山田浅右衛門
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その他の逸話
首を斬る役の同心が実際に斬首すると、刀の研ぎ代として金2分ずつ下される。その役を浅右衛門に譲って首を打たせると、その2分は同心のものになり、さらに首斬りの御用を譲って貰ったというので浅右衛門からも礼金の分け前を貰えるのである。さらに首斬り役をさせてもらうために、浅右衛門の方から普段から付け届けを贈っていた。
浅右衛門の家では、首を斬る者が何人いると聞くとその人数分だけ蝋燭を上げて出役し、一つ首を落とすとその蝋燭の火がひとつ消え全ての蝋燭が消えると御役目が済んだと言った、などと言われたこともある。
ある日、山田家にいかにも悪人の様な人相の男が現れて「金を貸してくれ」と要求した。断るとその男は「じゃあ俺の肝を買ってくれ。どうせあんたに首を斬られるんだからその前金だ」と不気味に笑ったという。
明治以後
幕府瓦解後、8代山田浅右衛門吉豊とその弟の山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担った。また1869年(明治2年)8月に手当金1カ月金5両で申し付けられてもいる[11]。しかし1869年(明治2年)の2・3月頃に東京府では、試し斬りが差し止められ、大きな収入源を失うことを危惧した山田浅右衛門は、同年6月に試し斬りの継続を求めた嘆願書を提出したが、1870年(明治3年)4月15日には太政官布告により、刑死者の試し斬りと人胆などの取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の大きな収入源が無くなることが決定的となった[11]。
1880年(明治13年)には旧刑法の制定により、死刑は絞首刑となることが決定された。翌1881年(明治14年)7月27日に市ヶ谷監獄にて強盗目的で一家4人を殺害した岩尾竹次郎、川口国蔵の2人の死刑執行が、日本法制史上最後の斬首刑(少なくとも当時の法で適法である状態で)であると共に、山田浅右衛門による最後の斬首刑となった[12]。1882年(明治15年)には刑法が施行され、斬首刑は廃止される[注 4]。吉豊は1874年(明治7年)に斬役職務を解かれ、吉亮も1881年(明治14年)に斬役から市ヶ谷監獄の書記となり、翌年末には退職している。こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、消滅した。吉亮は1911年(明治44年)まで生き、四谷の床屋で脳溢血で急死したという。享年58。
1938年(昭和13年)、浅右衛門の研究者たちが、7代吉利の孫娘の援助を受け、祥雲寺に「浅右衛門之碑」を建立した。碑の裏面には3代以降の戒名と没年月日、辞世が刻まれている。
歴代の山田浅右衛門
山田浅右衛門家は三河国出身で、徳川家康の側室であった茶阿局の一族であったと伝わる[14]。茶阿局の子であった松平忠輝の重臣に山田重辰や茶阿局の甥とされる山田勝重ら山田姓の者がいるが、彼らは茶阿局の縁で取り立てられたと伝わる。のち松平忠輝が改易処分となった際、山田重辰は切腹となり、子らは浪人となった。初代の貞武は重武の子孫と伝わる。ただし、重辰は忠輝が養子となった長沢松平氏の古参家臣であったとも伝えられるため、茶阿局との縁という話には齟齬が生じる可能性がある。
- 初代 山田浅右衛門貞武(1657年 - 1716年)
- 2代 山田浅右衛門吉時( ? 年 - 1744年)
- 3代 山田浅右衛門吉継(1705年 - 1770年)
- 4代 山田浅右衛門吉寛(1736年 - 1786年)
- 5代 山田浅右衛門吉睦(1767年 - 1823年) - 門人。湯長谷藩士の三輪源八の次男、母は3代浅右衛門吉継の娘ナヲ[14]。後に朝右衛門と名乗った[14]。
- 6代 山田朝右衛門吉昌(1787年 - 1852年) - 門人。三輪源八の養子。幕臣(紅葉山掃除役)の遠藤次郎兵衛の子。川路聖謨と親交があった[14]。
- 7代 山田朝右衛門吉利(1813年 - 1884年) - 門人。新見藩士で門人の後藤五左衛門の次男。5代目の養子である吉寧の娘(6代目の養女)と結婚。勝興寺の六代目夫妻の合葬墓には「第七世 山田浅右衛門吉年」とある[14]。
- 8代 山田浅右衛門吉豊(1839年 - 1882年) - 7代目の子。明治になってから浅雄とも名乗る[14]。
以上、浅右衛門之碑に残る山田浅右衛門
- 9代 山田吉亮(1854年 - 1911年) - 8代目の実弟、7代目の三男。
注釈
- ^ 吉時を初代とみなす場合は1例のみとなる。
- ^ 戦国時代に来日したルイス・フロイスは「ヨーロッパでは刀剣の切れ味を試すため動物を用いるが、日本人はそういった方法を信用せず、必ず人間の死体を用いた」と記している。
- ^ 当時、「客に心変わりしない」という証明のために、遊女が小指を切って渡す風習があった。
- ^ ただし、事実か定かでないが、旧刑法施行後の1886年(明治19年)12月に「青森の亭主殺し」事件の加害者である小山内スミと小野長之助の公開斬首刑が青森県弘前市の青森監獄前で行われた。この時2人の斬首刑に兼平巡査が斬首刑の執行人として、死刑執行者付添役に森矯(東奥義塾教師)がそれぞれの任を果したと言われている。しかし、このことが事実である場合、この死刑執行は事実上の斬首刑の最後であると共に、官憲による日本国内における一般刑法犯に対する最後の非合法(当時の旧刑法では非公開絞首刑のみ)の死刑執行かつ公開処刑であると言わざるを得なくなる[13]。
出典
- ^ 氏家 2016, pp. 120–122.
- ^ a b 氏家 2016, p. 92.
- ^ 氏家 2016, p. 94.
- ^ 氏家 2016, p. 95.
- ^ 氏家 2016, pp. 95–98.
- ^ 氏家 2016, pp. 98–99.
- ^ 氏家 2016, pp. 115–116.
- ^ 氏家 2016, pp. 116–118.
- ^ 氏家 2016, p. 111.
- ^ 氏家 2016, pp. 140–147.
- ^ a b 櫻井悟史 (2009-03-31). “斬首を伴う「死刑執行人」の配置に関する考察 -公事方御定書から旧刑法にいたるまで” (日本語). Core Ethics : コア・エシックス (立命館大学大学院先端総合学術研究科) 5: 171-180. doi:10.34382/00005419. ISSN 1880-0467. NAID 110007077223 2020年10月24日閲覧。.
- ^ 山下恒夫 (1988-04-01), 明治東京犯罪暦 明治元年~明治23年, 東京法経学院出版, pp. 148-155, ISBN 4808944383, NCID BN02158260
- ^ 手塚豊 (1960-04), 刑罰と国家権力 国家的刑罰権と非国家的刑罰権――明治前期の場合に関する一未定稿, 法制史学会, pp. 182-185, doi:10.11501/2527269, NCID BN0366777X
- ^ a b c d e f g h 氏家 2016, pp. 246–250.
- ^ 『明治百話』篠田鉱造 著、角川学芸出版、2010年3月 ISBN 978-4-04-622093-6 p27-36
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