山田午郎 山田午郎の概要

山田午郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 22:55 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
山田午郎
名前
カタカナ ヤマダ ゴロウ
ラテン文字 YAMADA Goro
基本情報
生年月日 1894年3月3日
大日本帝国, 福島県安達郡
没年月日 (1958-03-09) 1958年3月9日(64歳没)
日本, 東京都大田区
選手情報
ポジション HB
ユース
東京府青山師範学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
東京蹴球団
監督歴
1925 日本
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴

高等小学校を卒業し地元の小学校で代用教員を務めた後、東京府青山師範学校に入学しサッカーを学んだ。1917年大正6年)に青山師範を卒業して小学校の教員として勤務する傍ら、内野台嶺の勧誘により東京蹴球団に入団。1921年(大正10年)の第1回全国優勝大会(現在の天皇杯)決勝では右のHBとして出場し優勝に貢献した。

1925年(大正14年)の第7回極東選手権では日本代表監督を務め、その年には少年向けの指導書「ア式フットボール」を出版したが、翌年に教員を辞して朝日新聞社に入社し運動部記者となり、1939年昭和14年)から1941年(昭和16年)まで運動部長を務めた。戦前の日本サッカー黎明期に取材を続け、サッカーの普及、発展に尽力した事で、サッカー記者の草分け的存在と呼ばれている。戦後には協会機関誌「蹴球」の編集長を務めた。また、日本蹴球協会常務理事や関東蹴球協会副会長を歴任した[1]

1958年(昭和33年)3月9日、東京都大田区大森脳出血のため死去[1]。墓所は福島県二本松市の大隣寺にある[2]

2005年平成17年)に第1回日本サッカー殿堂入りを果たした。

選手経歴

指導者経歴

著書

  • 山田午郎『ア式フットボール』杉田日進堂、1925年1月1日。ASIN B008YT9X6Q

外部リンク


  1. ^ a b 「山田午郎氏 死去」 朝日新聞 (1958年3月10日) 2021年7月23日閲覧
  2. ^ 「自らプレーヤーで指導者でもありサッカーに生涯を捧げた記者 山田午郎」賀川サッカーライブラリー(初出は月刊グラン2007年2月号 No.155)


「山田午郎」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山田午郎」の関連用語

山田午郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山田午郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山田午郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS