皇室用客車 霊柩車

皇室用客車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 13:12 UTC 版)

霊柩車

皇室用の霊柩車としては、英照皇太后孝明天皇の皇后)、明治天皇及び大正天皇大喪の礼の際にそれぞれ新製された3両が存在する。これらには、形式、記号、番号のいずれもが付与されておらず、「霊柩車」が名称であるが、ここでは便宜的に、それぞれ初代2代3代と称することとする。

これらの他に、葉山御用邸で崩御した大正天皇の遺体を東京の宮城(皇居の旧称)に還幸させるために、3号御料車(初代)が霊柩車に改造のうえ使用されたが、名称、番号等の変更はなかった。同車は、1951年(昭和26年)の貞明皇后の大葬の際にも13号御料車と改称のうえ、霊柩車として使用されている。

初代

本車は、1897年(明治30年)1月11日に崩御した英照皇太后の遺体を、京都郊外の後月輪東山陵に輸送するために仕立てられた霊柩車である。この車両は、鉄道開業時にお召列車が運転された際に明治天皇が御料車として使用した、車体両端部に開放式のデッキを設けた“米国形”サロン車形式Aの後身と考えられている[9]

当時は東海道線が全通して行幸の距離も伸びており、厠のない近距離用の形式Aは使用が少なくなったため、1889年(明治22年)に皇后および皇太后共用の御召車とされ、1893年(明治26年)には御料車から外されて通常の貴賓車となっていたらしい。それに英照皇太后の崩御が重なったため、この機会に転用が行われたものである。

改造は新橋工場で行われ、妻面に観音開きの扉を設置し、室内の仕切りを一部撤去して霊柩の固定台を設け、壁面は黒紋付綸子または黒紗で覆われ、床には海老色の絨毯が敷かれた。本車は、皇太后の葬儀を京都で行うため、2月2日から3日にかけて大葬列車を組んで使用されている。霊柩車としての使用後は、一般営業用に格下げられ、一等車イ1(後のイ112)となったと推定されている。同車は、1920年(大正9年)6月中に吉野鉄道へ譲渡されている。

2代

ホイヘ16900の形式図

本車は、1912年(明治45年)7月30日に崩御した明治天皇の大葬の際に、天皇の霊柩を東京から明治天皇の陵として指定された伏見桃山陵に搬送するため、鉄道院新橋工場で製作された霊柩車である。基本構造は、鉄道院基本形に属する。

車体は木造で、車体中央部に両開きの大きな引戸が設けられており、内部には霊柩を固定するための台が設けられている。霊柩は移動用のレールに載せられて移動し、車内に設けられた台上で回転させ、固定される。

本車は、1914年(大正3年)の昭憲皇太后の大葬の際にも使用され、以降は大井工場で保管されたが、1925年(大正14年)に一等病客車ホイヘ6070)に改造され、1928年(昭和3年)にホイヘ16900に改番された後、二等病客車(ナロヘ16900)に格下げされた。改造後の形式図によれば全長16.78m、自重25.7tの2軸ボギー車、中央の扉の幅は2600mmである。

3代

オイヘ26900の形式図

1926年(大正15年)12月25日に崩御した大正天皇の大葬の際に、製造中の客車を大井工場で改造して製作されたもので、形態的には大型客車(22000系)に属する。

3号御料車の改造計画とほぼ同時に計画されたもので、車両の性格上、車体中央部に大きな開口部を設ける必要があることから、床下にトラスロッドを有する旧設計の未成郵便荷物緩急車の台枠と台車を流用することとして製作期間の短縮を図っており、翌1927年(昭和2年)1月20日になり落成した。 あくまでも大喪の礼に合わせて製作されたもので、崩御直後の1926年(昭和元年)12月27日逗子駅から原宿駅間で運行された「御霊柩列車」[10]には使用されていない。

車体は木製で、全長16.86m、大正14年式の2軸ボギー台車を装着し、車体の中央部の片側に幅3200mmの扉を設けた。 奉安室内はヒノキの白木造りで、床面には霊柩安置の際に使用するガイドレールを設置した。四方のカーテン羽二重で金具類は全て製。釘隠しも菊の銀細工が用いられた。床は草色の絨毯が使用されている[11]。 外板塗色は、御料車と同様の深紫色の漆塗りで、羽目板は継ぎ目を見せない平滑な横張りとしている。

1927年2月7日に挙行された大正天皇の大葬後は、2月13日から4月4日までの48日間、東浅川駅に据え置いて一般の拝観に供した。その間の拝観者数は、63万9千人に達したという。

1933年(昭和8年)、一等病客車オイヘ26900に改造された。定員16人、自重34.86t。同車は、1949年(昭和24年)10月に鋼体化改造され、オハ60 5となった。


  1. ^ 大正時代のれんが造り「御料車庫」の解体が始まる 失われる東京・品川の鉄道遺構 JR東日本が再開発”. 東京新聞 (2023年4月2日). 2023年5月11日閲覧。
  2. ^ a b c d 竹内正浩 (2010-9-10). 鉄道と日本軍. 筑摩書房. pp. 34-35. ISBN 978-4480065698 
  3. ^ 運輸局客貨車課「御料車第2号編成の更新改造について」『車両と電気』第10巻第6号、車両電気協会、1959年6月 17-18ページ
  4. ^ 大井工場「皇太子殿下及び同妃殿下の御乗車になられた御料車第2号について」『鉄道工場』第10巻第5号、レールウエー・システム・リサーチ、1959年5月 2-4ページ
  5. ^ 天皇と直接の血縁関係にある皇族のこと。この場合は秩父宮高松宮三笠宮の三宮家を指す。
  6. ^ プロムナード 展示車両紹介 - 京都鉄道博物館
  7. ^ 星晃『回想の旅客車 特ロ・ハネ・こだまの時代』上(学習研究社、2008年) 御料車と貴賓電車 p143~p146
  8. ^ 東日本旅客鉄道鉄道事業本部運輸車両部車両運用計画グループ 白土裕之「3月15日ダイヤ改正 JR東日本 客車・機関車の動き さようならEF58 61、夢空間、ゆとり…」『Rail Magazine』2008年4月号(通巻295号)、ネコ・パブリッシング。
  9. ^ 鈴木啓之「英照皇太后の霊柩車となった御料車―京阪間最初の御料車の変転―」鉄道史料1985年11月号(第40号)、鉄道史資料保存会
  10. ^ 弔砲四十八発、葉山から東京に還御『東京日日新聞』昭和元年12月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p363 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  11. ^ 鉄道省が桧造りの霊柩車を準備『大阪毎日新聞』昭和元年12月28日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p364)
  12. ^ 記念切符を発売『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月13日朝刊、13版、22面
  13. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、71頁。ISBN 978-4-10-320523-4 


「皇室用客車」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「皇室用客車」の関連用語

皇室用客車のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



皇室用客車のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの皇室用客車 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS