桂ざこば (2代目)
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来歴
小学校2年生の時、両親が離婚し父親に引き取られるも、まもなく死別したため、母・姉との3人暮らしとなる[3]。ざこばの著書によると、父は大阪府警察の元職員で、離婚後は二人で旅館暮らしをしていたが、ある日失踪して鉄道自殺した[4]。出生時の姓は父の「小島」で、前記の経緯で母の実家の姓である「関口」となる[5]。
日本橋中学校在学中は、各種アルバイト(新聞配達、靴磨き、アイスクリーム売りなど)をして家計を助けたが、その結果次第に登校しなくなる[3]。学校をさぼって千日劇場に行った際、3代目桂米朝が「浮世床」を演じるのを見て即座に弟子入り志願する[3]。当初米朝は「学校をサボるような子は噺家にはなれん」と突き放したが、それから何日も米朝の元に通い詰めた[3]。あるとき、米朝宅に呼ばれて「落語ができるか」と問われ、うろ覚えで我流の「浮世床」を少し話すと、傍にいた桂小米(のちの2代目桂枝雀)が「師匠、彼を(弟子に)とりましょう!」と口添えしたという[6]。米朝は「これからの噺家は高校ぐらいは出てないかん」と難色を示すも欠席日数が多すぎて進学できる高校がなく、「世間の空気を吸ってこい」という米朝の言いつけで卒業後1か月だけ配線工事会社に勤めてから1963年(昭和38年)5月に入門が許される[6][1][7]。米朝は、2007年の「桂ざこばの会」のパンフレットへの寄稿文で、ざこばが「浮世床」を演じた際に「初めて聴いた落語を必死に思い出す姿に、私は真剣さと面白さを感じ、入門を許しました」と記している[8]。本人の述懐では、米朝の謝絶に遭った後に中学の教師に進学の相談をすると「お前が入れる高校はないぞ」と言われ、米朝にその旨報告し、「なら、しゃーないな」(それなら仕方ない)と入門を許されたという[9]。高座名として米朝は「桂米左(よねざ)」を考えていたが、来宅した知人の阪本俊夫(元・笑福亭松朝)がそれを聞いて「米ばっかりつけんと朝もつけたらどうやネン?」と、長谷川一夫の駆け出しの頃の名前である「林長丸」にヒントを得て「(長谷川一夫が)林長丸で出世したから、朝の丸として朝丸としたらどやな」と提案、米朝も同意して「桂朝丸」となる[10][11][12]。
師匠の米朝は同時に育ての親にもなり、家族同然の内弟子生活を過ごした。同じ内弟子だった桂小米から受けた影響は大きかった[6]。入門3か月後に京都の拘置所で「子ほめ」を演じたのが初舞台となる[13]。入門から4か月後の1963年9月から、千日前の自安寺を会場に、2代目桂春蝶が中心となり、小米・笑福亭光鶴(のちの5代目笑福亭枝鶴)・3代目笑福亭仁鶴らと「上方ばなし若手会」を始め、ネタの習得などに励んだ(会は1965年10月まで)[14]。このころ、4代目桂文紅の自宅に居候していた時期、また米朝が永六輔に依頼して東京で活動していた時期もある。
朝丸時代は千土地興行、大宝芸能に所属した。千日劇場を会場として、1965年10月から放映された「お笑いとんち袋」(関西テレビの大喜利番組で、司会は米朝)ではレギュラーとなる[15]。同番組はもともと劇場の興行としておこなっていたもので、そのときの演者がそのままレギュラーとなった[15]。
米朝一門の中では「やんちゃ」な一面があり、1966年10月には入門3年あまりの身ながら、前出の自安寺で「朝丸自身の会」という独演会を開き(米朝は挨拶文の中にこの独演会について「私の不徳といたすところ」「各方面にいろいろとご迷惑をおかけしていることと存じますが、なにとぞ寛容と忍耐をもって」と記している)、自らが作曲した「朝丸ソング」(作詞は4代目桂文紅)を枕で歌った[16]。1967年5月に米朝が初めて東京で独演会(「桂米朝 上方落語の会」)を開いた際、予算の制約から同行者に含まれなかったため、親交のあった柳家三亀松に「師匠がぼくを連れて行ってくれまへんねん!」と電話で訴えると三亀松から金を出すから来いと返事があり、当日は客席に座って兄弟子たちが準備しているところを眺め、米朝のマネージャーにそれをとがめられると「今日は自前で来てまんねん。客でっせ!」と返したという[17]。
