雲林寺 (中津川市)とは? わかりやすく解説

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雲林寺 (中津川市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/18 18:20 UTC 版)

雲林寺
所在地 岐阜県中津川市苗木2875
山号 天龍山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 地蔵菩薩
創建年 元和元年(1615年
開山 夬雲玄孚
開基 遠山友政
中興 一秀玄廣
正式名 天龍山雲林寺
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雲林寺(うんりんじ)は、岐阜県中津川市苗木にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は天龍山。苗木藩苗木遠山氏歴代の菩提寺であったが、明治3年(1870年苗木藩の廃仏毀釈により取壊されて廃寺となった。

歴史

慶長19年(1614年)、苗木藩初代藩主の遠山友政が、天正2年(1574年)の武田勝頼の侵攻時に焼亡させられた苗木遠山氏の菩提寺の廣恵寺の代わりとして、新たに菩提寺を建立することを発願し、

帰依していた加茂郡正傳寺維天継縦を開山として招請したが、維天継縦は高齢であったため、

代わりに武儀郡関村梅龍寺八世で、(加茂郡加治田村龍福寺二世)でもあった夬雲玄孚を推挙した。

夬雲玄孚は梅龍寺と龍福寺の両方の寺を兼帯し、そのうえ本山妙心寺へも輪住していたので、雲林寺の創建については彼の高弟の中華玄等に任せた。

上棟式は慶長19年(1614年)友政が大坂冬の陣で留守中に行われたといわれ、同年9月に雲林寺の方丈が建てられた。

元和元年(1615年)、夬雲玄孚により開山された。

この雲林寺の称名は夬雲玄孚の命名で「雲門臨済の禅風をこの地に振興せしむ」との意味からであるといわれている。

元和5年(1620年)12月、雲林寺を開基した遠山友政が享年65歳で没した。

友政は生前に、夬雲玄孚から心月の法号を受けていたので、雲林寺殿心月宗伝居士という法名が贈られた。

初代住持の中華玄等は友政の死に先だつこと4か月前に遷化したが法嗣が無く法系は一時途絶えかけた。

そこで幼時より俊英で龍福寺に入って夬雲の弟子となっていた、苗木深尾氏(給人通)の出身で、中華玄等の法姪にあたる龍福寺四世の一秀玄廣[1]を三世として迎えた。こうして一秀玄廣によって雲林寺は寺統を確立した。

その後、苗木藩から寺領を与えられるなど篤く保護され、塔頭として正岳院壽昌院を建立したほか、苗木藩領内に17の末寺を開山した。

歴代住持

  • 開山 夬雲玄孚 (元和 8年3月25日 入寂)
  • 二世 中華玄等 (元和5年8月18日 入寂)
  • 三世 一秀玄廣 (寛文4年3月16日 入寂)
  • 四世 玄外宗三 (寛文9年 9月25日 入寂)
  • 五世 一桂玄珠 (天和3年7月17日 入寂)
  • 六世 浣渓祖俊 (元禄9年4月18日 入寂)
  • 七世 泰傳慧祥 (元禄16年11月15日 入寂)
  • 八世 桂峯秀英 (正徳 2年6月16日 入寂)
  • 九世 拙愿全驢 (正徳3年2月13日 入寂)
  • 十世 鐵山宗育 (享保20年7月21日 入寂)
  • 十一世 獨仙守慎 (天明3年3月14日 入寂)
  • 十二世 實州玄苗 (明和4年5月22日 入寂)
  • 十三世 篆禮玄儀 (文化元年3月16日入寂)
  • 十四世 大湛等慧 (文政6年10月19日入寂)
  • 十五世 遂安宗寔 (天保2年7月19日入寂)
  • 十六世 静山依松 (安政5年1月24日入寂)
  • 十七世 剛宗宗戴(浅野剛宗)(明治34年7月19日入寂)

妙心竜泉派 春江派

雲林寺の寺法系統は妙心寺派であるが、さらに細別すれば同派の中でも竜泉門下の春江派に属するものである。今その系統を図示すると

  • 妙心竜泉派
    • 春江派 美濃 梅龍寺寺統
    • 景堂派 京都 妙心寺 山内塔頭 大心院寺統
    • 柏庭派 三河 三玄寺寺統

当時恵那郡には竜泉派が古くから伝えられていた。

景堂派は岩村遠山氏の請によって希菴玄密大圓寺再興となり岩村地方に流布し、柏庭派は明知遠山氏によって明知地方に伝わった。

春江派は、苗木遠山氏によって一派を形成した。

このようにして東濃では妙心寺派が一大勢力をなした。

やがて一秀玄廣によって業を受けた者達が、領内の各村に寺を開いたり、中には以前創立された寺院でも改宗するなどして、後年には一派だけで領内一八か寺院を数えるほど、東濃でも屈指の一派を形成した。今その一派の寺院をみると次のようである。

