第二次中東戦争 戦争の推移

第二次中東戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 05:50 UTC 版)

戦争の推移

イスラエルの侵攻

イスラエル軍の侵攻ルート

1956年10月29日午後5時(当初の予定より2時間繰上)、イスラエル国防軍ラファエル・エイタン中佐指揮の落下傘部隊395人が国境を越えて、シナイ半島のスエズ運河から72kmの地点のミトラ峠に降下し、侵攻を開始した(シナイ作戦)[9]

イスラエル陸軍は、10個旅団の兵力で3箇所からシナイ半島に侵攻し[10]アリエル・シャロン大佐の落下傘部隊・第202空挺旅団もイスラエル国境から砂漠を横断する補給路の確保のため陸路シナイに入っている。エジプト軍は、シナイ半島東部やガザ地区に、歩兵2個師団・機甲1個旅団などを配置していた[10]が、各所で撃破されている。

第一次中東戦争のときとは違い、英仏の兵器で重武装したイスラエル軍に対してエジプト軍は防戦一方となり、撤退を繰り返した。

10月30日午後、ロンドンでイギリス政府により、スエズ運河から少なくとも10マイル(16km)内陸に入った地点まで兵力を撤収するという最終通告がイスラエル、エジプト両国代表に手渡された。この時点でエジプトは運河を完全に占拠しており、イスラエル軍はそこから約50kmの地点にいたため、この通告は事実上エジプトに対する運河からの撤去命令であり、英仏の目論見によるものであった[9]

ナセルは苦しい立場におかれたが、結局通告を拒否して徹底抗戦の意思を表し、エジプト軍は、スエズ運河を物理的に通航不能にさせる実力行使に出た。すなわち、艦船を運河に沈めてバリケードを築いたのである。

10月31日の早朝、エジプト海軍のフリゲート艦イブラヒム・アル・アウワル(旧英海軍ハント級駆逐艦)からの砲撃ハイファに向けて行われたが、フランス海軍駆逐艦クレセントの迎撃や、イスラエルのウーラガン戦闘機2機、駆逐艦エイラートとヤッフォの攻撃により、イブラヒム・アル・アウワルは被弾、発電機等が破壊された。そのため、イブラヒム・アル・アウワルは降伏し、ハイファ港に曳航された[9]。同日には英仏軍によるエジプト領内への爆撃も開始されている。

通告の回答を保留したイスラエル軍は単独でエジプト軍との地上戦を続けた。シャロンはエジプト側の防御の硬いミトラ峠を攻略しないよう参謀総長モーシェ・ダヤンに命じられていたが、「偵察隊」と称してモルデハイ・グル少佐の指揮する部隊(一個大隊相当、更に一個大隊を増援[10])を送り込み、この部隊はエジプトの待ち伏せに遭うことになった。38人の死者を出したものの峠は攻略され、エジプト側の死者は200人を超えた。この作戦に関してダヤンとシャロンは激しく批判され、2人の確執を生むこととなった[11][12]

11月2日までに、イスラエルは途中ソ連製戦車T-34など戦利品を獲得しながらスエズ運河の東15kmの地点までたどり着いた。同じく11月2日に10,000人以上のエジプト軍人が駐屯するガザ地区にも攻撃を加えた、同日中に国連の調停によりガザ地区のエジプト軍政官が降伏した[10]

11月1日からは空母イーグル(英海軍オーディシャス級)、アルビオンブルワーク(2隻とも英海軍セントー級)、アローマンシュ(仏に売却された旧英海軍コロッサス級)、ラファイエット(旧米海軍インディペンデンス級)と戦艦ジャン・バール(仏海軍リシュリュー級)からなる英仏機動部隊がエジプト領内への空襲を開始し制空権を確保した[13]

英仏軍は11月5日、シナイ半島への侵攻を命じた。さらにイギリス軍は落下傘部隊を以て、スエズ運河西岸ポートサイドのエジプト軍を急襲した。6日からは戦艦や巡洋艦艦砲射撃の援護のもと上陸作戦を開始した。

停戦と撤退

 三国による侵略は、国際社会から強い非難を浴びた。

 アメリカは、植民地主義的侵略に同意しなかった。7月末の危機発生以降、終始軍事行動に同意を表明せず、外交的解決を図った[14]。侵略を行った三国には経済的圧力をかけ、また国連での即時停戦に関する決議を主導した[15]

 10月31日国連では、拒否権行使が無効である手続事項に関する[16]国際連合安全保障理事会決議119が採択された。この決議ににより、平和のための結集決議に基づく特別緊急総会が招集された。この総会では英・仏・イスラエルに対し即時停戦撤退を求める総会決議997が11月2日に採択された。この国連総会決議を無視する形で、イスラエル軍はシナイ半島での攻撃を継続し、11月5日英仏軍はポートサイド等にパラシュート部隊を投下した。翌6日には英仏軍はポートサイドに上陸した[17]

 ソ連は、エジプト支援よりもハンガリー民主化への弾圧を優先させた。11月4日からソ連軍ブダペストでの民主運動鎮圧を開始し、アメリカを始め西側諸国から厳しい批判を受けた。鎮圧後11月5日に英仏イスラエルに「核兵器による威嚇」を発した[18]

 アメリカ・国連・ソ連により圧力を受け、エジプト、イスラエルが停戦に応じ、上陸当日の11月6日に英仏は停戦受諾に追い込まれた。11月7日午前2時(カイロ時間)停戦が発効した[19]

