大不況 (1873年-1896年) 大不況 (1873年-1896年)の概要

大不況 (1873年-1896年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 06:10 UTC 版)

歴史

大不況は1873年恐慌に始まる[2]。1873年恐慌そのものは原因が多様であるが、以後の大不況にまで関わる要因は限られる。

第3回国際貨幣会議まで

大不況の原因は広範な産業分野における生産力の向上である。特にの増産と価格の下落である。増産は、新鉱山の発見および電解精錬の成果である。鉱山は従来から探索が続いていた。鉱床に関しては独仏資本の入り乱れたロレーヌ等を例に浚渫技術が向上した。これと先の電解精錬こそ技術革新として画期性を認めるべき点である。絶対量の増え続ける雑多な鉱石から銀を得られるようになった。やがて金銀比価は大昔のアイザック・ニュートンも想像できなかったであろうほどに開いていった。しかし、価格差が著しくなるのは1891年から数年である[3]ドイツ=オーストリア電信連合ができて20年も経つころには、その兆しが早くも察知された。

そこではじめにドイツ帝国は、普仏戦争で獲得した50億フランの賠償金を使ってロンドン市場等から金塊を調達した。そして1871年7月の鋳造法と1873年の鋳貨法で金本位制を採用した。1872年12月にデンマークも、1873年にスウェーデンも、金本位制を採用して、スカンディナヴィア通貨同盟を結んだ。1875年ノルウェーも参加した。同年オランダが、1877年フィンランドが、それぞれ金本位制を採った。フランスもパリ・コミューンをドイツと鎮圧してから、戦後復興のためにモルガン資本を注入されて、事実上は1873年から、正式には1878年から、金本位制となっていた。海の向こうでアメリカも1873年の貨幣法により金本位制をとった。

金本位制の流行が意味するところはドイツの動きに垣間見ることができる。1873年時点で、回収を必要とする旧銀貨はおよそ15億3千万マルクであった。このうち新たな補助銀貨の鋳造に4億5千万マルクを要したので、差し引き10億8千万マルクの銀貨を鋳潰して売却することになっていた。売却予定分は重量にしておよそ6千トンであり、当時の世界における年間銀産出高の3倍であった。[4]

このような大量売却見込みは、鉱山で産出した銀の売上げ単価を下落させる。南米では事業が縮小した。百万ポンド単位のイギリス海外投資額において、1872年21.4であったのが翌年に8.0となった。1877年には0.6となった。ヨーロッパに対しても同様である。1872年に34.9であったのが翌年25.4となった。1877年には3.7となった。北米に対しては1872年・1873年・1877年の順で、30.8・26.8・4.3であった。[5]結果として、1873年にはオーストリア=ハンガリー帝国が資金の引き上げに遭い、同年11月7日イングランド銀行公定歩合を9%に引き上げた[6]。また、それまで緩やかであった銀価格の下落が1876年だけ一段階段を踏み外したようになった[4]

1875年から1880年にかけてアメリカの総輸出額は4億ドルも飛躍した[7]。理由は製粉技術の向上や過剰な鉄道建設ラッシュが直接的なものとして挙がる[8]。しかし、電話の発明も流通には関係する。ともかく1879年から1881年にかけてアメリカのヨーロッパ向け穀物輸出が急激に増え、その支払のためにヨーロッパから金が流出した。フランス銀行の金準備は危機的水準に落ち込んだ。そしてフランスへはラテン通貨同盟諸国の減価した銀が大量に流入した。フランス銀行は政府に複本位制復帰を要請した。ライヒスバンクも金が出て銀が余るようになっていた。そこで1881年、第3回国際貨幣会議がフランスとアメリカの共同提唱で開催された。イギリス・ドイツは金本位制にこだわり、フランスとアメリカは国際複本位制協定を主張し、会議は物別れに終わった。[4]金に余裕があるかに見えるアメリカは、1874年インフレーション法を制定していた。これは、マネーサプライに新たな政府紙幣[9]を供給することで、物価の下落を防ぐことを目的としていた。実業界からの圧力に押されて、ユリシーズ・グラント大統領はこの法案に対し拒否権を行使した。1878年、議会はラザフォード・ヘイズ大統領の拒否権を覆して、銀購入法(ブランド・アリソン法)を制定し、低金利の資金を供給することに成功した[10]。ヨーロッパ各国は金を新たに獲得するためアフリカ分割に精を出すようになった。また、金の流出を防ぐために金利が操作された。イングランド銀行の大不況における公定歩合は1873年恐慌のときを別にすれば、中央銀行となったときからオーバーレンド・ガーニー恐慌が起こるまでと比べて低い水準に落ち着いている[6]。しかし、このイングランド銀行だけでなくライヒスバンクとフランス銀行も、公定歩合は各行膝元の市場利子率より常に高く据えていた[11]。さらに大不況中のGDPデフレーターが負の値であったので[1]、公定歩合はデフレーターの絶対値を加えることで実質金利が高めであったことが分かる。

