沙田区 沙田区の概要

沙田区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/10 18:50 UTC 版)

沙田区
Sha Tin District
地区 新界東
面積 69.46k㎡
総人口 (2021年) 692,806人
人口密度 9,602人/k㎡
成立日時 1981年4月
民政事務専員 柯家楽
区議会主席 李志宏
区議会選挙区数 41

沙田区(さでんく、広東語読み:サーティンキョイ)は、香港の18の行政区画のうちの1つであり、新界に位置する9つの地区のうちの1つである。沙田大囲中国語版馬鞍山火炭中国語版小瀝源中国語版の他、香港中文大学が位置する馬料水などの地域を含む。地区の人口は香港で最も多い。2001年の国勢調査によると、48の村に居住する約2万7000人の新界原居民が人口に含まれている。

地理

沙田ニュータウン

沙田区の市街地はもともと、沙田海城門川の両岸に位置する、大囲中国語版火炭中国語版禾輋中国語版石門中国語版小瀝源中国語版圓洲角九肚山中国語版馬料水などを含む埋立地で構成されていた。現在では、馬鞍山烏渓沙へも拡大している。沙田ニュータウンは、海を埋め立てるかたちで形成されており、両側から埋立が行われた結果、現在では湾の中央部にあった比較的深い部分が、城門川の延長として残っている。

沙田区は香港ではじめて、都市計画の概念を持ち込んだ地区として知られる。ニュータウンは、城門川から山の中腹まで、南西から北東方向に向かって開発された。東鉄線沙田駅周辺には沙田市中心中国語版が設置され、政府機関、公園、交通ハブ、大型のショッピングモールなどが集積している。

歴史

1982年の沙田
1983年の沙田
2008年の沙田
香港国際空港を離陸した飛行機から撮影した沙田(2016年10月)
沙田水泉澳地区(2016年)
小瀝源地区
7.5ヘクタールある小瀝源の工業団地
城門川に架かる瀝源橋
城門川の夜景
烏渓沙のビーチ

開発前

沙田区の一帯は、古くは瀝源中国語版と呼ばれていた。これは、城門川を流れる水に由来する地名である。隣接する大埔区では、石器時代から原住民が住んでおり、沙田区では、馬鞍山で新石器時代や青銅器時代の出土物が発見されていることから、明の時代以前には既に人が定住していたとされる。河岸に位置するため、主に農業が営まれていた。

1574年、現在の大囲中国語版一帯に、大囲村が建設され、城壁で囲まれた村としてはこの地域で最古かつ最大のものである。その後、城門川沿いの浅瀬であった山下囲、小瀝源、沙田にも村落が形成された。当時、城門川の河口は現在の獅子橋付近にあり、その北東は沙田海で、圓洲角は沙田海の中欧に浮かぶ小島であった。

清の時代には、瀝源に存在した40以上の村が「沙田九約」を結び、共同で治安維持を行うようになった。当時瀝源には市場がなかったため、最寄りの大埔墟(現在の大埔旧墟)まで徒歩や小舟で向かわなければならなかった。

イギリス統治時代

1898年、清とイギリスは展拓香港界址専条に署名し、沙田も植民地の範囲内に含まれることとなった。このときイギリス軍は調査団を派遣し、もともと一村にすぎなかった沙田囲を瀝源全体の地名と勘違いしたことから、地域の総称として沙田という名称が根付いた[1]

1910年、九広鉄路が開通し、沙田村の近くには沙田駅が設けられた。それ以来、沙田の地名はだんだんと知名度を上げていったが、反対に旧来の瀝源は忘れられていった。1920年代には、オーストラリア国籍の華僑であった劉希成が、沙田駅周辺の塩田を購入したが、開発は行われなかった[1]。1937年、暴風雨が一帯を襲い、大埔では6mを超える波が発生した。海水は沙田海に流れ込み、湾の両岸の広大な土地が浸水したため、多くの犠牲者を出した。1950年、劉希成の息子が、沙田駅周辺の大きな農地(現在のニュータウンプラザ一帯)に沙田墟を建設し[1]、1956年に完成した。面積は15万平方フィートにも及び、ローストした鶏やお粥で知られるようになった。しかし、1962年に再び台風ワンダが香港を襲い、沙田墟と近くにあった軍用の沙田飛行場が被害を受け、犠牲者が出た。

ニュータウンの発展

香港の人口増加に対応するため、1960年、香港政府は沙田を衛星都市として開発することを決め、翌1961年に最初の都市計画を策定した。当初は大埔理民府のもとで計画が進められていたが、その後沙田理民府として独立することとなった。しかし、ニュータウン計画が正式に開始されたのは、先住民の村や沙田飛行場が撤去された1973年のことであり、沙田海と城門川の両岸で大規模な開発プロジェクトが実施された。1979年、沙田墟で火災が発生し、廃墟と化してしまったため、香港政府は沙田ニュータウン建設のために沙田墟を取り壊した。1980年代、政府は当初の計画の規模を、36万人が収容できる計画へと拡大することを決定し、沙田区は馬鞍山を含む現在の規模となった。1981年4月には、沙田区議会が設立されている。

