日本女子体育専門学校 (旧制)
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ダンス
トクヨは曲線運動、優美体操、舞踊、舞踏、遊戯、遊技と様々な言葉を使っているが、これらはすべてダンスと言い換えることができる[10]。
ダンスそのものは、トクヨのイギリス留学前より日本の体操科の授業で取り入れられており、井口阿くりによってファーストダンスやポルカセリーズなどが持ち込まれていた[128]。トクヨ自身、イギリス留学前から授業や運動会でダンスを実施し、留学中には数校でイギリスの民族舞踊、ホーンパイプ、スコッチリール、アイリッシュジグ、ウェルシュダンスなどの稽古に励んだ[129]。この結果、KPTCの生徒でもできないダンス術を身に付け[130]、女子体育にダンスが重要な教材であることを認識して日本に帰国した[10]。ダンスが曲線的運動で女子に曲線美を与えることと、ダンスが民族の女性的精神の発露であると考えたのである[131]。
トクヨのダンスにおける功績は、ダンスの基本練習に身体練習・表現練習・リズム練習の3要素を初めて実践したこと[132]と日本で初めて体格改善のためにダンスの指導を行ったことである[133]。
- 身体練習 - 体幹・上肢・下肢を使って緊張・解緊・重力移動を行う「天下の財宝を集めて」と題した運動や各種のステップの踏み方の練習があった[134]。トクヨはワルツのステップの踏み方を「茶の湯の心でするように」と指示し、音を立てることは厳禁とした[135]。トクヨが見せる手本は立派であったといい、特にホップとバランスの動作が美しかったと伝えられる[135]。
- 表現練習 - 代表例がトクヨの創作ダンス[136]「三人遊び」である[135]。三人遊びは3人1組で互いの両肩に手をかけ、前後にホップを踏み、仲良しを表現するダンスであった[135]。3人の息の合った動作が求められ、特に視線の置き方に厳しい指導が入った[135]。
- リズム練習 - のリズムで行われるホップに合わせて、またはのリズムで拍手をさせたり、のリズムで、浮いている方の膝を伸・屈・伸と動かしたりする練習があり、かなり難易度の高い練習であった[135]。
学校でのダンス指導の先覚者としては、坪井玄道・高橋忠次郎・井口阿くりらがいる[133]。坪井と高橋は日本国外のダンスを体操科に導入し、その指導法を考案した[133]。井口はアメリカからポルカセリーズとファーストを持ち帰ったもののスウェーデン体操重視の姿勢から、積極的なダンス指導は行わなかった[133]。こうした点から、トクヨは体格改善を考えてダンスの指導を行った、日本で最初の指導者であると言える[133]。
トクヨのダンスのレパートリーは、トクヨ自身の創作ダンスや、生徒が習ってきたものに手直しを加えたものをどんどん追加していき、1924年(大正13年)頃には50種類ほどになっていた[137]。ファーストやカドリールといった西洋式のダンスのみならず、「雨降りお月さん」や「花嫁人形」といった日本の童謡を用いたもの、木曽節や佐渡おけさといった各地の民謡を用いたものまで多様であった[138]。トクヨが日本の歌や踊りをダンスのレパートリーに多数採用したのは、留学中に日本の歌や踊りを披露するよう求められるも何もできなかった経験をしたことに加え、ダンスは民族精神の発露だという認識を持ったため大和民族の精神涵養に日本独自のダンスが必要と考えたことが理由である[131]。教え子の内田トハと御笹政重の共著による『教育ダンス』(1925年)に掲載されている57種類のダンスのうち36種類がトクヨ直伝のダンスであり、多くはイギリスから持ち帰ったダンスだった[139]。
ダンスに使う楽曲は、古典的な曲から当世の流行歌まで幅広く取り入れ、歌っても踊っても良い曲を揃えていた[137]。体専が歴史を重ねていくうちに、トクヨのダンスは誰ともなく「伝統のダンス」と呼ぶようになり、夕食の前後の時間に上級生から下級生に伝授されていった[137]。生徒が入学して最初に教わるダンスは「里ごころ」という歌詞と曲調が郷愁を誘うものであったため、親元を離れて学ぶ彼女らはひそかに涙したという[140]。
