南海諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 13:22 UTC 版)
2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、いわゆる九段線に囲まれた南シナ海の地域について中華人民共和国が主張してきた歴史的権利について、「国際法上の法的根拠がなく、国際法に違反する」とする判断を下した。
概要
南海諸島の範囲は、北は北衛灘、西は萬安灘、南はジェームズ礁(中国名:曾母暗沙)、東はスカボロー礁(中国名:黄岩島)または海馬灘に至る、南北約1,800km、東西約900kmに及ぶ。この海域には250を越える1km2以下の島、環礁、岩礁、浅瀬、暗礁、砂州が点在する。
ほとんどの島には元来からの住民は存在しない。南海諸島及び周辺海底には、鉱石、天然ガス、石油が埋蔵されており、経済的・軍事的・海運的重要性を持つ。このため、20世紀中頃から中華人民共和国、中華民国(台湾)、ベトナム、マレーシア、フィリピンが南海諸島の全部又は一部について領有を主張しており、それぞれいくつかの島を実効支配している(#領有の主張と実効支配参照)。
日本においても、この地域の島嶼群を指して南海諸島という総称を用いている例がある[1]。ただし、明治時代前半までは南西諸島のことを南海諸島と呼んでいた[2]。
歴史
諸島の歴史に最も広範囲に関わっている国が中国とベトナムである。 南海諸島は発見した秦の時代の中国人によりそれぞれ漲海崎頭および珊瑚洲と名づけられた。しかし次の漢の時代には航海は行なわれなかった。宋の後、島々は千里長沙および萬里石塘と呼ばれた。 唐または宋の時代に、現在はベトナムと係争中の甘泉島に家があった。1045年、宋の仁宗の治世、王師が西沙諸島に送られた。海南島の漁師は「更路簿」へ200を超える航路、そして漁師達が共通で使っていた100を越える島々の名前を記録していた。 鄭和は何度も航海を行い、この島々を通過したが、おそらく停泊はしなかったと考えられている。鄭和の通過に因んだ名前が南沙諸島にある環礁へ付けられている。
ベトナムの漁師と商人もまた南海諸島を探検していたが、非公式であり記録が不足しているためその存在はよく知られていない。 19世紀、インドシナの占領の一部としてフランスは南沙諸島の主権を1930年代まで要求し、英国といくつか交換をした。第二次世界大戦中の1939年に南海諸島は日本へ併合された。 1911年に成立した中華民国は広東省、後に海南特別行政区の一部として南海諸島を要求し、1946年島を接収した。
領有の主張と実効支配
日本とフランスはそれぞれ、占領を終えてからは領有を主張していない。
中華人民共和国は、南シナ海の大部分を含む「九段線」(または「U字線」「牛舌線」ともいう)を引いて、これら全ての島々を海南省の一部だと主張している。中華人民共和国はこれらの島々の領有を強く主張している。
一方でベトナムは1973年に南沙諸島全域をフォクトイ省(当時はカインホア省)に属すると主張している。 現在ベトナムは29の、中華人民共和国は8~9個の島と岩礁を実効支配している。
中華人民共和国とベトナムに加え、中華民国(台湾)、マレーシア、フィリピンがいくつかの島々を要求し、占領している。中華民国は南沙諸島全ての領有を主張しているが、実効支配しているのは太平島一つだけである。マレーシアは大陸棚の3つの島々を占領している。フィリピンは南沙諸島の殆どをカラヤーン群島と呼び、パラワン州の郡であると主張しているが、8つの島しか占領していない。
ブルネイとインドネシアは島ではなく海の領有を主張している。(南シナ海を参照の事)
- ^ 南海諸島国際紛争史、浦野起央、1997年
- ^ 琉球弧の考古学 -南西諸島におけるヒト・モノの交流史- 小田静夫、青柳洋治先生退職記念論文集編集委員会編『地域の多様性と考古学-東南アジアとその周辺-』、雄山閣
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