神峯山寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 15:08 UTC 版)
概要
神峯山寺は高槻市の中心部より北へ約6km、原地区という田園風景が広がる農村部山間の山寺である。行政区は大阪府であるが、地理的には京都盆地の西側、西山連山から続く最西端に位置する。敷地約100haのほとんどは山林で覆われ、一帯を総称して神峯山といい、都市近郊の貴重な原生林が現存。参道に張られた勧請掛けが聖域と俗世の境界を示すとされる。
また、開山の祖とされる役小角(役行者)、中興の祖である開成皇子の像が境内に安置され、古来の皇室との緊密な関係は本堂の十六八重菊紋などで確認できる。また、かつて七高山と称された修験霊場の一角であり、修験者が使用した修行の道や滝、葛城山(金剛山)遥拝所を示す石標などが境内の各所に点在する。神峯山の参道入口には石造の鳥居が立ち、仁王門前には狛犬があるなど神仏混淆の風土が現在も見られる。
歴史
開山伝承
「神峯山寺秘密縁起」によれば、文武天皇元年(697年)に役小角が葛城山で修行をしていた時、北方の山から黄金の光が発せられて霊感を受け、この地にやってきた。そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で4体の毘沙門天が刻まれ、役小角は伽藍を建立しこの毘沙門天を祀ったことが当寺の起源とされている。
さらに縁起によれば、刻まれた残り3体の毘沙門天は天高く飛散し、1体はかつて神峯山寺奥之院「霊雲院」であった北山本山寺に、1体は京都市左京区の鞍馬寺に、1体は奈良県生駒郡平群町の朝護孫子寺に安置されたと伝わっている。これら寺院の本尊は現在も毘沙門天であるが、この逸話はあくまで神峯山寺の縁起によるものであり関連は定かではない。
開山以後、神峯山寺は修験霊場として多くの修験者を迎え入れたとされ、同じく近畿の修験霊場として名高い比叡山、比良山、伊吹山、愛宕山、金峰山、葛城山に並ぶ七高山の一角として大いに栄えたとされている。
中興
宝亀5年(774年)、光仁天皇の子息であり桓武天皇の庶兄にあたる開成皇子が、勝尾寺(現・大阪府箕面市)から入山し、光仁天皇の命によって本堂を建立して住職となった。これを機に神峯山寺は天台宗寺院となる。また光仁天皇の勅願所となって以降、神峯山寺は皇室に緊密な寺院となり、その関係は幕末まで続いていたとされる。境内には開成皇子の埋髪塔(五重塔)や、光仁天皇の御分骨塔(十三重塔)があり、天皇と皇室を表す十六八重菊の使用が認められ、各所に菊の紋章が見られる。
平安時代後期
平安時代後期に、天台宗僧侶であった良忍が開宗した融通念仏宗の源流が大原、鞍馬を通り神峯山寺へ伝わったとされ、神峯山寺秘密縁起4巻の冒頭にはその説話が残されている。
大治元年(1126年)の頃、摂津国に橘輔元(たちばなのすけもと)という役人がおり、極めて裕福であったが7度の火災で家財がすべて失われ、輔元の父、子にわたる3代にわたって癪の病にかかるという苦しみを受けた。輔元は奥之院の毘沙門天の宝前でこの苦しみから救われるよう深く祈祷し、九頭龍滝に打たれるなど苦行を行ったとされている。そして輔元とその子息は、後に良恵、忍恵と名乗り、良忍の弟子となり神峯山寺の住職を継いだといわれる。
鎌倉時代以降
神峯山寺本尊・毘沙門天が武将による信仰を厚く受けていたのは、鎌倉時代末期からであったとされている。楠木正成が奉納したと伝わる殿中刀は現在も神峯山寺本堂に所蔵されており、室町幕府三代将軍足利義満、摂津守護代三好長慶に仕えていた松永久秀や、豊臣秀頼の生母淀殿らによる寄進があった。これらは毘沙門天が戦いの神として崇拝されたことに起因するようだが、経緯は定かではない。
江戸時代
上方文化が栄えた元禄年間(1688年 - 1704年)頃より、神峯山寺は大坂商人から厚い信仰を受け巡礼地として栄えた。これは毘沙門天が七福神の一神であったことから、商売繁盛を祈願するために商人達が淀川を上り、三島江から神峯山寺まで歩いて参拝したことが記録されている。江戸時代の代表的な豪商である鴻池善右衛門もまた巡拝者の一人であり、三島江から神峯山寺参道にかけて十数か所に石造の道標を建立した。
神峯山寺は江戸時代に隆盛期を迎えた。最盛期には7つの堂に加え伽藍および僧坊が21か所、寺領は1,300石あり、奈良県生駒郡平群町にも飛地が存在したことが神峯山寺秘密縁起に記録されている。しかし、明和2年(1765年)に火災により本堂を焼失して以降、安永6年(1777年)に再建されたものの、規模は徐々に縮小し、現在に至っている。
しかし、昨今の調査で宝塔院(本坊)にて江戸幕府2代将軍徳川秀忠から14代徳川家茂までの位牌が発見されるなど、江戸末期においても徳川将軍家との密接な関係があったことが確認されている。
幕末 - 明治
本堂にかかる「日本最初毘沙門天」の扁額は、伏見宮邦家親王の真筆であり、同時期には明治政府の要人であった有栖川宮熾仁親王が神峯山寺本坊の「宝塔院」と書いた真筆を奉納している。また有栖川宮熾仁親王の祖父母にあたる有栖川宮韶仁親王と宣子(のぶこ)女王の位牌は嶺峯院に祀られているなど、幕末から明治期にかけても皇族との関係が密接であったことを表している。
本尊
神峯山寺の本尊は3種の毘沙門天で構成されるという珍しい形態をとっており、それぞれ第一の本尊、第二の本尊、第三の本尊と称されている。いずれも秘仏だが、第二の本尊・兜跋毘沙門天のみ秋の大祭の折に開帳される。
- 第一の本尊・毘沙門天
- 毘沙門天を中尊とし、吉祥天(毘沙門天の妃または妹とされる)と善膩師童子(ぜんにしどうじ。毘沙門天の子とされる)を脇侍とする三尊形式をとり、本堂内陣中央に安置される。皇室や幕府は国家安泰の神としてこの毘沙門天を厚く信仰した。また子授安産、家庭安穏の御仏としても利益があるとされる。
- 第二の本尊・兜跋毘沙門天
- 本堂奥内陣に安置される。福徳先勝の神として楠木正成や松永久秀などの武将から、また商売繁盛の神として大坂商人からも厚い信仰を受けた。神峯山寺で年に1度行われる秋の大祭にて開帳され、その折にのみ拝観が可能である、
- 第三の本尊・双身毘沙門天
- 歴代住職の持仏として本堂中内陣の厨子に安置される。天台密教における双身毘沙門天の祈願作法は秘法で、天台本流の作法が正式に伝承されている。
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