松川事件 裁判の経過

松川事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/12 22:39 UTC 版)

裁判の経過

最高裁判所判例
事件名  汽車顛覆致死、同幇助
事件番号 昭和29(あ)1671
1959年8月10日
判例集 刑集 第13巻9号1419頁
裁判要旨
  1. 本件における「諏訪メモ」の如き証拠物については上告審で所有者にその提出を命ずることができる。
  2. 上告審で右の証拠物を取り調べるにあたつては、公判にこれを顕出するをもつて足りる。
  3. 上告審は右の方法で取り調べた証拠物を原判決の事実認定の当否を判断する資料に供することができる。
  4. 共謀共同正犯における共謀または謀議は罪となるべき事実である。
  5. 判決に影響があつてこれを破棄しなければ著しく正義に反する重大な事実誤認を疑うに足りる顕著な事由があるときは、刑訴第四一一条第三号によつて原判決を破棄することができる。
大法廷
裁判長 田中耕太郎
陪席裁判官 小谷勝重 島保 藤田八郎 入江俊郎 池田克 垂水克己 河村大助 下飯坂潤夫 奥野健一 高橋潔 高木常七
意見
多数意見 小谷勝重 島保 藤田八郎 入江俊郎 河村大助 奥野健一 高木常七
意見 なし
反対意見 田中耕太郎 池田克 垂水克己 高橋潔 下飯坂潤夫
参照法条
 刑訴法99条2項,刑訴法303条,刑訴法305条,刑訴法306条,刑訴法307条,刑訴法317条,刑訴法404条,刑訴法409条,刑訴法414条,刑訴法335条1項,刑訴法411条3号,刑法60条
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最高裁判所判例
事件名 汽車顛覆致死等被告事件
事件番号 昭和36(あ)2378
1963年9月12日
判例集 刑集 第17巻6号661頁
裁判要旨
  1. 刑訴法第四〇五条にいう「判例と相反する判断をした」というためには、その判例と相反する法律判断が原判決に示されているのでなければならない。
  2. 本件のように被告人と実行行為とを結びつける証拠が、自白のほかになく、その自白が明らかに事実に反しまたは不合理不自然な幾多のものを含み(判文参照)、その信用性に疑いのあるときは、これをもつて有罪の証拠とすることは許されない。
第一小法廷
裁判長 斎藤朔郎
陪席裁判官 入江俊郎 下飯坂潤夫 高木常七
意見
多数意見 斎藤朔郎 入江俊郎 高木常七
意見 なし
反対意見 下飯坂潤夫
参照法条
 刑訴法405条2号,刑訴法405条3号,刑訴法318条
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一審、二審の有罪判決

1950年(昭和25年)12月6日福島地方裁判所による一審判決では、被告人20人全員が有罪(うち死刑5人)となった。

1953年(昭和28年)12月22日仙台高等裁判所による二審判決では、17人が有罪(うち死刑4人)、3人が無罪となった。しかし裁判が進むにつれ被告人らの無実が明らかになった。

被告人の1人でもある佐藤一は死者が3名のみの松川事件で一審で検察が10人に死刑を求刑したことに対して死者6名、重軽傷者20名以上を出した三鷹事件では死刑の求刑が3名だったことを比較すると著しく均衡を欠くと評している。こうした求刑に加えて、無実を証明するアリバイ証拠を捜査機関が隠していたことは、佐藤を取り調べた刑事が「平事件の仇討ちだ!」と怒鳴ったように警察署を占拠した平事件への捜査機関の報復心に起因していると佐藤は推定している[3]

第一審・控訴審判決に対し、思想信条・階層を超えて多くの支援者が集結し、1,300名を超える「守る会」や大弁護団が結成された[4]

主任弁護人であった弁護士の岡林辰雄(1904年-1990年。日本共産党員)は『赤旗』1950年(昭和25年)3月15日号に「主戦場は法廷の外」という論文を発表し、法廷ではデッチあげであることが毎日立証されているのに、新聞やラジオではまるで有罪が立証されたかのような報道がなされている、ならばこちらも大衆の中へ入ることが大切だ、という趣旨の主張を展開した。この「主戦場は法廷の外」は松川裁判闘争のスローガンとなった[5]

