片岡寺 (中津川市)
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片岡寺 | |
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所在地 | 岐阜県中津川市福岡町字・植苗木 |
山号 | 崇福山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
創建年 | 慶安3年(1650年) |
開山 | 周嶽玄豐 |
開基 | 棚橋八郎兵衛 |
正式名 | 崇福山 片岡寺 |
片岡寺(へんこうじ)は、岐阜県中津川市福岡字・植苗木にかつて存在した臨済宗妙心寺派の寺院。山号は崇福山。
明治3年(1870年)苗木藩の廃仏毀釈により取り壊されて廃寺となった。
歴史
福岡村の住民は、かつて廣恵寺という臨済宗妙心寺派の寺を檀那寺としていたが、光蔵主(廣蔵主)という僧が寂してから後継者が無く、寺が中絶したために、住民は、当時は浄土宗であった法界庵の貞友という僧に帰依して年月が経過していた。
そこで苗木雲林寺を中興した一秀玄廣と、苗木藩の重臣であった棚橋八兵衛朝清が相談して、苗木藩三代藩主の遠山友貞の母の壽昌院殿桂室珠芳大姉の七回忌に際して植苗木に小庵を結び、廣恵寺の後継寺院として建立することとし、慶安3年(1650年)、入用金は苗木藩が寄進し、材木などは福岡村の住民が寄進して、正月下旬から建設を始めて、3月下旬に完成し、4月8日に周嶽玄豐[1]が入寺して開山した。
苗木藩領内には、苗木遠山氏の菩提寺である苗木雲林寺の末寺が15箇寺あったが、片岡寺はその首位であった。
その後、明治維新までの経緯は不詳となっている。
明治3年(1870年)9月に苗木藩の廃仏毀釈によって廃寺となった時は、十一世の椿洲宗茂の代であったが、十世の大嶺恵能が未だ生存中であった。
大嶺恵能は、蒲柳の質[2]であったため、到底帰俗しても農業に耐えられないとして釜戸村へ去り、椿洲宗茂は、瑞龍寺塔頭の天澤院(天澤僧堂)に居た末弟を迎えて後嗣とし、寺名を取って姓となし、片岡和四郎と称した。
取壊された寺跡は、片岡家が五百両ばかりで買受けて、三分の二は田畑となり、三分の一は片岡家の宅地となり、僅かに寺の堤と庭園の一部が、歴代住持の墓の傍らに原型を残しており、土蔵と井戸は往時のままである。片岡家の前庭には往時の寺の築山の一部が残っており、梅の古木や傾きかかった土蔵の南側には、高さ3m、長さ50mの城を囲っていた土塁が残っている。
この土塁は、城の跡であり寺の跡でもあった複合遺跡であり、中津川市と恵那市の木曽川以北ではここだけである。
裏の田の畔に、寺院の中心であったことを示す、三界萬霊塔[3]がある。
三界萬霊塔より150m西に行った野の中一角には、33体の石仏が5列に並んでいる。この石仏群は胴の部分で横へ真一文字に割られている。
これは苗木藩の廃仏毀釈時に、墓の石碑を割って、山に棄てたり、田や道路の石垣に使用したりしていたものを、後の世になってから掘り起こして集め、無縁仏として供養しているものである。
経巻の端本や祖象詩喝の韻本の残部は土蔵の中にあり、開山の周嶽玄豐の木造は土蔵の2階に隠されていたが、昭和末期になってから出されて、今は片岡家の仏壇に安置されている。
片岡寺址は、昭和48年11月3日に福岡町の指定史跡となり、現在は中津川市の指定史跡となっている。
(歴代住持)
- 一世 周嶽玄豐 天和3年(1683年) 7月21日寂
- ニ世 南秀玄梁 天和4年(1684年) 9月6日寂
- 三世 綱宗祖桂 元文元年(1736年) 11月25日寂
- 四世 快山全慶 享保14年(1729年) 10月6日寂
- 五世 恭道玄寅 延享元年(1744年) 7月1日寂
- 六世 一三玄一 天明3年(1783年) 6月25日寂
- 七世 莱洲玄蓬 寛政8年(1796年) 4月25日寂
- 八世 潮音義梵 文化7年(1810年) 5月6日寂
- 九世 圭宗機田 天保10年(1839年) 8月10日寂
- 十世 大嶺恵能 明治7年(1874年) 9月25日寂
- 十一世 椿洲宗茂 明治18年(1885年) 12月6日寂
参考文献
- 『福岡町史 通史編 下巻』 第九章 宗教 第四節 各寺院とその跡 崇福山 片岡寺 p971 - p972 福岡町 1986年
- 『福岡町史 史料編 下巻』 福岡区 五二七 片岡寺開山記 p365 - p366 福岡町 1980年
- 『東濃の古寺』 片岡寺跡 p22 - p23 東濃教育事務所学校教育課 昭和57年
- 『八百津町史 史料編』 第四編 民俗史料 第一章 藩文書 第七節 苗木藩の廃仏毀釈について 三、福岡片岡寺 p214 - p216 八百津町史編纂委員会 昭和47年
脚注
- 片岡寺_(中津川市)のページへのリンク