末寺

塔頭

正嶽院

苗木遠山氏及び、雲林寺に対する諸用の取次役の寺で、雲林寺より諸末寺や法類等への諸用・応待も同院の役目であった。

創建時期は不明だが、雲林寺三世の一秀玄廣の弟子の玄興の始めたところであろうとされている。

玄興は、美濃加茂市伊深の正眼寺を大極和尚と共に開山した僧で、

また正岳院、壽昌院も開山して住み始終、一秀玄廣に付添い雲林寺を大成させた陰の功労者であった。

廃仏当時の住持の祚田によると、建物は9間に13三間の一棟で雲林寺法要の際などは宿坊に当てられたとしている[2]

壽昌院

苗木藩2代藩主の遠山秀友の室、壽昌院殿桂室珠芳大姉のために創建され、一秀玄廣が隠棲した所とされている。

壽昌院は元は、雲林寺大門から那木の方へ行く道の右手の広い畑の場所、雲林寺の裏山にあたるところにあった。

何年頃かはっきりしないが、出火類焼したので雲林寺の境内へ移ったとされ、現在畑となっているところが壽昌院跡と伝えられている[3]

寛政6年(1794年)11月の関市の梅龍寺全国徒弟寺院の控帳に壽昌院の寺名が記載されており、

文政4年(1821年)8月の妙心寺仏殿造替資助金の受領書等より考えれば、この頃までは寺名の記入がある。

魏海宗活

魏海宗活は、10歳の時に、雲林寺三世の一秀玄廣の弟子となって修行し、若くして学識高く覇気に富んだ僧であった。

万治2年(1659年)には、雲林寺の五世として法統を継ぐように嘱望されたが、恩師の一秀玄廣の念願「臨済宗を苗木藩領内への布教のため」を座していてはその目的は達せられないと考えて固辞し、雲林寺の五世を、一桂玄珠に譲った。

寛文2年(1662年)または 寛文9年(1669年)に、魏海宗活は故郷の田瀬村に、桃岳山 曹源寺を建立した。

寛文6年(1666年)魏海宗活は、さらに尾張藩領であった付知村宗敦寺を開山した。

曹源寺は魏海宗活が個人的に建立した寺で、雲林寺へ行くときに立寄る雨宿、または隠居寺とも言われ、小規模であったとされている。理由は不明であるが、曹源寺は元禄9年(1696年)ごろに取り潰された。

田瀬村の人々は、魏海宗活が開山した付知村の宗敦寺の檀徒となっていたが、距離が近い下野村の法界寺の檀徒になりたいと苗木藩に願い出て、法界寺の預かり檀徒となった。

廃仏毀釈による廃寺

江戸時代末から明治初頭にかけて苗木藩では、平田篤胤復古神道の影響を強く受けた青山景通・青山直通親子が主導する先鋭化した廃仏毀釈運動が起きた。藩主の遠山友禄は、青山景通により復古神道を薦められ心酔した。

藩内の寺院15ヶ寺の内14ヶ寺の住職は還俗することと決まったが、苗木遠山氏の菩提寺である雲林寺17世の剛宗宗戴のみは還俗を拒んだ。

  • (加茂郡大沢村の蟠龍寺も廃寺となったが、15ヶ寺の中には含まれていない)
  • (苗木城下にあった法華宗佛好寺は15ヶ寺の中に含む)
  • (雲林寺の塔頭であった正嶽院・寿昌院は雲林寺に含む)

青山景通は剛宗宗戴に対し、5人扶持で教諭として雇用するとの条件で説得したが、これを拒み、黄金300両と苗木遠山氏歴代の位牌と仏具を貰い受けて、下野村の中でも苗木藩から幕府領に移管した地域であったがために苗木藩の廃仏毀釈が及ばなかった法界寺の一室に移った。

明治3年(1870年)8月15日、苗木藩は廃仏毀釈の実行を藩内に通知した。そして雲林寺を始めとする苗木領内の全ての寺院は取壊されて廃寺とした。

剛宗宗戴は、その後は浅野剛宗となり、苗木藩の廃仏毀釈により宝林寺が失われた蛭川村に移り、明治11年(1878年)には、岐阜県山県郡松尾村の高徳寺を蛭川村に移転させる形で寺院の再興を果たした。

