスケットボール - ボイコットへ動き出していた最中に世界予選出場も敗退。モントリオール以来の2度目の出場は1996年のアトランタオリンピックまで20年を要した。
- 男子バスケットボール、同ホッケー、女子ハンドボール - 自国開催の東京まで出場権獲得はならなかった。特に男子バスケットボールは開催国枠も失う危機に見舞われた。
- 個人競技の影響
- 赤井英和 (ボクシング) - 補欠として代表の可能性を残していたが完全消滅。その後、大学生の身分のままプロに転向した[1]。
- 石原敬士(クレー射撃) - 1968年のメキシコシティーオリンピックを協会の不祥事で出場を閉ざされて以来機会に恵まれず、念願の代表選出だったが、これも幻に終わった。2016年のリオデジャネイロオリンピックでは、次女である石原奈央子がオリンピック出場を果たした[9]。その後、東京の聖火ランナーに内定し、COVID-19の影響による開催延期を経ながらも2021年にランナーとして参加、延べ53年越しで祈願のオリンピック関係者となった。
- 香月清人 (柔道) - 前年の世界柔道選手権71kg級で優勝。代表が内定していたがボイコットを契機に一度は現役引退。その後、大阪府警の柔道師範として警察官を指導していたこともあった[10]。
- 蒲池猛夫(ライフル射撃) - 現役引退。後に復帰し、ロサンゼルスにて日本最年長記録で金メダルを獲得する。2014年に死去。
- 具志堅幸司(体操競技) - ロサンゼルスに出場し、金メダルを獲得。同じくロサンゼルスで出場が叶った梶谷信之は銀メダル、外村康二、山脇恭二も銅メダルを獲得した。
- 坂本典男・坂本勉 (トラックレース) - 自転車初の兄弟五輪代表選手となるはずだったが、幻に終わった[11]。その後、典男は競輪に転向。勉はロサンゼルスで日本自転車初メダルとなる銅メダルを獲得している。
- 瀬古利彦 (マラソン) - その後、ロサンゼルス、ソウルと2大会連続出場を果たしたものの、ソウルで9位にとどまった[1]。
- 宗茂・宗猛 (マラソン) - 一卵性双生児の五輪代表選手は幻に終わったが、ロサンゼルスで実現。しかし茂は17位、猛は4位とともにメダルには届かなかった。
- 高田裕司 (レスリング) - 現役引退。後に復帰しロサンゼルスで銅メダルを獲得したが、「優勝したら表彰台から金メダルを投げていた」と後年語っている[12]。
- 長義和 (トラックレース) - 1977年に日本競輪学校に合格しながらも、それを辞退して当大会にかけたものの出場は叶わず。当時存在した競輪学校の年齢制限(24歳未満)のため競輪選手への道も閉ざされたことから、このまま現役を退いた。
- 津田真男 (ボート、シングルスカル) - ほとんど一人の力で代表の座を勝ち取ったが、幻の出場に終わった[注釈 1]。その後、国内各地のレガッタに出場した。
- 長崎宏子 (水泳) - 当時11歳。夏季五輪では初めての小学生の五輪代表選手だった[注釈 2]が幻に終わった[1]。その後、ロサンゼルス、ソウルと出場したが、いずれもメダル獲得は果たせなかった。
- 藤猪省太 (柔道) - 世界柔道選手権4回優勝の実績者で、代表が内定していたものの出場叶わず。その後指導者となり、2008年の北京オリンピックでは審判員としてオリンピックの舞台に立った。
- 宮内輝和 (レスリング) - 大学を中退し、大相撲に転向。
- 谷津嘉章 (レスリング) - プロレスに転向。1986年に復帰するもオリンピック出場果たせず。
- 山下泰裕 (柔道) - ボイコット決定のショックから翌日に全日本体重別選手権で骨折を追う不運も重なるが、当時の東海大学総長松前重義の勧めで現地観戦。ロサンゼルスに出場し、金メダルを獲得。現在は日本オリンピック委員会の会長を務める[1][12]。
- テレビ朝日
- 1977年の社名変更に続く大改革の柱だったオリンピック独占中継の価値が大暴落し、大きなダメージを負った[1]。ただ、この中継の留守番予備軍として大量に採用したアナウンサー達から古舘伊知郎、南美希子、佐々木正洋、宮嶋泰子、吉澤一彦、渡辺宜嗣といった、のちに活躍することになる局アナを多く輩出した。
- その後のJOCの対応
- 不本意ながら、政府のボイコット指示を受け入れざるを得なかったJOCは政府(文部省)から自立する形での組織の基盤強化の必要性を痛感し、1989年に日本体育協会から独立、財団法人としての活動を行うこととなった。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『昭和55年 写真生活』p14-15(2017年、ダイアプレス)
- ^ a b c d 『プーチンとロシア革命: 百年の蹉跌』p213 遠藤良介著、ISBN 4309227554
- ^ Secret US plot to steal Moscow's Olympic flame, Daily Telegraph
- ^ “モスクワと東京、重なる権力の影 80年ボイコットから来年で40年”. スポニチ. (2019年12月23日) 2023年7月4日閲覧。
- ^ “О спорт, ты — мир! 2 серия (док., реж. Юрий Озеров, 1981)”. Киноконцерн "Мосфильм". 2021年11月1日閲覧。
- ^ ミーシャの孫、ソチ五輪終幕告げる 日刊スポーツ 2014年2月24日閲覧
- ^ a b c d e f 1980 Summer Olympics Official Report from the Organizing Committee, vol. 2, p. 379
- ^ 週刊TVガイド 1980年8月8日号 p.30「REPORT」
- ^ “最もついていない男”クレー射撃元日本王者・石原敬士さん「神様がくれた機会、しっかりやれ」 SANSPO.COM 2020年5月24日
- ^ 柔道:幻の五輪代表が定年 大阪府警の師範・香月さん - 毎日新聞 2015年03月26日 18時32分
- ^ “【二十歳のころ 坂本勉氏<1>】伸び盛り高校生…あっという間にモスクワ代表に”. Cyclist. (2017年9月16日) 2021年5月3日閲覧。
- ^ a b “「お前は国に従いなさい」「いつか復讐したい」41年前モスクワ五輪ボイコット、人生を狂わされた選手たちの“その後””. NumberWeb. (2021年4月24日) 2021年5月3日閲覧。
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