広津和郎の裁判批判

1891年生まれで、松川事件の発生時には58歳だった広津和郎は、小説家、文芸評論家として活動していたが、マスコミや政府の宣伝のために、多くの国民と同じように、思想犯罪であると思い込んでいたので、一審判決まではこの裁判に関心をもっていなかった 。1951年12月に、一審で有罪判決を受けた被告が、『真実は壁を透かして』という文集を出版した。この小冊子を読んで、彼は1952年春ごろに、この事件に興味を持つようになり、1952年4月6日の『朝日新聞』に発表した「回れ右―政治への不信ということ―」で、

どんなイデオロギーの政治であっても、裁判だけは公正にやってくれるものということが信じられなければ、生きているのが不安でやりきれないと思う。無実の罪が警官や検事によってネツ造されるなどということがほんとうにあるのかどうか、そんなことは信じたくないために、第二審はあくまで厳正であって欲しいと思う。

と書いた[6]

広津は、事件についての手記を『中央公論』などに発表するとともに、1953年には、仙台に行って公判を傍聴し、現場を視察した。彼は、「裁判長よ勇気を」(『改造』、1953年5月)、「真実は訴える」(『中央公論』、1953年10月)などを発表し、裁判が真実に基づいて公正に行われるよう、裁判所と世論に訴えた。また、文士仲間で、この事件を問題視していた宇野浩二も、呼応して、1953年10月の『文藝春秋』に、「世にも不思議な物語」を発表した。

彼は、第二審で第一審の判決が訂正されると期待したが、1953年12月22日の二審判決は、一審判決を微調整したとはいえ、本質においてそれを後付するものだった。彼は、判決当日に、駆け付けた中央公論編集部の笹原金次郎に「甘かったねえ」と言って、慟哭した。広津は、この後、4年半にわたり、松川裁判批判を発表し続ける[7]

広津や宇野のほかに、吉川英治川端康成志賀直哉武者小路実篤松本清張佐多稲子壺井栄作家知識人の支援運動が起こり、世論の関心も高まった。

裁判批判に対するマスコミの揶揄嘲笑、裁判官からの攻撃

一審の有罪判決後、新聞報道は諸手を挙げて判決を支持した。たとえば、地元紙の『福島民友新聞』の判決翌日の社説は、「この事件にたいする裁判官の態度は終始正しかった。われわれはそれを認めたい」と結ばれていた[8]

二審判決後、広津や宇野は判決批判の文章を発表し続けていた。ところが、宇野が書いた文章に、仙台の法廷で見た被告諸君の眼が澄んでいたと、広津のそれには、『真実は壁を透かして』の被告の文章に嘘は感じられないなどという表現があったことなどがマスコミに取り上げられ、 

眼が澄んでいるから無実だとか、文章に嘘がないから無実だとか、文士の頭はなんと単純で甘いのであろう。裁判のことは裁判官にまかせて置くがよい。解りもしない柄にない口出しなどするから、とんだ物笑いになるのだ。

というような揶揄中傷がいろいろな新聞で毎日のように浴びせられ、広津らは、一時、四面楚歌のような格好になった。広津はこのような揶揄中傷を浴びせかける人達が法廷記録を一行も調べていないことが明らかなので、答える必要がないと考え、無視した[9]

広津らの裁判批判を攻撃したのは、マスコミだけではなかった。裁判所側からの攻撃も激しく、田中耕太郎最高裁判所長官をはじめ幾人かの裁判官から、「文士裁判」、「ペーパー・トライアル」、「人民裁判」などという言葉で、裁判批判を否定する議論が公表された。このような攻撃は、広津が1954年4月号の『中央公論』から、第二審判決を批判する連載を始めた後にさらに激しくなり、「法廷侮辱」だなどとも言われた。田中耕太郎が裁判所の長の会同で訴訟外裁判批判は「雑音」であるとの訓示を行ったのは1955年5月のことであり、広津は

私の書くものを「雑音」にしてしまったわけである。

と、この現象を述懐している 。広津は、これら裁判官の非難が、彼の裁判批判の文章を第二審判決や法廷記録と対照して、客観的に観察した上での反批判ではなく、外部の者に裁判官の下した判決を批判されたことが、裁判官の面目にかかわる、怪しからん事態だと言わんばかりの、浅薄な非難であると分析した。家永三郎は、田中耕太郎のこのような姿勢に反論し、裁判批判の合法性、正当性、必要性を論じた[10]

