池長孟 池長孟の概要

池長孟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 16:03 UTC 版)

経歴

神戸市文書館(かつての池長美術館)

1891年明治24年)11月24日に井上德左衞門の長男として 神戸市に出生[4]。幼少時に叔父で神戸市議会議長を務めた池長通の養子に入り池長姓に改姓[4]。池長家は、江戸時代から続く瓦屋や貸金業を祖父吉佐衛門の代(明治5年)にたたんで、兵庫一帯の土地を買い付け柳原や門口町、白川村などで住宅や不動産の賃貸業を指揮する[6]。家作の管理を手がけた祖父は、1898年(明治31年)4月に没し、孟を迎えた頃の池長家は大地主であった。

1905年(明治38年)に修業年限1年間の[7]神戸育英義塾予備科に中学受験のため入学の後[8]、卒業する[9]1906年(明治39年)、15歳で兵庫県立第一神戸中学校に入学[8]し、第三高等学校から京都帝国大学法科大学に進んで卒業[10]、23歳になる1914年(大正3年)に父通が56歳で死去、孟は相続人として高額納税者となった。第一次世界大戦中の1917年9月(大正6年・26歳)に文科大学に再入学[11]、27歳になった翌年12月1日に大日本帝国陸軍歩兵第39連隊に1年の期限つきで予備役として入営した[11]。やがて期間は明け、軍務を延長した池長は幹部候補生として兵舎に住み続けるも、1921年(大正10年)5月に招集解除となり除隊した[11]。最終階級は陸軍三等主計である[8]。同年に神戸市学務委員に就任した[12]

郷土史研究家の豊田實(神戸歴史クラブ理事長[5])によると、30代になったばかりの池長は退役の翌年にヨーロッパを視察した(1922年=大正11年)。大英博物館(ロンドン)やルーヴル美術館(パリ)、バチカンローマ)、フィレンツェの美術館などを見て回り美術品収集家の核となるものを得た[6][1]

帰国した池長が神戸市学務委員を務めるころ[11]、私立校の育英商業学校は校長の急死とともに懸案の不安定な財政状態の解決を迫られる[8]。素封家で同校と同運営の神戸育英義塾卒だった池長は次期校長を打診され[9]、本意ではないのに[11]事に推されて1923年(大正12年)6月12日に就任、同年10月29日に校長の委嘱を受けた[13]。同年に戯曲集2冊を出版した[11]。池長は育英商業学校に名誉校長の肩書を与えられ無給で校長を務め[14]1928年(昭和3年)1月26日[13]には前校長の妻に代わって池長が設立者・校主となり経営の全権を握る[9]。その後1942年(昭和17年)3月まで設立者・校主兼校長として育英商業学校を運営し[9][注釈 1]、31日に校長を辞職した[18]

牧野富太郎と池長孟

牧野富太郎1916年(大正5年)12月、生活苦から収集した植物標本10万点を海外の研究所に売ることを決断する。その窮状を知った牧野の知人渡辺忠吾は、『東京朝日新聞』に「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」との記事を書くと『大阪朝日新聞』がこれを転載、すると反響を呼び神戸から二人の篤志家が現れた[19]。一人は久原房之助、もう一人が当時25歳で京都帝国大学在学中の孟であった[19]

12月21日、富太郎は壽衛夫人と共に神戸に向かい池長と面会すると、2年前に受け継いだ亡父の遺産から3万円[注釈 2]で標本をいったん買い取り、改めて富太郎に寄贈しようと申し出を受け、感激した富太郎はこれを固辞[19]、池長は先代が会下山に建てた池長会館に標本の収蔵と保管を手配し、大正7年[20]に同館を池長植物研究所と改称する[21]。毎月の生活費の補助も受けて困窮を脱した富太郎は現在の会下山小公園周辺でフィールドワークを行い[注釈 3]、池長家の別荘を借りて研究を続ける富太郎に孟は、引き続き援助すると約束した[23][24]

しかし富太郎は支援金の中から数百円を持ち出して福原[21]女郎屋で散財したり[25][注釈 4]、池長家から提供された神戸市須磨の別荘でメイドに手を付けたりしたため、孟は援助を打ち切った[26][19]


