江の川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/13 20:22 UTC 版)
沿革
オロチと神楽
江の川は広島県側では可愛川と呼ばれる。これは『日本書紀』のヤマタノオロチ伝説に出てくる名である[8]。
また『日本書紀』第八段一書には出雲の簸之川の記載があり、これは島根県出雲地方を流れる斐伊川であるとされる[57]。ただ同じ名の川が安芸高田市内を流れる江の川一次支流にも存在し、その上流にはヤマタノオロチにまつわる伝承が残っている[58]。
ヤマタノオロチ伝説は『古事記』にも出てくる話であるが、日本書紀とは異なり可愛川の名は出てこない。この話の解釈については諸説あるが出雲地方では、ヤマタノオロチは洪水で暴れる斐伊川本流支流を表しスサノオ(素戔嗚尊)はその治水に尽力した神という説、あるいはヤマタノオロチの腹の中から天叢雲剣を取り出す描写が古代の製鉄を意味しているとする説、がある[59]。
江の川流域の島根県・広島県の広い範囲でこのオロチ伝説を題材の一つとする神楽の文化が残っている。大きく区分すると、本流の中・下流域つまり島根県側では石見神楽、本流上流域は芸北神楽、上流域の支流では備後神楽と呼ばれている[60][61]。これらの神楽は出雲流の採物神楽にルーツを持ち、たたら製鉄が盛んになったことで人々が移動・交流していく中で、出雲の佐陀神能が石見に伝わって近世以前に石見神楽として定着、そこから近世に安芸国北部に伝わって芸北神楽となったという[60][61][62]。うち大元神楽と比婆荒神神楽が国の重要無形民俗文化財。
舟運とたたら
江の川は豊富な流量に比較的緩やかな勾配、中流域が中国山地を断ち切って流れる先行河川、上流域は三次盆地を中心に放射状に伸びる本流・支流、という特徴から、舟で日本海側から中国山地の広い範囲さらに陸路を組み合わせると瀬戸内海側へ行くことができたため、全流域で河川舟運が発達していた。近代初期まで中国山地の主要産業の一つにはたたら製鉄があり、舟運の中心は鉄・木材・穀類であった。
- 古代/中世
三次盆地内にある矢谷墳丘墓から、弥生時代後期には山陰(日本海側)と山陽(瀬戸内海側)の間で人々が交流していたと考えられている[63]。舟運は古くから行われていたと言われている[8]。ただ先史時代の遺跡や郡家などの位置から、古代まで舟運はごく狭い範囲であくまで陸上輸送の延長上で行われていたと推定されている[64]。川舟が用いられたとする最古の記録は天慶8年(945年)のことで、邑南町菅原神社の由緒に残っている[65]。
この流域でのたたら製鉄はその遺跡から古墳時代6世紀後半から備後に、中世11世紀から16世紀ごろ石見・安芸に伝播したという[66]。特に中世荘園が開発・発達していくと、中国山地側では鉄を租税として納めたことから[30]、鉄生産が伸びていったとされている[67]。そして中世後期には上流域と河口を結ぶ舟運が存在していたことが古記録でわかっており[68]、江の川に面した山上、特に舟運の要地にいくつも城が構築されている[64]。そうした城では戦国時代、吉田郡山城の戦いなどの戦いの舞台となった。
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広島県立みよし風土記の丘に復元された古墳時代後期の製鉄遺跡。
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岩脇古墳からの展望。木々の向こう側が江の川。
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吉田郡山城からの展望。上部を流れるのが江の川。
- 近世
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
現在、技術上の問題で一時的にグラフが表示されなくなっています。 |
一般に高瀬舟による舟運は江戸時代に発達したと言われている[64]がこの流域では少し事情が異なる。まず上流域の安芸・備後は大部分が広島藩あるいはその支藩にあたる三次藩の領地[68]、上下周辺のみ天領であった。舟運は津留規制[注釈 3]によって広島藩(三次藩)領内に限られていた[68]。一方、中下流域の石見には幕府直轄の大森銀山があったことから、江の川北側は天領であった[68]。沿岸には銀山からの荷抜け・抜け売を取り締まる口番所(川舟番所)が数箇所置かれ、番所での通行は運上金を支払う必要があった[68]。逆に江の川南側はほぼ浜田藩領で、他は河口にある川港であり西廻海運の港であった郷田(現・江津本町)のみ長らく天領、他津和野藩領の飛地があった[68]。こうしたことから江戸時代では全流域にわたる舟運は途絶していた[64]。
舟で穀類・銑鉄・鋼・苧・紙・楮・木材などが運ばれた[64]。特に製鉄業においては、原料の砂鉄・精錬に用いる燃料の薪炭・生産された銑・鋼など舟運が用いられた[68]。更に銀山でも灰吹法による精錬が行われていたため大量の燃料を必要としたことから、舟運での薪炭運搬は銀山運営も支えていたことになる[68]。なお精錬でできた銀地金は陸路(石見銀山街道)で運ばれたが、『マイペディア』には江の川は石見銀山の輸送路でもあったとの記載[21]がある。これら特産品の生産・流通は流域経済を支え、特に江の川中下流域の石見国は農地開発できる平地が狭いため、特産品の流通によって得た利益で外から米を買い人口を支えていた[69]。
