遣唐使 航路と遣唐使船

遣唐使

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航路と遣唐使船

遣唐使の航路

遣唐使船は、大阪住吉住吉大社で海上安全の祈願を行い、海の神の「住吉大神」を船の舳先に祀り、住吉津大阪市住吉区)から出発し、住吉の細江(現・細江川 通称・細井川)から大阪湾に出、難波津(大阪市中央区)に立ち寄り、瀬戸内海を経て、那大津福岡県福岡市博多区)に至り大海を渡る最後の準備をし出帆。その後は、以下のルートを取ったと推定されている。

  1. 北路
    • 北九州(対馬を経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て、遼東半島南海岸から山東半島の登州へ至るルート。
    • 630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢の変化[63]により使用しなくなった。
  2. 南路
    • 五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。
    • 702年から838年までの航路。
  3. 南島路
    • 薩摩坊津鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。
    • 杉山宏の検討により、存在が証明できないことが判明している。気象条件により南路から外れた場合にやむを得ずとった航路と考えられ[64]、南路を取って漂流した結果に過ぎず採用の事実はないとする説もある[65]

663年白村江の戦いで日本は朝鮮半島での足場が無くなり、676年唐・新羅戦争新羅が半島から唐軍を追い出して統一を成したため唐と新羅の関係が悪化し、日本は北路での遣唐使派遣が出来なくなり、新たな航路の開拓が必要になった。なお、665年の遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。

839年の帰路は、山東半島南海岸から黄海を横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。

遣唐使船はジャンク船に似た構造で網代帆を用い、後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、櫓漕ぎを併用していた[66]。網代帆は開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく優れた帆走性を持っている[67]。船体は、耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来る可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成で航行され、1隻に100人、後期には150人程度が乗船した。

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に佐伯有清は採用された新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃も大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期(舒明から天智朝)に120人、第2期(文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期(光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し乗員の積載物資も激増して遭難が多発し始めたと指摘する[68]。東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げ、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたとする。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している[66]。海事史学者の石井謙治は、前期の沿岸航法である北路とは異なり、後期の南路は当時の未熟な航海技術で五島列島から直接東シナ海を突っ切るため、遭難が頻繁した原因とする[69]


注釈

  1. ^ 遣隋使の留学生の622年の帰国者の薬師恵日らが、「唐国は法式備定の宝の国だから通交すべきだ」と上奏しており、それも受けた開始とされている[3]
  2. ^ 唐国側が朝貢された「調布」と記された布にその律令制的な名前に疑義が生じ日本での律令制施行を知らない(『旧唐書 日本国伝』)[55]
  3. ^ 大使と副使は遣唐使の代表と副代表、判官は一行のまとめ役、知乗船事は4隻の船の責任者、船師はそれぞれの船の責任者、史生と議事は文章の記録と編纂、雑使は船内の雑役係、傔人は大使らの身の回りの世話係、挾杪と柁師は船の舵取りとその責任者、水手は船を漕ぐ係、留学生と学問僧は長期間唐に留まって勉学し傔従が彼らの世話係、請益生は勉学にあたるが遣唐使と共に帰国する[72]
  4. ^ ただし、その根拠としては衛禁律に求める説と賊盗律謀叛に相当するとみる説がある(榎本淳一「律令国家の対外方針と〈渡海制〉」(『唐王朝と古代日本』、吉川弘文館、2008年(原論文:1991年)) )。
  5. ^ 養老律令の関市令の国家による交易先買権の規定の存在から民間貿易の存在を前提にしていたという説もあるが、『延喜式』における同令の解釈においても大蔵省や内蔵寮の属官が関与することが前提となっているため、同令の交易の規定は外国からの使節が日本の都にて交易を行う際の規定であり、実際には民間貿易が大宰府などで行われていた『延喜式』の時代になっても制度上は民間貿易は存在しないことになっていたという見方もある(榎本淳一「日本古代貿易管理制度の構造・特質と展開」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P149-152. )。
  6. ^ ただし、実際の受け入れ先となった大宰府における対外業務は外国使節への対応と海外からの帰化に関する職掌しか与えられていなかったため、外国商船の来航については「帰化」の規定を拡大解釈することになった(榎本淳一「日本古代貿易管理制度の構造・特質と展開」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P150-152. )。
  7. ^ 「年紀制」違反による処分は、滞在中の供給(滞在費用)支給拒否と朝廷との取引停止の効果しかなく、個々の貴族や寺社・商人との取引までを禁じたものではなかった。このため、「年紀制」制定意図を朝廷による唐物交易と財政支出の抑制とみる考えもある(渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」 [要ページ番号])。
  8. ^ 唐宋商人の中には来航後、長期にわたって博多の唐坊を拠点に貿易・商業活動を行い、次の年紀到来直前に帰国して「年紀法」に違反しない形で再度来航する者もいた[要出典]

出典

  1. ^ 西嶋定生 1985, p. 148.
  2. ^ 石井正敏 2011, pp. 118–124、以前の菅原道真建議での廃止説を遣唐使・副使後年の使用を指摘して覆し、定説となっている。
  3. ^ 石井正敏他(編) 2011, pp. 38–39、森公章「東アジアの変動と日本外交」
  4. ^ 石井正敏他(編) 2011, pp. 59、62、218、古瀬奈津子「隋唐と日本外交」、石田実洋「留学生・留学僧と渡来した人々」
  5. ^ 石井正敏 2018, pp. 28–35、「遣唐使の貿易活動」
  6. ^ 東野治之 2007, p. 120.
  7. ^ 西嶋定生 1985, pp. 102–104.
  8. ^ 『旧唐書』巻一百九十九、東夷伝、倭国条
  9. ^ 『新唐書』
  10. ^ 『日本書紀』孝徳天皇白雉4年7月条
  11. ^ 『日本書紀』孝徳天皇 白雉5年7月24日条
  12. ^ 『旧唐書』高宗本紀
  13. ^ 『日本書紀』斉明天皇元年8月1日条
  14. ^ 『日本書紀』巻二五白雉五年二月条「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」
  15. ^ 『日本書紀』天智天皇6年11月9日条
  16. ^ 『日本書紀』天智天皇10年3月3日条
  17. ^ 坂本,平野[1990: 245]
  18. ^ 多治比縣守の親は左大臣、大伴山守の親は右大臣、藤原馬養の親は太政大臣藤原不比等、阿倍仲麻呂の祖父は将軍阿倍比羅夫、と、構成員も豪華である。
  19. ^ 735年(天平7年)、朝廷は遣唐使の利便のため、南島(奄美諸島など)に碑を建てさせた。碑には島名と停泊地、水の補給場所が記されていた。また、遣唐使一行に奄美語の通訳を同行させることとした。この碑の現物は見つかっていない。 - 『延喜式』第50巻(雑式)
  20. ^ 『遺教経』跋語(石山寺蔵)
  21. ^ 唐人の皇甫東朝道璿袁晋卿、波斯(ペルシャ)人の李密翳インド人の菩提僊那(のち東大寺の大仏開眼式に参加)、菩提僊那の弟子で林邑国の仏哲など
  22. ^ 『続日本紀』天平勝宝6年正月30日条)
  23. ^ 『続日本紀』天平宝字6年3月1日条
  24. ^ 高麗大山の弟
  25. ^ 『続日本紀』天平宝字6年7月是月条
  26. ^ 『続日本紀』宝亀9年11月13日条
  27. ^ 『続日本紀』宝亀9年11月10日条
  28. ^ 『続日本紀』宝亀11年正月5日条
  29. ^ 『続日本紀』宝亀10年2月13日条
  30. ^ 『続日本紀』宝亀10年7月15日条
  31. ^ 昆解宮成」参照
  32. ^ 『日本後紀』延暦24年6月8日条
  33. ^ 『日本後紀』延暦23年9月18日条
  34. ^ 『日本後紀』延暦24年7月16日条
  35. ^ 渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.69、242
  36. ^ 当時の寿命と入唐人員の選任基準から鑑みると、誤伝の可能性が高い。
  37. ^ 渡辺照宏宮坂宥勝『沙門空海』筑摩叢書 1967年 pp.87-92
  38. ^ 前回の遣唐使であった菅原清公の三男
  39. ^ 18回の伴雄堅魚の甥
  40. ^ 『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年2月24・27日条
  41. ^ 『続日本後紀』承和3年5月18日条
  42. ^ 『続日本後紀』承和6年3月丁酉条
  43. ^ 『続日本後紀』承和6年10月9日条
  44. ^ 『入唐求法巡礼行記』(唐)開成4年4月1-4日条
  45. ^ 『続日本後紀』承和3年12月3日条
  46. ^ 教訓抄
  47. ^ a b 滝川幸司 2019, p. 165.