1882年のパリ証券取引所での株価暴落によって、フランスは恐慌に突入し、「19世紀のどの国よりも長くそして深い痛手をフランスに与えた」と言われている[12]。フランスのユニオン・ジェネラル銀行が1882年に破綻してしまい、フランスはイングランド銀行から300万ポンドを引き出すこととなり、またこのときフランスの証券取引所では株価が崩壊した。フランスの国民純生産(NNP)は、1882年から1892年にかけて10年間にわたり減少し続けた[13]

1891年からの世界

余剰資本が生産制限に我慢できなくなって、1887年から鉱山が再び開発された。百万ポンド単位のイギリス海外投資額は、各地域に対して1885年から1891年までの各年におき次のような値となった。ヨーロッパでは3.4・5.0・12.9・10.1・11.2・12.3・5.0であった。北米では14.1・14.0・23.9・37.2・37.2・52.8・18.7であった。南米では7.1・19.3・18.9・40.3・40.2・23.3・9.4であった。アフリカへの投資はまだ本格化していない(4.7・2.5・1.5・4.2・8.9・4.6・6.6)。[5]ネバダ州コロラド州アイダホ州が銀鉱山を抱えるアメリカでは1890年にシャーマン銀購入法が成立した。しかし南北アメリカの開発により、1891年から金銀比価が異常に開きだした。その勢いは1893年恐慌が起こるまで止まらなかった。その後も銀の下落傾向が続いて、1900年にアメリカは立法により金本位制を再確認した。

中央銀行を頂点とする間接金融は全体的に鈍化した。そこでは直接金融が代替手段となる。社債特にロンドン証券取引所で発行する外債である。外債発行の幹事・窓口となる銀行が、資金を必要とする企業の将来を支配した。株式は、それを引受ける側が独占体制を構築するのにも使われた。ライヒスバンク(高)とイングランド銀行(低)の割引率格差が、ドイツに短期資本を呼び込んだ[4]。資本支配には各国内部の人脈(家系・監査役兼任・技術提携その他あらゆる関係)が影響して、カルテルトラストコンツェルンだけにとどまらない多様なバリエーションが展開した(ドイツ帝国#経済を参照)。ベッセマー転炉等の過剰な設備投資が行われ、急激な合理化により生産力も過剰となった[14]。こうして将来の戦間期に国際カルテルを結ぶ大企業が生まれていった。ヨーロッパの中で資金と雇用を求めるとき、そうしたコングロマリットに頼る以外の道が閉ざされていった。

一方でアジア各国は、鉱業の合理化が遅れて、金を退蔵したまま銀本位制にとどまり、貿易銀の流通を長く許した。要するに、鋳貨全体における競争で負けていた。それで国内金融制度は整備が遅れた。金利は高止まりした。金本位制の採用は、日本の場合1897年の貨幣法を待たねばならなかった。そこへオリエンタル・バンクなどの外国銀行で銀価格下落による会計上の損失が生じた。もっとも、香港上海銀行は金と銀を別々に会計処理したので被害を免れた。こうしてイギリスでは夥しい銀行が淘汰され、個人銀行の場合1875年の236行から1900年81行にまで減じた[15]。これにともないアジア各国および産業の資金調達元は限られてきた。資金の募集は欧州各国および産業と競合した。

金が基軸通貨となり、金を知る者・持てる者へ資金需要が殺到した。半世紀後のブレトンウッズ体制がドル不足を露呈したように、大不況では金属としての金が不足した。海底ケーブルによりグローバル経済が進展して、金という決済手段の流動性を極度に高めた結果、その他の金融資産およびモノとサービスが流動性と交換性を失った。

世界の主要貿易国で次々と成立した保護貿易主義政策の結果、1870年から1890年の間、国際商船取引は全く成長しなかった。保護貿易主義には景気を好転させる働きはなく、不況が長期化する一因となった。それ以前の関税戦争前の好況期には、商船取引量は総トン数でおよそ2倍に成長していた。唯一英国とオランダだけは、低い関税率のまま維持していた。1890年からドイツの輸出環境が悪くなりだした。マッキンレー関税法が対米輸出の障害となったのである。さらに1892年、アドルフ・ティエールの保護貿易主義をうけて過酷なメリーネ関税がフランスで設定された。ユンカーオットー・フォン・ビスマルクをして採用させた1879年の保護関税は、もはや頼りにならなくなった。金本位制を再確認した1900年前後に集中して、アメリカでは膨大な件数・企業数・資本額の吸収合併が相次いだ[16]。イギリスでの吸収合併はさほどでもなかった。オール・レッド・ライン海運アライアンスの貢献は大きい。このようなイギリスはボーア戦争をきっかけに公債等の形でアフリカへの投資を本格化させた(1903年がピークで資本輸出額が4240万ポンド[5])。メリーネ関税を設けたフランスは、イタリアを相手に1887年以降10年にわたる関税戦争を経験していた[17]。フランスはイタリアへの最大の投資国であるため、イタリア国内のフランス資産が清算されたことで特に損失が大きかった[18]。フランスは露仏同盟を背景にロシアへも巨額の資本を輸出した。ロシアでは3回の不況が発生し、経済が製造業へ集中し、不況の発生した時期[19]も近く、これらの不況の合間には景気回復の期間があった[20]

各国の経済成長率と国民総生産

1870年から1890年にかけて、主要な粗鋼生産国五ヶ国の粗鋼生産高は、1,100万トンが2,300万トンへと2倍以上に伸び、また鉄鋼生産高は50万トンから1,100万トンへと20倍に伸びた。鉄道整備事業も活況を呈した。しかし、同じ時期に、いくつかの市場においては市場価格が総崩れとなった。1894年の穀物価格は1867年の水準に比べて三分の一まで下落し、綿の価格は1872年から1877年までの5年間で半値まで下がった。この価格下落によって農業従事者は大きな打撃を被った。この価格崩壊によって、多くの国(例えばフランス、ドイツ、米国など)において保護貿易主義政策が採られるようになった。また、イタリア、スペイン、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア、スウェーデンなどからの大規模な移民流入も誘発することとなった。同様に、鉄の生産高が1870年代から1890年代にかけて2倍になった一方で、鉄の価格は半値まで下がった。

工業生産高の成長率 (1850s-1913)[21]
1850s-1873 1873-1890 1890-1913
ドイツ 4.3 2.9 4.1
 イギリス 3.0 1.7 2.0
 アメリカ 6.2 4.7 5.3
 フランス 1.7 1.3 2.5
イタリア 0.9 3.0
 スウェーデン 3.1 3.5
ヨーロッパの大国のGNP(=国民総生産)推移
(in billions USD, 1960 prices)[22]
1830 1840 1850 1860 1870 1880 1890
 ロシア 10.5 11.2 12.7 14.4 22.9 23.2 21.1
 フランス 8.5 10.3 11.8 13.3 16.8 17.3 19.7
 イギリス 8.2 10.4 12.5 16.0 19.6 23.5 29.4
ドイツ 7.2 8.3 10.3 12.7 16.6 19.9 26.4
オーストリア=ハンガリー 7.2 8.3 9.1 9.9 11.3 12.2 15.3
イタリア 5.5 5.9 6.6 7.4 8.2 8.7 9.4