ダンスは体操塾・体専の教育の象徴として、見学者[141]や軍人の来訪時に披露された[142]ほか、塾生がダンスしている写真を販売したり[7]、地方巡回公演を開催したり[114] と資金調達の手段としても利用された[7][114]。
トクヨをはじめとする女子体育界のダンス重視は負の側面も生んだ。女性体操教師が不足していた時代、貴重な女性教師は専ら行進遊戯(ダンス)の授業を担当させられることになり、いつしか女性教師側も行進遊戯を教えることに安住し生き甲斐を覚えるようになっていった[143]。したがって世間に「女性体操教師は、すなわちダンス教師である」という認識が生じ、女性体操教師がダンスしか教えないので時間割編成が困難になる、「男性教師は体操と競技、女性教師はダンス」と役割が固定化するという弊害をもたらし、「女子体育は女子の手で」の理想の実現を不可能にする結果となった[144]。体操塾で教鞭を執ったことのある[145]大谷武一は、男性教師が体操・競技を担当することは、すなわち男子の体操・競技を女子にさせているにすぎず、いつまで経っても女子体操・女子競技は生まれないとし、これが女子体育の不振の理由だと指摘した[143]。そこで女性教師にはもっと体操や競技を指導することを要求し、男性教師には女子の教材を研究し、ダンスも指導するよう訴えた[143]。
体操塾時代のダンス
体操塾の頃のトクヨのダンスは、女子の体格改善を目指すダンスであり、トクヨが1人で教えていた[146]。トクヨは1期生の体格を研究し、その結果を『わがちから』に掲載した[147]。トクヨは、体操教師を目指す塾生の体格は日本人女性の中でも優れている方だろうと考えていたが、その結果は貧弱で異常な発育状態であり、トクヨは愕然とした[148]。具体的な数値を挙げると、塾生の平均値は身長151.06 cm、体重48.72 kg、肺活量2,247 cc、握力は右20.4 kg、左18.8 kgであった[149](当時のイギリスの20代女性は身長157.58 cm、体重55.33 kg、日本の成人男子[注 18]は身長164.58 cm、体重64.00 kg、肺活量3,722 cc、握力は右47.1 kg、左43.8 kg[149])。トクヨの分析結果を次に示す[133]。
- 身体の発育が矮小
- 身体の発育を代表する部分がみな細い - 首・胸・腰が細い
- 腕の発育不良 - 前腕は西洋婦人より長いが発育は悪い
- 脚の発育不良 - 下腿は日本男子より発達するが、大腿は不良
- 股関節が完全に伸びていない
そこでトクヨは脚の強化のために舞踊を、股関節や上体の強化のために西洋舞踊が良いと考え、ダンスを奨励した[133]。ここで言うダンスは体格改善のためのダンスを主とし、趣味的・娯楽的ダンスは副次的に行うものであった[133]。
トクヨが日常的に教えていたダンスの内容を窺い知ることができる資料として、処女会指導者歓迎会(1922年10月4日)の記録が残っている[57]。歓迎会は、体操・遊技・競技・客員競争・プロムネードの5つのプログラムに分けられていた[151]。この中からダンスに相当するものを抽出すると、まず体操では、跳躍運動の代わりに「競技舞踏」を行った[57][148]。競技舞踏とは東京YMCAでスコット・ライアン(W. Scott Ryan)が指導した体育ダンスの1種であり、砲丸投、円盤投、やり投、マラソンを取り入れたダンスであった[148]。続く遊技では、ふたり遊び[注 19]、お馬さん[注 20]、万歳[注 21]、ロブスタージッグ[注 22]、クロッグダンス[注 23]、三人遊び[注 24]、月見ポルカ[注 25]の各演目を披露した[153][148]。競技と客員競争は各国競争(ランニング)やだるま運びなどの運動会的な種目のみでダンスは含まれず[58]、最後のプロムネードでは「体育奨励の歌」を歌いながらの行進遊戯が行われた[148]。歓迎会は16時に始まり19時に成功裏に終わった[151]。
体専時代のダンス