  48. ^ 滝川幸司 2019, p. 171-173.
  49. ^ a b c d e f 榎本淳一「遣唐使と通訳」(『唐王朝と古代日本』(原論文:2005年)) [要ページ番号]
  50. ^ 西嶋定生 1985, pp. 103、162-163.
  51. ^ a b 森公章「遣唐使の時期区分と大宝度の遣唐使」(初出:『国史学』189号(2006年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
  52. ^ 大津透 2017, pp. 259–260.
  53. ^ 上田雄 2006, pp. 67–69.
  54. ^ a b 森公章「大宝度の遣唐使とその意義」(初出:『続日本紀研究』355号(2005年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
  55. ^ 石井正敏他(編) 2011, p. 54、森公章「朝鮮三国の動乱と倭国」
  56. ^ 坂上康俊「大宝律令制定前後における日中間の情報伝播」池田温・劉俊文編『日中文化交流史叢書』二、法律制度、大修館書店、1997年、p.49
  57. ^ 神野志隆光『「日本」 国号の由来と歴史』 講談社学術文庫、2016年、第三章「古代中国における「倭」と「日本」」1節「倭の意味」
  58. ^ 東野治之「遣唐使の朝貢年期」『遣唐使と正倉院』、岩波書店 1990年 p.24
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  60. ^ 佐伯有清 2007, pp. 14-16、32-34、79-80、出典は旧版の講談社現代新書、1978年
  61. ^ a b c 森公章「漂流・遭難、唐の国情変化と遣唐使事業の行方」『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
  62. ^ 森公章「遣唐使と唐文化の移入」『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
  63. ^ 東野治之 2007, p. 64.
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  65. ^ 森公章「遣唐使の時期区分と大宝度の遣唐使」『遣唐使と古代日本の対外政策』(原論文:2006年)pp. 54-55.
  66. ^ a b 東野治之 2007.
  67. ^ 上田雄 2006, pp. 258–260.
  68. ^ 佐伯有清 2007, pp. 152-154、157-159、出典は旧版の講談社現代新書、1978年
  69. ^ 石井謙治監修『復元するシリーズ4 日本の船を復元する 古代から近世まで』学習研究社、2002年、P14-15
  70. ^ a b c 森公章「遣唐使が見た唐の賓礼」(初出:『続日本紀研究』343号(2003年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
  71. ^ 鈴木靖民. “遣唐使(けんとうし)”. 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンク. 2016年4月29日閲覧。 “'...時期によって規模・内容を異にするが...大使(たいし)、副使(ふくし)、判官(はんがん)、録事(ろくじ)、知乗船事(ちじょうせんじ)、訳語(おさ)、請益生(しょうやくしょう)、主神(しゅじん)、医師(いし)、陰陽師(おんみょうじ)、画師(えし)、史生(ししょう)、射手(しゃしゅ)、船師(ふなし)、音声長(おんじょうちょう)、新羅(しらぎ)・奄美訳語(あまみのおさ)、卜部(うらべ)、留学生(りゅうがくしょう)、学問僧(がくもんそう)、※けん従(けんじゅう)、雑使(ぞうし)、音声生(おんじょうしょう)、玉生(ぎょくしょう)、鍛生(たんしょう)、鋳生(ちゅうしょう)、細工生(さいくしょう)、船匠(ふなしょう)、※かじ師(かじし)、※けん人(けんじん)、※カジ杪(かじとり)、水手長(かこちょう)、水手(かこ)...。注:引用元で外字が用いられている漢字を※印とよみがなで表示している。引用文中の「※けん」は記事本文中では「傔」、「※かじ」は「柂」、「※カジ」は「挟」で表示している。
