江戸四大飢饉 江戸四大飢饉の概要

江戸四大飢饉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/22 07:14 UTC 版)

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「江戸時代の四大飢饉」として知られる飢饉は、多くの場合、以下の4つをさす。

名称 時期 被害の中心地 当時の将軍 原因
寛永の大飢饉 寛永19年(1642年
- 寛永20年(1643年
全国(特に東日本日本海側の被害が大) 徳川家光 全国的な異常気象(大雨洪水旱魃虫害
享保の大飢饉 享保17年(1732年 中国四国九州地方西日本各地、特に瀬戸内海沿岸一帯 徳川吉宗 冷夏と虫害
天明の大飢饉 天明2年(1782年
- 天明7年(1787年
全国(特に東北地方 徳川家治 浅間山アイスランドラキ火山等の噴火エルニーニョ現象による冷害
天保の大飢饉 天保4年(1833年
- 天保10年(1839年
全国(特に東北、陸奥国出羽国 徳川家斉
徳川家慶
大雨、洪水と、それに伴う冷夏(稲刈りの時期にが降ったという記録がある)

寛永の大飢饉を除いて江戸三大飢饉と呼ばれる場合も多い。寛永の飢饉に加え、元和5年(1619年)、延宝3年(1675年)、延宝8年(1680年)の飢饉は、17世紀の飢饉としては比較的被害が大きく、近世前期における飢饉として知られる。

四大飢饉のうち、最大規模の飢饉は「天明の大飢饉」である。その他、元禄の飢饉元禄年間、1691年 - 1695年)、宝暦の飢饉宝暦年間、1753年 - 1757年)なども東北地方などを中心に被害をもたらした。ことに宝暦の飢饉の被害は甚大であった。また、延宝の飢饉延宝年間、1674年 - 1675年)、天和の飢饉(天和年間、1682年 - 1683年)も被害が大きかったという。

飢饉への備え 

享保・天明・天保の三大飢饉について、尾張藩の藩士だった名古屋の画家・小田切春江は、1885年明治18年)に『凶荒図録』を編集、発行した[1][2]。同著では、諸書を引用しながら平易な文章で被害の惨状と逸話を絵入りで紹介し、あわせて飢饉に対する日頃の心得を説いている[1][2]。挿絵を担当したのは名古屋の木村金秋である[1][2][注釈 1]

脚注

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注釈

  1. ^ 『凶荒図録』巻末には、山野に多く自生し凶荒の年に食用とすべき植物について記した「救荒草木一覧」と、誤って食べてはいけない植物を列記した「有毒草木一覧」を付している[1]

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