体操塾時代より、トクヨはいずれ自分1人で指導できなくなることを分かっており、その時には「何が何でも夫れ夫れ卓越した先生にお頼みせねばなりませぬ」と語っていた[133]。記録に残る最初にトクヨが採用したダンス教師は、石井舞踊研究所の蔦原マサヲであり、1926年(大正15年)のことであった[154]。
トクヨが採用したことが判明しているダンス教師は、芸術舞踊の石井小浪(学校舞踊)、高田せい子(バレエ・西洋舞踊)、蔦原マサヲ(遊技・学校舞踊)、貝谷八百子(クラシックバレエ)、唱歌遊戯・行進遊戯の戸倉ハル、香川一郎、赤間雅彦、教育舞踊の升本一人、体育ダンスの渋井二夫、リトミックの天野蝶、アメリカのダンスのルシール・ウィルコックス(Lucille Willcox)の11人である[155]。彼らはいずれもダンスの各分野で活躍した専門家であり、体専とは兼務であった[155]。例えば高田せい子は高田舞踊研究所の所長、ルシール・ウィルコックスは東京YWCAのダンス教師が本務である[154]。『学校体操教授要目』で教えるべきとされたダンスは唱歌遊戯・行進遊戯のみであり、トクヨが多種類のダンスを取り入れて体格改善を目指していたことが窺える[154]。
昭和初期にプロの指導者を招いて芸術舞踊を教えていた学校は珍しかった[154]。しかし『学校体操教授要目』へ従わせようという文部省の方針により、トクヨの死後である1942年(昭和17年)に芸術舞踊の教師は解任された[156]。生徒にとって石井小浪や高田せい子らが解任されたのはショッキングな出来事であったと考えられるが、それを伝えるものは残っていない[157]。ダンス曲は「勝鬨」(かちどき)、「軍艦行進曲」、「愛国行進曲」など軍国調のものに代わり、ダンスの各種ステップの名も「足尖歩」など日本語に置き換えられた[157]。しかしこうした措置は一時的なもので[157]、ダンスを主要なものとする学校の伝統は絶えることなく[158]、戦後まもなく入学した黒沢智子がバレリーナになったほか[159] 日本女子体育大学にもダンスの伝統は引き継がれている[158]。
集団体操・マスゲーム
トクヨは明治神宮外苑競技場で集団体操、すなわちマスゲームを指揮したことがある[160]。ある年の体操祭では約250人の体専生徒を率いて集団演技を行わせた[160]。トクヨは号令をかけながら競技場の隅よりフィールドの中央へ移動していき、当日の演技内容を書いた扇子を見ながら指揮を執った[160]。
また別の年の体操祭では、制限時間の10分を過ぎてしまい、トクヨは演技を止めて、このまま演技を終了するか継続するか、客席に向けて問いかけた[160]。主催者がどう返答するか迷っている間に観客の中から「やれやれ!」と囃し立てる声が上がり、トクヨは予定していた演目をすべてやり切った[160]。
体専のマスゲームは社会的な評価が高く、日女体短・日女体大へも継承された[161]。日女体短の日本体操祭へのマスゲーム参加作品のほとんどは体専でダンスを教えた戸倉ハルが手掛け、同じく体専教師の天野蝶が創作した作品も2つある[161]。
注釈
- ^ 正式名称はバーグマン=オスターバーグ体操専門学校(The Bergman-Österberg Physical Training College)であるが、学生は一般にキングスフィールド体操専門学校と呼んでいた[10]。以下、KPTCと略記する。
- ^ ただし、この言葉をもらった当時のトクヨは、東京女高師の体操専修科で最善を尽くすことが自らの使命であり、自分の学校を建てるなど絵空事にすぎないと考えていた[22]。
- ^ 「関西で建ててくれるならお金を出す」という話を聞いて乗り出すと誰も出してくれず、「自分の名前で学校を建ててくれるならお金を出す」と聞いてトクヨが自分の名前を下ろすことを提案すると話が立ち消えになってしまうという経験をトクヨは何度もしてきた[24]。
- ^ 東京女高師では体操科のみの担当であり、理想とする人格教育を行うことが不可能であった[26]。
- ^ 小田急小田原線参宮橋駅付近に当たる[33]。二階堂体操塾創立時にはまだ小田急線は開業しておらず、京王線神宮裏駅(現存せず)が最寄駅であった[33]。