  72. ^ 外国人児童のための小学校社会科教材(小学校6年生 歴史教材)” (PDF). 愛知教育大学外国人児童生徒支援リソースルーム. 2016年4月29日閲覧。 “p. 8:大使:代表 副使:副代表 判官:まとめ役 録事:記録や文章をまとめる。史生:記録や文章を作る。雑使:船の生活でのさまざまな仕事をする。傔人:大使などの世話をする。 p. 9:1) 知乗船事:4隻の船の責任者。2) 船師:各船の船長。...4) 柁師:船の舵取りの責任者。5) 挾杪:船の舵取りをする。6) 水手長:水夫の責任者。7) 水手 :船をこぐ人。... p. 10:1) 留学生:長期間、唐で勉強する。2) 学問僧:長期間、唐で仏教を学ぶ。3) 傔従:留学生、留学僧の世話をする。...5) 請益生:遣唐使がいる間,唐で勉強する。
  73. ^ 王勇中国資料に描かれた日本人像 遣唐大使の風貌を中心に」『『境界と日本文学-画像と言語表現-』、国文学研究資料館、2001年、11-13頁。 
  74. ^ 森公章『遣唐使と古代日本の対外政策』p. 177。ただしこの意識が文献的に確認できるのは10-11世紀の文献である(同書p. 191)
  75. ^ a b 石井正敏 2011.
  76. ^ 請令諸公卿議定遣唐使進止状印本”. 菅家文草・菅家後集. 2015年7月17日閲覧。国文学資料館掲載。
  77. ^ a b c 滝川幸司 2019, p. 170.
  78. ^ 滝川幸司 2019, p. 170-171.
  79. ^ 滝川幸司 2019, p. 171.
  80. ^ 石井正敏 2011, pp. .118-124.
  81. ^ 滝川幸司 2019, p. 172-173.
  82. ^ a b 滝川幸司 2019, p. 173.
  83. ^ 森公章「菅原道真と寛平度の遣唐使計画」(初出:『続日本紀研究』362号(2006年)/所収:森『遣唐使と古代日本の対外政策』) [要ページ番号]
  84. ^ 渡邊誠「年紀制と中国海商」(『平安時代貿易管理制度史の研究』(原論文:『歴史学研究』856号、2006年)) [要ページ番号]
  85. ^ a b 渡邊誠「年紀制の消長と唐人来着定」(『平安時代貿易管理制度史の研究』(原論文:『ヒストリア』217号、2006年)) [要ページ番号]
  86. ^ a b 榎本淳一「律令国家の対外方針と〈渡海制〉」(『唐王朝と古代日本』(原論文:1991年)) [要ページ番号]
  87. ^ 東野治之 2007, p. 178、資料は、榎本淳一『「小右記」にみる渡海制』
  88. ^ 榎本淳一「〈国風文化〉の成立」(『唐王朝と古代日本』(原論文:1997年)) [要ページ番号]
  89. ^ 長門の造船歴史館 - 呉市ホームページ”. www.city.kure.lg.jp. 2023年12月3日閲覧。
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  91. ^ 再現された遣唐使船が中国・上海へ向けて大阪を出港!”. NewsWalker (2010年5月8日). 2018年4月1日閲覧。
  92. ^ 渡辺謙 遣唐使船に乗って上海万博を訪問”. スポニチ (2010年6月13日). 2018年1月19日閲覧。






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