 イスラエル軍の撤退後、休戦ラインのエジプト側にはPKOとして第一次国際連合緊急軍(UNEF)が展開された[20]。これは当時のカナダレスター・B・ピアソン外相の提案であり、ピアソンは翌年にノーベル平和賞を受賞した。

戦後

結局英仏はスエズ運河を失い、イギリスのアンソニー・イーデン首相は敗戦の責任をとらされる形で辞職した。アメリカはナセルをこれ以上追い詰めて、ソ連が介入してくることを恐れたが、しかし英仏軍撤退の瞬間にアメリカが欧州に対して圧倒的優位であることを世界に誇示することができた。

イスラエルは率先して戦いを仕掛けたとして国際社会、主にアメリカから非難された。ジョン・フォスター・ダレス国務長官経済制裁を示唆し、イスラエルは上級特使としてハイム・ヘルツォーグゴルダ・メイアをアメリカに派遣した。首相兼国防相のベン=グリオン右派政党の批判を抑えながら撤退を完了した[21]

 11月24日侵略を行った三国に「即時無条件撤退」を求める国連総会決議が採択された。英仏はこれを受け入れ12月21日無条件撤退を完了した。イスラエルは撤退と交換にチラン海峡の自由航行の確保等を目論み、無条件撤退に応じなかった。このようなイスラエルの非妥協的な姿勢は国際社会から激しく批判された。国連やアメリカとの厳しい交渉の末、チラン海峡の自由航行を事実上確保したイスラエルが、シナイ半島からの撤退を完了したのは1957年3月7日であった[22][23]

エジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦ったことでアラブから喝采を浴び、中東での発言力を確固たるものとした。ナセルは翌1957年1月に国内の英仏銀行の国有化を宣言、エジプト国内の欧州勢力を一掃し4月にはスエズ運河の通航を再開した。

他方で、英仏は惨憺たる結果で、イギリスは戦費として5億ポンド近く出費したが戦果は得られず、それどころかポンドが大幅に値下がりし、一時スターリング圏が崩壊寸前まで至った。それが原因となりアメリカに対して経済的立場が弱くなり、以降は追従せざるを得なくなった。フランスもこの戦争で得たものはなかったが、米ソ以外の新しい勢力として、ド・ゴール主義を根幹とする新しい外交政策を創り出した。

輸送力の不足

スエズ運河が封鎖を受けたことで西側諸国の船舶には不足が生じた。これを補うためアメリカの国防予備船隊から、223隻の貨物船と29隻のタンカーが現役復帰し民需輸送に従事した[24]


  1. ^ a b c d e f g h スエズ戦争”. コトバンク. 2024年3月15日閲覧。
  2. ^ a b c d Israel Defense Forces: Military Casualties in Arab-Israeli Wars (1948 - 1973)”. Jewish Virtual Library. 2024年3月15日閲覧。
  3. ^ 池田亮『スエズ危機と1950年代中葉のイギリス対中東政策』(一橋大学、2008年)p494-498
  4. ^ 「ナーセル」世界大百科事典第二版
  5. ^ ルイス・ギルバート 著、千本健一郎 訳『イスラエル全史【下】』朝日新聞出版、2009年1月21日、17頁。 
  6. ^ ギルバート、千本(p.18 - 25)
  7. ^ Avi Shlaim (1997). “The Protocol of Sevres, 1956: Anatomy of a War Plot”. International Affairs Vol.73, No.3: 509-530. 
  8. ^ 山崎雅弘『中東戦争全史』学習研究社 2001年 ISBN 978-4059010746
  9. ^ a b c ギルバート、千本(p.29 - 41)
  10. ^ a b c d 図説 中東戦争全史 学習研究社 2002年 ISBN 4056029113
  11. ^ ギルバート、千本(p.31)
  12. ^ Chaim Herzog (2005). The Arab-Islaeri Wars: War and Peace in the Middle East. Vintage Books. pp. 117-123 
  13. ^ 鳥井順『中東軍事紛争史』(第三書館、1995年)p335-410
  14. ^ 佐々木雄太『イギリス帝国とスエズ戦争』名古屋大学出版会、1997年2月28日、187-188頁。 
  15. ^ Memorandum of Discussion at the 302d Meeting of the National Security Council, Washington, November 1, 1956, 9 a.m., FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES, 1955–1957, SUEZ CRISIS, JULY 26–DECEMBER 31, 1956, VOLUME XVI, pp.902-916.
  16. ^ [1]
  17. ^ 佐々木雄太『イギリス帝国とスエズ戦争』名古屋大学出版会、1997年2月28日、205-206頁。 
  18. ^ John Lewis Gaddis (1993). We Now Know, Rethinking Cold War History.. Oxford University Press. p. 173 
  19. ^ Telegram From the Department of State to the Embassy in Egypt, Washington , November 6, 1956—6:29 p.m., FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES, 1955–1957, SUEZ CRISIS, JULY 26–DECEMBER 31, 1956, VOLUME XVI, pp.1032-1033.
  20. ^ 鏡(p.74)
  21. ^ ギルバート、千本(p.41)
  22. ^ Message From Prime Minister Ben Gurion to President Eisenhower, Jerusalem, March 7, 1957, FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES, 1955–1957, ARAB-ISRAELI DISPUTE, 1957, VOLUME XVII, pp.379-380.
  23. ^ Douglas Little (2003). American Orientalism, The United States and the Middle East since 1945. I.B.Tauris. pp. 91-93 
  24. ^ 「2-2 NDRF/RRFの歴史」『米国海軍予備船隊制度に関する調査』シップ・アンド・オーシャン財団 1998年5月


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