  1. ^ a b 西村閑也 19世紀末「世界大不況」が残した教訓 エコノミスト73(30) 1995年7月11日号 pp.44-47.
  2. ^ David Glasner, Thomas F. Cooley (1997). "Crisis of 1873". Business Cycles and Depressions: An Encyclopedia. Taylor & Francis. ISBN 0824009444
  3. ^ J. L. Laughlin, A New Exposition of Money, Credit and Prices, University of Chicago Press, 1931, Vol.1, App.2.
  4. ^ a b c d 井上巽 19世紀末「大不況」期におけるドイツ複本位制論争 西洋史研究第5集 1976年11月 pp.119-130.
  5. ^ a b c d Simon. M, "The Pattern of New British Portfolio Foreign Investment 1865-1914", A. R. Hall, The Export of Capital from Britain 1870-1914, 1968, p.40.
  6. ^ a b クラパム 『イングランド銀行 2』 付録B
  7. ^ Unaited States Department of Commerce, Hixtorical Statistics of the United States, pp. 550, 552-553
  8. ^ 格安の水・材木・魚・鉱物資源が供給されたことで、1878年 - 1879年頃から、以前はネイティブ・アメリカンの居住地であった地域へ当該民族に対するジェノサイドを伴いながら米国西部鉄道の再建設・拡張・財務再建が活発に行われ、鉄道市場は高騰した。もちろん、鉄道の延伸は市場や産業の拡大へと繋がり、欲深い鉄道会社のオーナーたちが1880年代から1890年代にかけて上流階級社会を艷やかに飾った。このような「金ぴか時代」は、ごく僅かな富裕層のみに富をもたらした。このサイクルは、1893年に起こったもう一つの暴落の際にも繰り返された。
  9. ^ いわゆるグリーンバックス。リンク先ではデマンド・ノート
  10. ^ a b c David Glasner, Thomas F. Cooley (1997). "Depression of 1873-1879". Business Cycles and Depressions: An Encyclopedia. Taylor & Francis. ISBN 0824009444
  11. ^ J. Esslen, Konjunktur und Geldmarkt 1902-1908, Stuttgart und Berlin, 1909, S.320. データは1896年からであり、この点で不確実性がある。下記のデータは1877年からであるが、ライヒスバンクの値だけである。これもベルリンの市場利子率より高い値で推移している。
    Die Reichsbank 1876-1910, Tabelle. 13, 16, 79, 83.
  12. ^ France and the Economic development of Europe (1800-1914). Routledge. (2000). pp. 70–71. ISBN 0415190118 
  13. ^ France and the Economic development of Europe (1800-1914). Routledge. (2000). p. 457. ISBN 0415190118 
  14. ^ 山本幹夫 19世紀末「大不況」の過剰資本と生産の集積 -ドイツ石炭・鉄鋼業を事例として- 立命館経済学 24(3) 1975年8月 pp.401-432.
  15. ^ Michael Collins, Money and Banking in the U. K. - a History, London, Croom Helm, 1988, p.52.
  16. ^ 永田啓恭[ほか] 『「大不況」期における国際比較』 第一章 龍谷大学社会科学研究所 1985年
    実証的で、網羅したイギリスとアメリカの企業名ごとに合併の態様が表にまとめられている。
  17. ^ イタリア統一運動の時期には蜜月だった仏伊間の関係が悪化した。
  18. ^ France and the Economic development of Europe (1800-1914). Routledge. (2000). p. 457. ISBN 0415190118 
  19. ^ 1874年~1877年、1881年~1886年、1891年~1892年
  20. ^ David Glasner, Thomas F. Cooley (1997). "Business cycles in Russia (1700-1914)". Business Cycles and Depressions: An Encyclopedia. Taylor & Francis. ISBN 0824009444
  21. ^ Andrew Tylecote (1993). The long wave in the world economy. Routledge. p. 12. ISBN 0415036909 
  22. ^ Paul Kennedy (1989). The Rise and Fall of the Great Powers. Fontana Press. p. 219 
  23. ^ Rothbard (2002), 161
  24. ^ David Glasner, Thomas F. Cooley (1997). "Depression of 1882–1885". Business Cycles and Depressions: An Encyclopedia. Taylor & Francis. ISBN 0-8240-0944-4.


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