さらに加茂郡佐見村の中で、苗木藩から幕府領へ移管した地域にあったがために苗木藩の廃仏毀釈が及ばなかった大蔵寺へと転住した。

その間に雲林寺の関係諸品は、それぞれ各地に散逸した。

雲林寺の本尊であった地蔵菩薩と什器は、下呂市の金錫山地蔵寺に移り、岐阜県の文化財に指定されている。

「烏枢澁摩明王像」は江戸時代中期前の作であるが、中津川市手賀野の松源寺に移された。

室町時代作の金銅の「誕生釈迦如来立像」は、廃仏毀釈の際に、加茂郡伊深村正眼寺に移ったが、中津川の有志が懇請して貰い受け東圓寺に遷座し所蔵されている。

特徴は頭部が螺髪ではなく天上天下を指す指が一本で、腰紐を垂らしている。重さ30kg、像高は84cmにも及び誕生仏としては最大の作品で、昭和46年(1971年)10月28日に中津川市の文化財に指定された。

雲林寺跡地には苗木遠山氏歴代の墓が残されており、『苗木遠山家廟所』として中津川市の史跡に指定されている。

幕末期の様子

雲林寺の幕末期の様子については、剛宗宗戴の弟子で雲林寺塔頭の正岳院の住持であり後に飛騨に移った祚田が語った内容が伝えられている。

何しろ雲林寺は大名寺で立派で格式がやかましかったという。

方丈は9間に10間の板葺の建物で、通り仏壇・障子・欄間などがあり、玄関は2間半の通り廊下で、庫裏(裡)は7間に13間位のものであり、座敷の中など割合に小間造りで、万一の場合家老の集会などに便利なる様であった。そして板葺の2階造りであった。この庫裏の食堂に当たる分は凡そ40畳敷位の大きさで、冬は寒くて堪えられなかったということである。

書院は5間6間で、天井はすべて樟板であった。禅堂は簡素な建物で「禅堂の小屋」と通称していた位であった。十三仏堂が方丈の西にあり、2間半に3間位の仏堂であった。土蔵は3間に4間の建物、門には高塀が、7~8間位付いていた。

大門通りには杉の大木が十数本あった。雲林寺は、遠山家を大檀那として家中の藩士200余家を檀家としていた。

始終、雲衲が7、8人と徒弟が7、8人、合わせて14人。5人の僧侶が常住していた。

雲林寺には方丈・庫裏・書院・禅堂・十三仏堂・門等があり、いずれも屋根は根葺きで赤壁であったことが「興廃史」によってうかがわれる。

なお「苗木明細記」には、大門は雲林寺への入口のところをいうが名称だけで門はなかったとし、寺までの道の両側には杉・檜の大木が並んでいたとしており、また十三仏堂には仏像を安置し、家中の位牌が据置かれたと記している。

寺の運営については、前述した祚田(正岳院の住持)によれば、領主から寺へ80石、住持へ20石、都合100石の黒印がつけられ、この外に境内地付近の寺有田から30石位の収穫を寺作していたとしている。

しかし苗木明細記によると、寺領14石余が遠山家より寄付されたとし、その内訳は、福岡村で物成米5石4斗余の所を廣恵寺付近で下され永代引免になっており、残りの9石余は日比野村郷蔵の内から与えられ、都合14石余が寺領となっていたとしている。

この2者の記録には違いがあるので、ここでは根拠の明白な後者の説に従っておくこととする。

関連リンク

参考文献

  • 『中津川市史 中巻Ⅱ』 第八章 寺社 第二節 寺院 三 苗木領の寺院 p1637 - p1649 中津川市 1988年
  • 『八百津町史 史料編』 第七節 苗木藩の廃仏毀釈に就いて p183 - p243 八百津町史編纂委員会 1972年
  • 『苗木の廃仏毀釈 : 苗木藩政改革の中で』 中津川市苗木遠山史料館 2015年
  • 『苗木藩終末記』 廃仏毀釈 p254 - p278 東山道彦著 三野新聞社 1981年

脚注

  1. ^ 後世、雲林寺では一秀玄廣を以て開山とも称している(美濃国苗木藩雲林寺興廃史・森牧閒以下興廃史・法界寺蔵)。
  2. ^ 興廃史
  3. ^ 苗木明細記



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