無罪判決へ

1959年(昭和34年)8月10日最高裁判所は二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した。検察側の隠していた「諏訪メモ」(労使交渉の出席者の発言に関するメモ。被告人達のアリバイを証明していた。使用者側の記録者の名から)の存在と、検察が犯行に使われたと主張した「自在スパナ」(松川駅の線路班倉庫に1丁あった)ではボルトを緩められないことが判明した。

1961年(昭和36年)8月8日、仙台高裁での差し戻し審で被告人全員に無罪判決。

1963年(昭和38年)9月12日、最高裁は検察側による再上告棄却、被告人全員の無罪が確定した。判決当日、NHKは最高裁前からテレビ中継を行い、報道特別番組『松川事件最高裁判決』として全国に放送した。無罪判決確定後に真犯人追及の捜査が継続された形跡はなく、1964年8月17日午前0時、汽車転覆等および同致死罪の公訴時効を迎えた[11]

被告人たちは一連の刑事裁判について国家賠償請求を行い、1970年8月に裁判所は判決で国に賠償責任を認める判断を下した。


注釈

  1. ^ 分析にあたった専門家からは、「衝撃的な話だが、この記述だけでは評価しようがない。真偽が定かでない記述は慎重に扱うべきだ」とも指摘されている[16]

出典

  1. ^ 福島県松川運動記念会 編『松川事件五〇年』、27頁。 
  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『松川事件』 - コトバンク
  3. ^ 佐藤一『松本清張の陰謀 『日本の黒い霧』に仕組まれたもの』草思社、2006年、106頁
  4. ^ 穂積学「松川事件 (司法の源流を訪ねて 第57回)」『自由と正義』第72巻第12号、2021年11月、1頁。 
  5. ^ 野村二郎『法曹あの頃(上)』日評選書、1978年、pp.104-105
  6. ^ 広津和郎『広津和郎全集第十巻』、中央公論社、1973年、平野謙の解説
  7. ^ 広津和郎『広津和郎全集第十巻』、中央公論社、1973年、614-615ページ
  8. ^ 伊部正之『松川事件からいま何を学ぶか』岩波書店、2009年、86ページ
  9. ^ 広津和郎『松川事件と裁判』、広津和郎全集第11巻、中央公論社、1974年、16ページ
  10. ^ 家永三郎『裁判批判』日本評論社、1959年11月
  11. ^ 旬報社デジタルライブラリー 松川運動史編纂委員会編「松川運動全史」603〜655 第6章I〜II 613頁
  12. ^ アサヒグラフ』1954年1月13日号、朝日新聞社。
  13. ^ 『アサヒグラフ』1955年8月17日号、朝日新聞社。
  14. ^ 『中日新聞』1959年8月10日付夕刊、2頁。
  15. ^ 伊部正之『松川裁判から、いま何を学ぶか‐戦後最大の冤罪事件の全容』、岩波書店、2009年、第四章 松川事件の背景と真犯人‐占領下の黒い霧、237-278ページ。
  16. ^ a b 「国鉄三大ミステリー」松川事件に関する記述も”. www3.nhk.or.jp. 日本放送協会. 2021年12月21日閲覧。
  17. ^ 大野達三(1991)、pp.11-14
  18. ^ 大野達三(1991)、pp.21-22
  19. ^ 大野達三(1991年)、pp.23-27
  20. ^ 松本善明『謀略 再び歴史の舞台に登場する松川事件』(新日本出版社、2012年)、p.87
  21. ^ 大野達三(1991)、pp.27-28
  22. ^ 「私達が自首しない為にこのような最高裁判になった結果について日本人として本当に私達七人は申し譯なくおもいますどうか、七人が自首する迄お詫びいたします」「日本人として正しく裁かれる日を待つ日、近く自首する私達七人に栄あれ」
  23. ^ 朝日新聞・昭和39年8月17日記事
  24. ^ 共同通信2009年10月17日、松川資料室「資料室便り」
  25. ^ 松川事件研究所
  26. ^ 松川資料室
  27. ^ 福島民報2010年5月13日、福島大学プレス発表資料
  28. ^ <世界記憶遺産>「松川事件」の登録を申請 福島大
  29. ^ a b c d e f 旬報社デジタルライブラリー 松川運動史編纂委員会編「松川運動全史」「松川運動史年表」 (PDF, 2.02MB)






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