鉄穴流し・天秤鞴の発明、高殿たたらという企業的手法の導入によって鉄生産量は更に増大した[67]。ただ上流で行われた鉄穴流しは大量の土砂を下流に流した。中下流域に位置する邑南町の中心部は矢上盆地(於保知盆地)内にあるが、その中央を流れる川は鉄穴流しによる土砂流出で常に濁っていたことから濁川(江の川一次支流)と呼ばれるようになったという[70]。鉄穴流しによる土砂被害を受けた下流側と加害者である上流側との間での住民訴訟「濁水紛争」は中国地方各地であり、この流域では本流や支流西城川などで起こっている[30]。以下広島藩内での紛争例を示す。
- 寛永10年(1633年)、安芸国高田郡が可愛川(江の川)上流の山県郡での鉄穴流しの停止を求めたが、広島藩は収益を優先してこれを退け、かわりに浚渫を命じた[71]。
- 天保4年(1833年)、安芸国恵蘇郡で比和川(江の川二次支流)上流での鉄穴流しの停止を求め、結果稲作に支障を与えないよう鉄穴流しの期間が取り決められた[71]。
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邑南町矢上盆地。周辺の山は鉄穴流しによって元の形を残していない[72]。
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庄原市比和川の支流にある三河内盆地。鉄穴流し跡を水田化したもの[73]。
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江の川河口西側にあたる都野津砂丘。中世までこの砂丘は存在せず海岸線はより内陸側にあったが、近世に鉄穴流しの排出土砂を用いて海岸部を埋め立て新田開発していった結果、現在の海岸線となった[74]。
- 近代
明治時代に入り、舟運そしてたたら製鉄は最盛期を迎える。廃藩により津留規制が解かれ、舟は自由に行き来することができ上流から河口までつながることになる[68][75]。鉄は幕末の動乱の中で需要が増え、その後も増え続け明治20年代頃に最盛期を迎えた[75]。これは江の川流域だけでなく中国地方全体のことで、幕末から明治中期時点で日本の鉄生産量の90%を中国山地産の鉄が占めていた[76]。
明治20年代、支流馬洗川・西城川・八戸川にあった船着場を含めると流域には49箇所の船着場があった[75]。最上流は土師(現安芸高田市)にあり、荷物取扱高順では郷田川端(現江津市)・粕淵(現美郷町)・吉田浜(現安芸高田市)・三次五日市(現三次市)・川本今津(現川本町)などが多く取り扱っていた[75]。江津から三次の間を下りは2日・上りは5日要し、上りは風があるときは帆を張ってないときは沿岸の船頭道からロープで舟を引いたという[75]。かつて江の川中流域石見国側で生産された鉄製品は河口の郷田にのみ運ばれていたが、このころになると三次-吉田と江の川上流(可愛川)へ舟で運ばれ陸路あるいは太田川水運で広島にも運ばれていった[75]。舟荷は江戸時代とほぼ同じ内容のものに加えて、銅も運ばれた。これは大森銀山は休山となったが、しばらくすると銅が産出されたため、これも河口まで運ばれていた[75]。
ただ、安価な洋鉄の輸入さらに製鉄の近代化[注釈 4]によって明治20年代後半からたたら製鉄は斜陽化していった[30]。
明治後期には浜原と江津を結ぶ定期船が登場[75]、大正期には江川飛行船が登場した[77]。これは後ろにプロペラを付けた船[注釈 5]で、江津-粕淵の間を1日2往復していた[75]。ただ舟運も大正10年(1921年)発電を目的とする鳴滝堰堤が建設されると、航路が分断されたことにより急速に衰退していった[68]。更に同じ頃には道路網の整備が進み始め、川に沿って三江線整備が進み昭和12年(1937年)江津-浜原間が完成したことにより、舟運は完全に途絶えた[68]。
流域産業
流域の土地利用は、約92%が山林、約7%が農地、約1%が宅地になる[1]。主な産業は農林業であるが零細が多い[76]。中国山地周辺ではかつて農閑期にたたら製鉄が行われていたが、その衰退により職を求めて他地域に移動した結果、過疎化が始まったという[30]。流域の近年での人口減少率は全国平均を大きく上回り、少子高齢化が進んでいる[8]。
全流域にわたり漁場が点在している。うちアユ漁が6割から7割を占める[78]。流域における漁撈の始まりはいつ頃か不明。三次鵜飼には戦国時代末期から始まったとする伝承が残る[79]。古くは好漁場で局所的に行われていたが、船頭のほうが賃金が高かったため舟運を生業としていたものが多く、全域で本格的に漁撈が行われだしたのは舟運が衰退し始めた明治時代後半からあった[10][78]。日本の河川三大漁労文化と言われ「江の川流域の漁撈用具附漁場関係資料」として国の重要有形民俗文化財に指定されている[80]。現在資源維持目的で稚魚の放流や人工孵化も行われている反面、水辺環境の変化・過疎化に伴う漁師の減少・食習慣の変化などの要因により年々漁獲高は減少している[80][78][10]。
上流域の三次・庄原付近は比較的商工業地として発達している[76]。
河口の江津市は石見臨海工業地帯の中心であり、パルプ・窯業瓦の生産が行われている[76]。パルプは朝鮮特需の際に需要が増大したため、江の川の豊富な水量・中国山地に生育する豊富な木材を原料として昭和26年(1951年)から生産が始まった[81]。瓦は石州瓦と呼ばれているもので、日本の瓦生産の12%を占め三州瓦に次ぐ生産量を誇る[76]。
注釈
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固有名詞の分類
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