スポット的ではあるが、テレビ番組の収録で吉本興業の花月劇場チェーンや、松竹の角座の舞台にも立った。
日本テレビの『お笑いティーチイン』に出ていたとき(1970年頃)、番組内で「動物愛護週間」がテーマになった際に「動物はいじめた方が面白い」という議論が出たことから、桂文紅や3代目桂文我からも題材を得てトップホットシアターで「動物いじめ」の小咄をかけ、ヒットする[18]。
1974年に笑福亭鶴光があのねのねの代役として「オールナイトニッポン」に起用される際、最初鶴光と間違えられてオーディションを受け、鶴光本人にも「今度『オールナイトニッポン』に出る」と話したという[19]。「オールナイトニッポン」は空振りに終わったが、ほどなく全国ネットの「ウィークエンダー」のレポーターに起用された[19]。そのまま土曜深夜のオールナイトニッポンのパーソナリティになっていたら、同じ土曜日のウィークエンダーには起用されていなかったも知れないと本人が話していたことがある[20]。
その後、大阪に活動の拠点を戻す。
1981年3月13日、サンケイホールで「桂朝丸独演会」を開催[21]。米朝一門でサンケイホールでの独演会は米朝・枝雀に次いで3人目で、香川登枝緒らも後押しする形ですんなり決まったが、師の米朝はこのプログラムでも「あれでちょっと気のアカンところがございます。どんな高座をお目にかけることやら…」と案ずる内容の文章を贈っている[21]。当日は立ち見も出る盛況で、その後1997年まで15回を数えた[21]。
1988年(昭和63年)4月、2代目「桂ざこば」を襲名[1][22]。襲名は兄弟子である枝雀の提案によるものだった[22]。襲名に際して、初代の墓に参り法要をした。また、上方落語では初となる東京での襲名披露落語会も開催された[22]。
1994年(平成6年)には、弟子とともに上方落語協会を脱退する。これは、会長選出方法などをめぐって当時の執行部(特に露の五郎)と対立した枝雀一門が脱退し、その問題を話し合う場で理事の1人が口にした枝雀一門への非難(会費滞納を取り上げた)に立腹したざこばが「枝雀兄ちゃんを悪くいうんか」と枝雀一門に追随する形となった。10年後の2004年(平成16年)6月21日に復帰する。
2006年(平成18年)時点で、大阪のテレビ、ラジオを含めて9本のレギュラー番組を持っていた。2006年当時は、60歳を過ぎてからタレント活動を減らして落語会を開催したいと話していた[23]。
2007年(平成19年)7月7日、噺家生活45周年・還暦記念公演「桂ざこばの会」を京都の南座で開催する。2008年12月には、西成区山王のマンション2階に寄席小屋「動楽亭」を開設した。
2012年に噺家生活50周年を迎える。
2017年5月27日、左中大脳動脈閉鎖症、塞栓性脳梗塞と診断され、入院加療となった[24][25][26]。7月29日、新神戸オリエンタル劇場で上演された落語会「ざこば南光二人会」に病院の外出許可を得て出演し、2か月ぶりに活動を再開した[27]。8月1日、退院。4日には『そこまで言って委員会NP』の収録(6日放送分)にサプライズゲストとして登場した[28]。2018年4月27日、『そこまで言って委員会NP』の収録に復帰(5月6日放送分)[29]。
- ^ a b c d e “桂ざこば|米朝事務所”. 米朝事務所. 2013年1月15日閲覧。
- ^ a b c d 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、54頁。
- ^ a b c d 戸田、2014年、p.252 - 253
- ^ 桂ざこば、2013年、pp.68 - 72
- ^ 桂ざこば、2013年、p.73
- ^ a b c 戸田、2014年、p.254
- ^ “桂 ざこば”. 株式会社タレントデータバンク. コトバンク. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年8月17日閲覧。
- ^ 桂ざこば、2013年、p.17
- ^ 雑誌『醸界春秋』1999年1月15日号に掲載
- ^ 戸田 2004, pp. 220–221, §7「阪本俊夫さんに聞く」.