注釈

  1. ^ 3月11日付で文部省から、3月より資産家[15]武井尹人への設立者変更の認可が下りる[16][17]
  2. ^ 現代の貨幣価値で約2240万円[11]
  3. ^ 池長植物研究所があった会下山小公園は、地域で「牧野公園」と通称される[22]
  4. ^ 現代の貨幣価値で数億円の支援金の中から数百万円を持ち出した[26]
  5. ^ 石版画に署名「E Chiossone Tokei Giappone 1875」があり、明治8年の作品とわかる。57.6×37.8 cm。た池長孟は、1951年に市立神戸美術館に寄贈、神戸市立博物館に移された[34]
  6. ^ 早稲田大学図書館に9枚収蔵され、内訳は「東都名所全図」「真洲先稲荷隅田川眺望」「桜田馬場射御之図」「三囲眺望之図」「自上野望山下」「今戸尾焼之図」「新吉原夜俄之図」「自道権山望鴻台之図」。11×15-12×16 cm[37]
  7. ^ 「山塘普済橋中秋夜月」(さんとう ふさいきょう ちゅうしゅう やげつ)は清時代の木版画に筆で彩色した画面である。作風は西洋画の描き方(泰西筆法)に習った。陳仁桑店版。
  8. ^ 取材した資料がニーホフ英語版著『東西海陸紀行』(地理書)であると明らかにされ、「バタヴィアの町の役人と職人の家」を描いた銅版の挿絵であるという[52]
  9. ^ 1帖25枚の版元は以下の資料による [55]
  10. ^ 『三県道路完成記念帖』は、郡山市立美術館に貸し出された。1885年(明治18)石版、絹、玄々堂(製造)「開館30周年記念展 1:記録する眼:豊穣の時代明治の画家 亀井至一、竹二郎兄弟をめぐる人々
  11. ^ 青空文庫の底本:『牧野富太郎自叙伝』第1刷(講談社〈講談社学術文庫〉、2004(平成16)年4月10日)。底本の親本:『牧野富太郎自叙伝』(長嶋書房、1956(昭和31)年12月)。