- ^ 既婚者や子持ち、夫と別れた者でも例外的に認める場合があるが、なるべく複雑な義務のない者が望ましいとした[35]。
- ^ その理由として末弟の真寿は、東京女高師教授時代に過労もいとわず日本全国からの講演依頼を引き受け続けた努力が結実したものと推測している[36]。
- ^ 書類選考だけで仮入学させるため、適性のある者のみ本入学させることが責任ある教育者の態度だと考えたのであった[33]。
- ^ 1期生は途中で辞めた者、親の反対や既に教師をしていて休職許可を取れずに諦めた者、資格の取れる臨時教員養成所に転校した者、途中入学した者などがいたため、正確な入学者数を特定できなかった[44]。『わがちから』によると1923年(大正12年)3月時点の1期生は49人であった[45]。
- ^ 帰省中の1人と中途入塾の5人を除く[59]。
- ^ トクヨは人見以外にも内田トハ、御笹政重、船田マツの3人を派遣した[74]。内田は東京女高師時代の教え子で、御笹と船田は体操塾1期生である[74]。
- ^ 体専より先に存在した東京女子音楽体操学校が東京女子体育専門学校に昇格したのは1944年(昭和19年)のことである[79]。
- ^ 戦前に学校法人という法人形態はなく、私立学校は財団法人が経営していた[83]。なお、現行の学校法人は財団法人の特殊形態と規定されている[83]。
- ^ この年の入学者は90人で、体専史上最多となった[91]。
- ^ 清寿は当時、仙台に家を建て仙台市学務課長としての職務に専念しようとしており、当初は渋ったが、美喜子の懇願と、若くしてトクヨの学校を継がされた美喜子の境遇を慮り、校長職を受諾した[105]。
- ^ 生徒が反発したのは、トクヨから「女子体育は女子の手で」と教育されてきたことから、男性の清寿が校長に就任することに反対したという側面もある[105]。
- ^ 時勢の問題だけでなく、美喜子が反発する生徒に熱弁をふるって反省を促したことと、清寿が「来たばかりで、海のものとも、山のものともわからないじゃないか。(中略)悪かったら君等の排斥を待つまでもない。僕の方から骸骨を賜る。」と語ったこともある[108]。
- ^ この数値は海軍兵員の平均値であり、「国家の盛衰・存亡は女子にかかっている」という考えから、トクヨは女性の奮起を促すためにあえて比較対象として選んだ[53]。
- ^ 2人1組で行う女児向けのダンス[152]。
- ^ 2列円形で行う男児向けのダンス[152]。
- ^ 1列円形で行う男女共通のダンス[152]。
- ^ 任意の位置で個別に行うダンス[153]。
- ^ 踵と爪先を使ったダンス[58]。
- ^ トクヨの創作ダンス[136]で、3人1列になって行う見ばえのするダンスだった[58]。
- ^ 1列円形で行う優美的な舞踊[58]。
- ^ 宮本はトクヨの弟・真寿の友人である[162]。
- ^ 今村は「林良富」と書いているが、おそらく林良斎の誤記である[174]。林は海軍軍医の出身で、体操塾創設当時から教鞭をとり、解剖学や救急療法などの授業を担当した人物である[121]。
- ^ 独特の表現を多用したトクヨはこの3つを順番に、薪屋さん・フイゴ屋さん、水道屋さんにたとえた[198]。
- ^ 1933年(昭和8年)に受けた読売新聞のインタビューで「日本の女は本来妻たり、母たるべきものなんですよ」と語り、妻になった以上は自我を忘却して夫に仕えるべきと述べた[181]。
- ^ 広橋は毎年、走高跳の日本女子十傑でトップに入る選手であったが、最終選考会で西田順子に敗れて代表の座を逃した[215]。
- ^ 大正時代の体操教員養成機関は通常、他科との兼修・併修を勧めていた[224]。
- ^ 東京女高師の教え子の会の入学生が飛び飛びになっているのは、体操教員養成課程である第六臨時教員養成所家事科第一部(家事体操科)が、全生徒の卒業と入れ替わりに新しい新入生を募集するというシステムを取っていたからである[236]。
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