- ^ 「米左」の高座名は、1984年に米朝に入門した弟弟子に与えられた。
- ^ ざこば自身は2013年の著書で、朝丸の名が売れるようになってから「名付け親」を自称する人物の噂を耳にして米朝に尋ねたところ、米朝は周囲の誰かの発案と認めたものの「そやけど今さらそんなこと、どうでもエエがな」と詳しい内容は教えられなかったと記している(桂ざこば、2013年、pp.31 - 32)。
- ^ “桂ざこば 初舞台は拘置所で爆笑の連続”. デイリースポーツ (2015年8月16日). 2015年8月17日閲覧。
- ^ 戸田、2014年、pp.255 -257
- ^ a b 戸田、2014年、pp.264 - 265
- ^ 戸田、2014年、p.289
- ^ 戸田、2014年、p.296 - 297
- ^ 戸田、2014年、p.350
- ^ a b c 笑福亭鶴光『つるこうでおま!』白夜書房、2008年、pp.98 - 99
- ^ ラジオの残響 (川野将一・著、2021年6月20日発行 双葉社)p.572 - 585「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」
- ^ a b c d e f 戸田、2014年、pp.439 - 440
- ^ a b c 戸田、2014年、pp.489 - 491
- ^ 産経新聞2006年7月27日の記事「桂ざこば、60歳でマスコミ引退し落語家に専念」より
- ^ “桂ざこば休演のお知らせ”. お知らせ. 米朝事務所 (2017年5月28日). 2017年5月28日閲覧。
- ^ “お知らせ 大阪松竹座公演『銀二貫』桂ざこば 休演のお詫びとお知らせ”. 松竹株式会社 (2017年5月28日). 2017年5月28日閲覧。
- ^ “桂ざこば、脳梗塞入院にエールの声続々 「そこまで言って委員会」映像で心配の声”. J-CASTニュース (2017年5月28日). 2017年5月28日閲覧。
- ^ “桂ざこば 舞台復帰で涙「泣かへんぞ、って言うたのに」”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2017年7月29日) 2017年7月29日閲覧。
- ^ “桂ざこば「そこまで言って委員会」にサプライズ登場 1日に退院したばかり”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2017年8月4日) 2017年8月4日閲覧。
- ^ “桂ざこば「そこまで言って委員会NP」に復帰「ホッとしました」”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2018年4月28日) 2018年4月28日閲覧。
- ^ 2004年4月18日デイリースポーツ 芸能面 などより。
- ^ “「お師匠はん、大好きでした…」 春団治さんお別れの会、ざこばさん泣き崩れ”. 産経新聞. (2016年1月26日) 2016年1月30日閲覧。
- ^ 『わかってぇなぁ! 桂ざこばのざっこばらん2』(KKベストセラーズ)第1章「犬も食わない!尽きない話」
- ^ 桂米朝『米朝よもやま噺』朝日新聞社、2007年、pp.176-177
- ^ “局アナも凍りついた…桂ざこば“北野誠”に禁句エール” (2009年4月15日). 2009年4月15日閲覧。
- ^ “「バーニング!」桂ざこば ラジオで北野誠にエールも憶測呼ぶ不規則発言” (2009年4月15日). 2009年4月15日閲覧。
- ^ a b 『桂ざこばのざっこばらん』(KKベストセラーズ)第4章「フーテン落語家」
- ^ 『つるこうでおま!』p.230
- ^ “桂ざこば、たかじんさん映像に号泣「もう映さんといてや~」”. サンケイスポーツ (2014年1月26日). 2014年12月30日閲覧。
- ^ 『わかってぇなぁ! 桂ざこばのざっこばらん2』(KKベストセラーズ)第5章「どうかよろしゅうに頼んます!」
- ^ “堂々上々 道上洋三が行く 第16回 ゲスト 芸能生活50年 桂ざこばさん”. おはようパーソナリティ道上洋三です (2013年1月11日). 2014年3月21日閲覧。
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