脚注

  1. ^ a b c 池長 1942, pp. 12–13, 『美術新報』
  2. ^ 『黒船』 1941g, p. 34
  3. ^ a b 〈池長孟関係写真〉昭和時代前期/1930年代”. 文化遺産オンライン. 2024年2月19日閲覧。 “写真 / 昭和以降、池長孟”
  4. ^ a b c d e f 『人事興信録』データベース 池長孟”. 名古屋大学大学院法学研究科 (昭和3年(1928年)7月). 2023年11月1日閲覧。
  5. ^ a b 【須磨区】須磨ニュータウンで神戸ゆかりの人物シリーズ歴史講座」『神戸新聞』、2015年2月26日。2024年2月19日閲覧。
  6. ^ a b 2015年2月、須磨区北須磨文化センターで「池長と神戸」を解説する市民講座が開かれた[5]
  7. ^ 育英高等学校 1999, p. 180
  8. ^ a b c d 育英高等学校 1999, p. 30
  9. ^ a b c d 育英高等学校 1999, p. 31
  10. ^ a b 池長孟 :: 東文研アーカイブデータベース”. 東京文化財研究所. 2023年12月25日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h 荒っ削りのコレクター「池長孟(いけながはじめ)」”. ナガジン!. 特集:発見!長崎の歩き方. 長崎市. 2021年5月30日閲覧。
  12. ^ 岩田照彦: “みなと元町タウンニュース第302号” (PDF). みなと元町タウン協議会. p. 2 (2017年10月1日). 2024年5月2日閲覧。
  13. ^ a b 育英高等学校 1999, p. 178
  14. ^ 育英高等学校 1999, p. 34
  15. ^ 武井尹人 (第8版)”. 『人事興信録』データベース. 名古屋大学大学院法学研究科. 2024年5月16日閲覧。
  16. ^ 日本、大蔵省印刷局(編)、1942、「文部省告示第167号」、『官報』1942年03月14日 本号 第4552号、日本マイクロ写真 doi:10.11501/2961054 p. 400
  17. ^ 育英高等学校 1999, p. 46
  18. ^ 育英高等学校 1999, p. 177
  19. ^ a b c d 牧野 1956
  20. ^ 「『南蛮堂コレクションと池長孟』出品目録」より。『年報』 2005, p. 8, 大正7年「写真焼き付け・池長植物研究所開館式」
  21. ^ a b 神戸市 2024, 「〈東の浅草、西の新開地〉と謳われた新開地エリア」
  22. ^ 会下山小公園”. www.shintetsu.co.jp. 神戸電鉄. 2024年2月19日閲覧。
  23. ^ 『20世紀全記録 クロニック』 1987, p. 237
  24. ^ 『黒船』 1941g, p. 34, 「世界の植物学者牧野富太郎博士と池長孟氏の美談」
  25. ^ 堀江宏樹 (2023年9月5日). “研究費を「女遊び」で使い込む!植物学者・牧野富太郎の「ヤバすぎる倫理観」”. 歴史人WEB. ABCアーク. 2024年5月15日閲覧。
  26. ^ a b メイドに手を付け、女郎屋で散財も……朝ドラには描かれない牧野富太郎の人生が「激ヤバ」すぎた」『プレジデントオンライン』、プレジデント社、2023年10月15日、2頁、 オリジナルの2023年10月26日時点におけるアーカイブ、2023年12月23日閲覧 
  27. ^ 『黒船』 1940a, pp. 5–12, 「池長美術館陳列目録」
  28. ^ a b 池長美術館recollection:美への想いがつなぐもの”. www.kobecitymuseum.jp. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。 “会期は2023-07月22日 ~ 2023年9月10日。”
  29. ^ 『黒船』 1940a, 写真版・口絵「池長美術館全景と泰西王族騎馬図の前に於ける池長孟氏」
  30. ^ 『黒船』 1940a, pp. 2–4, 石黒敬七「池長美術館を観る」
  31. ^ 1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
  32. ^ 「聖ザビエル像は神戸市立博物館所蔵」『神戸新聞』(夕刊)2015年2月24日。
  33. ^ 日本経済新聞 2012年4月17日付。
  34. ^ Denkmal Siebold Wurzburg”. 文化遺産オンライン. 2024年2月19日閲覧。
  35. ^ キヨッソーネ(原画)「勲一等贈正二位右大臣大久保公(像)」大蔵省印刷局、銅版墨摺、明治12年(1879年)。63.7×47.0 cm×37.8 cm、左下にサイン「E Chiossone Tokio 1878」。
  36. ^ 田村宗立(原画)、京都画学校(石版刷り) (明治14年(1881年)). “有栖川熾仁親王像”. 文化遺産オンライン. 2024年2月19日閲覧。30.3×22.2 cm。画面右下の署名は「S. Tamura」、下の余白の画題は「明治十四年十月京都画学校製」。
  37. ^ a b c d e f g 亜欧堂田善江戸名所図 / 亜欧堂田善 [画]”. 早稲田大学図書館. 2024年2月20日閲覧。
  38. ^ a b 三ツ俣真景”. 神戸市立博物館. 小形江戸名勝図シリーズ. 2024年2月19日閲覧。
  39. ^ 『黒船』 1940a, pp. 8–11
  40. ^ 『黒船』 1941a, pp. 26–28, (2)
  41. ^ 『黒船』 1941b, pp. 41–44, (3)
  42. ^ 『黒船』 1941d, pp. 30–33, (4)
  43. ^ 『黒船』 1941e, pp. 31–34, (5)
  44. ^ 『黒船』 1941f, pp. 31–35, (6)
  45. ^ 池長は蒐集美術に関するエピソード6編を「余譚」として雑誌『黒船』に記した [39] [40] [41] [42] [43] [44]
  46. ^ 『年報』 2005, p. 7
  47. ^ 吉原楼中図”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。 “美人画をあまり残さなかった北斎には珍しく続き物5枚組である。”
  48. ^ 生人形浅草奥山”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
  49. ^ 大日本金龍山之図”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
  50. ^ 摺物 紅毛銅版画”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
  51. ^ UKIE(浮絵):江戸を魅了した、吸い込まれる空間(会期:2022年12月24日-2023年2月12日)”. www.kobecitymuseum.jp. 美術. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。
  52. ^ 忠臣蔵十一段目夜討之図”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
  53. ^ コレクターたちの片鱗―池長孟・南波松太郎・秋岡武次郎(会期:2022年10月15日-同年12月4日)”. www.kobecitymuseum.jp. 美術. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。
  54. ^ 西国名所之内”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2024年2月20日閲覧。
  55. ^ 神戸市立博物館特別展『神戸開港150年記念特別展:開国への潮流、開港前夜の兵庫と神戸』図録、2017年。神戸市立博物館特別展『よみがえる兵庫津』図録、2004年[54]
  56. ^ 英国からはじまる明治日本のスケッチ巡り(会期:2022年8月23日-同年9月25日)”. www.kobecitymuseum.jp. 美術. 神戸市立博物館. 2024年2月19日閲覧。
  57. ^ a b c 「生粋の神戸人間 池長 孟 の足跡:建物の記憶をたどって」の開催”. 神戸市. 神戸市:文書館企画展. 2024年2月20日閲覧。
  58. ^ Collection Iquenaga, Osaka, 1933, Vol. I, p. 54.
  59. ^ 東京文化財研究所 1937, 「(2)慶賀筆ブロムホフ家族図 池長孟蔵」『美術研究』、doi:10.11501/7964167
  60. ^ 画像ファイルの注記[58]より『邦彩蛮華大宝鑑 池長蒐集品目録』第2巻p54掲載の作品[59]か(1933年)。
  61. ^ 東京文化財研究所 1937, 「(2)慶賀筆ブロムホフ家族図 池長孟蔵」『美術研究』1937年5月、第6巻第5号(通号65) doi:10.11501/7964167
  62. ^ 『黒船』 1940a, pp. 5–12
  63. ^ 『黒船』 1940c, pp. 24–28, 「池長美術館蒐蔵品解説(2)」
  64. ^ 『黒船』 1940a, pp. 2–10, 「南蛮堂要録」





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