年表

  • 1574年 - 大囲一帯に大囲村が完成。
  • 1898年 - 清とイギリスが展拓香港界址専条に署名、深圳河以南が英国植民地・香港となり、沙田も含まれる。
  • 1910年 - 九広鉄路(現在の港鉄東鉄線)が開通、沙田駅が開業。
  • 1920年代 - オーストラリア人華僑の劉希成が沙田駅周辺の塩田を購入[1]
  • 1937年 - 高潮が吐露港から沙田海に流れ込み、浸水被害、犠牲者多数を出す。
  • 1945年 - 沙田郷公所(沙田郷事委員会の前身)が成立[1]
  • 1949年 - イギリス陸軍航空隊の沙田飛行場が完成。
  • 1956年 - 沙田墟が完成。九広鉄路馬料水駅(現在の東鉄線大学駅)が開業。
  • 1962年 - 台風ワンダが香港を襲来、沙田墟や沙田飛行場に被害。
  • 1963年 - 香港中文大学が設立、馬料水の崇基山にキャンパスの設置決定。
  • 1967年 - 獅子山トンネル南行が完成し、交通事情が大幅に改善。沙田と九龍が直接結ばれる。
    • 11月 - 中文大学の起工式、着工。
  • 1969年-1973年 - 中文大学の本部、新亜書院などが馬料水へ段階的に移転。
  • 1973年 - 沙田ニュータウンが正式に着工。
  • 1975年 - 最初の公営住宅である瀝源邨で入居開始。
  • 1976年6月16日 - 沙田旧墟の28店舗が取り壊され、大埔公路(現在の大埔公路沙田段)が拡張(現在の大埔公路沙段)[2]
  • 1977年3月 - 1980年 - 沙田区で最初の高層民間住宅・世界花園が完成、入居開始。
  • 1978年
    • 1月18日 - 獅子山トンネル南行が完成。
    • 8月25日 - 午前0時7分、沙田旧墟で火災発生、317名が住居を失う[3]
  • 1978年10月7日沙田競馬場が完成、九広鉄路の馬場駅開業[4]
  • 1980年3月4日 - 沙田旧墟に残っていた店舗の取り壊し[5]
  • 1981年 - 沙田区議会が設立。
    • 4月26日 - 新筆架山トンネルが開通。
  • 1982年 - 城河東に最初の大型民間住宅、沙田第一城が完成。九広鉄路の電化に伴い、新沙田駅と威爾斯親王病院(中文大学病院)が開業。
  • 1983年 - 九広鉄路の大囲駅が臨時駅として開業。九広鉄路全線で電化が完了。
  • 1984年 - 沙田体育会が「沙田ドラゴンボートレース」を開催。当初、河東・浜景花園付近の城門川で行われたが、翌年から河西・翠榕橋から沙燕橋までの現行区間に移された。
  • 1984年12月 - ニュータウンプラザ完成。ヤオハンが開業し、開業記念の花火大会が開催。
  • 1985年 - 九広鉄路の火炭駅が開業。火炭地区最大の大型民間住宅、銀禧花園(第1期)で入居開始。
  • 1986年 - 火炭地区の大型住宅、銀禧花園(第2期)で入居開始。大囲駅が常設の駅となる。
  • 1987年 - 沙田区役所が完成、香港で2番目の庁舎となる。馬鞍山最初の公営住宅、恒安邨が完成。
  • 1988年 - 沙田裁判所、沙田公共図書館、沙田公園が完成。
  • 1990年 - 城門トンネルが完成。区内2本目のトンネルとなる。
  • 1991年 - 大老山トンネルが完成。九龍を結ぶ2本目のトンネルとなる。
  • 2000年 - 香港最大の博物館、香港文化博物館が完成。
  • 2002年 - 沙田政府庁舎が完成。Citylinkと旧沙田政府庁舎(現在の嘉御山)にあった機関の一部が移転。
  • 2004年 - 馬鞍山鉄路(現在の港鉄馬鞍山線)が開通。
  • 2005年 - 馬鞍山公共図書館と馬鞍山体育館が完成。ボートレースのゴール・セレモニー会場となるドラゴンボードパビリオンが完成。
  • 2008年 - 青沙コントロールエリアとシティアートスクエアが開業。
  • 2009年3月 - 難燃性の材質を用いた最初の住宅、御龍山で入居開始。
  • 2012年 - 香港では中環国際金融中心と港鉄黄竹坑車庫に次ぎ、沙田区では初めての高さ200mを超える建設プロジェクトである、大囲駅の開発計画が新世界発展に承認される。
  • 2015年 - 屯馬線の獅子山鉄道トンネルが開通。
  • 2017年 - 屯馬経由で顕径駅紅磡駅を結ぶ新設区間が完成、電化完了。
  • 2019年7月14日 - 沙田区の「沙田一隅」が、逃亡犯条例改正案に反対するデモを実施。

  1. ^ a b c d e f 《沙田社區網絡》,(1998年,沙田臨時區議會)。
  2. ^ 大公報, 1976-06-17第5頁
  3. ^ 香港工商日報, 1978-08-26 第1頁
  4. ^ 香港工商日報, 1978-10-03 第7頁
  5. ^ 華僑日報, 1980-03-05 第11頁
  6. ^ a b c 沙田區議會網頁 (2006年6月19日). “沙田區特色”. 2007年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年4月9日閲覧。


「沙田区」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「沙田区」の関連用語

沙田区のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



沙田区のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの沙田区 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS