三重ノ海剛司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/07 07:22 UTC 版)
合い口
- 大関陣との対戦成績が概ね互角程度に安定しており、大関の中に極端に苦手とする相手がいなかった。
- 旭國とは20勝16敗(不戦敗1つ含む)、魁傑とは19勝19敗、貴ノ花とは21勝24敗、大受とは12勝9敗、前の山とは8勝7敗(不戦敗1つ含む)、清國とは6勝9敗と多くの場合対戦成績が安定していた。増位山に対しては19勝10敗と寧ろ得意にしていた。
- 唯一大関陣で苦手にしていた大麒麟では初顔からの7連敗を喫してしまったが、8回目の対戦で初勝利を挙げてからは6勝8敗と伯仲して最終的に6勝15敗となるまで食い下がった。
- 同じ横綱の中でも自身に近い実績の力士には対戦成績で水をあけられることはなく、三重ノ海が横綱に昇進する前後では同じ時代の横綱には相性が良かった。
- 琴櫻には11勝7敗と勝ち越すなど相性がよく、2代目若乃花とは14勝19敗と拮抗していた。
- 輪島には16勝27敗(優勝決定戦で1敗)、1977年11月場所で相手の脳震盪によって寄り切りで勝利してからは10勝3敗(優勝決定戦で1敗)と圧倒していた。
エピソード
- 横綱昇進の際には、入門時の師匠である13代武蔵川(元幕内・出羽ノ花)から「一簣功(いっきのこう)」という言葉を贈られた[1]。「九仞の功一簣に虧(か)く」という故語からの引用で、「苦労の末に晩年に横綱になったが、これで安心せずもう一花咲かせてみせよ」という思いが込められた言葉である[12]。実際三重ノ海の師匠・出羽海親方からも「太く短い横綱で終わっても構わないから、引退する前に一度位は優勝して欲しい」と奮起を促したという[29]。三揃えの化粧廻しにはこの「一簣功」の三文字をあしらったものがあり(「一」は露払い、「簣」は横綱、「功」は太刀持ちが着用。文字の筆を執ったのは武蔵川本人[注 7])、自身の還暦土俵入りでも使用された。
- 長男の石山俊明は本名の「石山」を四股名として三段目まで昇進した元力士で、引退後は俳優として『GTO』や『暴れん坊将軍』に出演したことがある[30]。
- 1974年9月場所11日目における二子岳戦で引分を記録した。この一番を最後に幕内で「引分」は出ていない[7]。この場所が11勝3敗1分の好成績を修めたことに加えて11日目の熱戦を考えれば三賞獲得も不思議でなかったが西前頭10枚目の地位であったことを理由に受賞を見送られた。平凡な力士という印象から三賞受賞において損をした面もあるとされる。[31]
- 好敵手であり親友である旭國が「努力」「闘魂」の言葉を好んで使ったのに対し、本人は「闘志」「神力」という言葉を好んで使った。[32]「神力」は寺の僧侶から「その不思議なまでの力は、自分ばかりではなく、多くの人をも幸せにする」とその意味を聞いた上で貰った言葉であり、三重ノ海自身は「そんな力士になりたい」とその言葉を心の支え、目標としていた[33]。
- 1970年1月場所5日目にかつての部屋の兄弟子であった北の富士と初対決に至った際の心境を後に「出羽一門を破門されたのは、私がまだ三段目から幕下に上がる頃でしたから、顔を合わせた時は『ここまで来られたか』といううれしさはありましたね。左の相四つなので、ほとんど勝った記憶はありませんが(幕内対戦成績は三重ノ海の2勝14敗)」と語っている[1]。
- 好物は牛スジのピリ辛煮込み、豚足。このメニューは15代武蔵川の武蔵川部屋にも受け継がれており、2017年11月時点でも14代武蔵川夫婦が参加する部屋の行事では弟子に作らせても思うような味が出せないため15代武蔵川が朝から仕込むという[19]。
- 引退後に武蔵丸のプロデュースで恵比寿に餃子専門店『67餃子』を開業した元幕下・東乃垓によると、彼の新弟子時代は食事のメニューがちゃんこ鍋と沢庵ぐらいしかなく、最後にはスープぐらいしか残っていなかったが、ある日それをたまたま見た14代武蔵川は部屋の衆に「お前らなんで新弟子に食わせないんだ!」と怒った。これが切っ掛けでおかずが2品から3品も付くようになり、部屋の食糧事情が改善された[34]。
- ソップ炊きに関しては、既成の出汁の素やスープの素を認めない派である[34]。
- 部屋持ち時代は2年に1度、弟子をハワイ旅行に連れて行った。弟子が相撲を辞めたくなってもハワイ旅行を楽しみに現役を続けようと頑張ることを狙ってのことであった[35]。
主な成績
通算成績
- 通算成績:695勝525敗1分56休(勝率.570)
- 幕内成績:543勝413敗1分51休(勝率.568)
- 大関成績:180勝123敗12休(勝率.594)
- 横綱成績:55勝23敗30休(勝率.705)
- 幕内在位:68場所
- 横綱在位:8場所
- 大関在位:21場所
- 三役在位:15場所(関脇12場所、小結3場所)(関脇在位は横綱経験者としては歴代1位)
- 平幕在位:24場所(横綱経験者としては歴代1位タイ)
- 連続6場所勝利:77勝(1979年3月場所 - 1980年1月場所)
- 通算幕内連続勝ち越し記録:14場所(1977年11月場所 - 1980年1月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:9場所(1978年9月場所 - 1980年1月場所)
連勝記録
三重ノ海の最多連勝記録は、24連勝である。(1979年11月場所8日目〜1980年3月場所初日)
下記に、詳細を記す。
順位 | 連勝数 | 期間 | 止めた力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 24 | 1979年11月場所8日目〜1980年3月場所初日 | 千代の富士 | 1980年1月場所全勝優勝 |
各段優勝
- 幕内最高優勝:3回(全勝1回)(1975年11月場所、1979年11月場所、1980年1月場所)
- 三段目優勝:1回(1967年9月場所)
三賞・金星
- 三賞:9回
- 殊勲賞:5回(1970年7月場所、1973年1月場所、1975年1月場所、1975年3月場所・11月場所)
- 敢闘賞:1回(1971年9月場所)
- 技能賞:3回(1971年11月場所、1973年3月場所、1975年11月場所)
- 金星:5個(輪島2個、琴櫻1個、北の富士1個、北の湖1個)
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1963年 (昭和38年) |
x | x | x | (前相撲) | (前相撲) | 東序ノ口30枚目 4–3 |
1964年 (昭和39年) |
東序二段102枚目 4–3 |
西序二段81枚目 3–4 |
西序二段98枚目 2–1–4 |
東序二段112枚目 5–2 |
東序二段57枚目 3–4 |
西序二段66枚目 3–4 |
1965年 (昭和40年) |
西序二段88枚目 5–2 |
東序二段39枚目 2–5 |
東序二段61枚目 5–2 |
東序二段8枚目 3–4 |
東序二段13枚目 4–3 |
西三段目88枚目 5–2 |
1966年 (昭和41年) |
東三段目52枚目 1–6 |
西三段目83枚目 2–5 |
東序二段10枚目 3–3–1 |
東序二段23枚目 5–2 |
東三段目80枚目 5–2 |
東三段目39枚目 4–3 |
1967年 (昭和42年) |
東三段目30枚目 5–2 |
西幕下98枚目 4–3 |
東三段目27枚目 5–2 |
東幕下57枚目 3–4 |
東三段目5枚目 優勝 7–0 |
東幕下11枚目 3–4 |
1968年 (昭和43年) |
西幕下15枚目 3–4 |
東幕下18枚目 4–3 |
西幕下13枚目 4–3 |
西幕下8枚目 4–3 |
西幕下6枚目 2–5 |
西幕下16枚目 6–1 |
1969年 (昭和44年) |
東幕下5枚目 6–1 |
東十両12枚目 9–6 |
西十両7枚目 10–5 |
東十両3枚目 9–6 |
東前頭11枚目 8–7 |
東前頭5枚目 8–7 |
1970年 (昭和45年) |
西前頭3枚目 4–11 |
西前頭9枚目 8–7 |
西前頭6枚目 11–4 |
西小結 8–7 殊 |
西関脇 6–9 |
西前頭筆頭 5–10 |
1971年 (昭和46年) |
西前頭3枚目 6–9 |
西前頭4枚目 5–10 |
東前頭11枚目 10–5 |
西前頭3枚目 7–8 |
東前頭4枚目 10–5 敢 |
西小結 11–4 技 |
1972年 (昭和47年) |
東関脇 8–7 |
西張出関脇 8–7 |
西張出関脇 9–6 |
東張出関脇 5–2–8[注 8] |
東前頭筆頭 4–11 |
東前頭7枚目 8–7 |
1973年 (昭和48年) |
西前頭3枚目 11–4 殊★ |
西小結 10–5 技 |
西関脇 8–7 |
西関脇 4–11 |
西前頭2枚目 8–7 ★ |
西前頭筆頭 4–11 |
1974年 (昭和49年) |
東前頭6枚目 8–7 |
西前頭3枚目 8–7 |
東前頭筆頭 5–9–1[注 9] |
西前頭5枚目 5–10 |
西前頭10枚目 11–3 (引分1) |
東前頭2枚目 5–10 |
1975年 (昭和50年) |
西前頭6枚目 10–5 殊★★ |
東前頭筆頭 11–4 殊★ |
西関脇 9–6 |
東関脇 8–7 |
東張出関脇 11–4 |
東関脇 13–2 殊技 |
1976年 (昭和51年) |
東大関 8–7 |
西大関 2–6–7[注 10] |
東張出大関 2–8–5[注 11][注 12] |
西張出関脇 10–5[注 13] |
東張出大関 9–6[注 14] |
東張出大関 8–7 |
1977年 (昭和52年) |
東張出大関 8–7 |
西張出大関 8–7 |
東張出大関2 5–10 |
東張出大関2 8–7[注 12] |
西張出大関 7–8 |
西張出大関 9–6[注 12] |
1978年 (昭和53年) |
東張出大関 10–5 |
西大関 8–7 |
東張出大関 11–4 |
東大関 9–6 |
東大関 10–5 |
東大関 10–5 |
1979年 (昭和54年) |
東大関 11–4 |
東大関 10–5 |
東大関 13–2 |
東大関 14–1[注 15] |
東張出横綱 11–4 |
西横綱大関 14–1 |
1980年 (昭和55年) |
東横綱 15–0 |
東横綱 1–4–10[注 16] |
西張出横綱 10–5 |
西張出横綱 4–6–5[注 17] |
東張出横綱 休場 0–0–15 |
西張出横綱 引退 0–3–0 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
青葉城 | 7 | 2 | 青葉山 | 5 | 2 | 朝潮(朝汐) | 3 | 1 | 浅瀬川 | 1 | 1 |
朝登 | 5 | 1 | 旭國 | 20 | 16(1) | 天ノ山 | 2 | 1 | 嵐山 | 1 | 0 |
荒勢 | 15 | 14 | 大潮 | 4 | 2 | 巨砲 | 4 | 1 | 大鷲 | 2 | 0 |
魁輝 | 6 | 2(1) | 魁傑 | 19 | 19 | 魁罡 | 0 | 1 | 和晃 | 4 | 0 |
北瀬海 | 6 | 4 | 北の湖 | 13 | 26 | 北の富士 | 2 | 14 | 清國 | 6 | 9 |
麒麟児 | 17 | 8(1) | 蔵間 | 5 | 2 | 黒瀬川 | 3 | 2 | 黒姫山 | 21 | 13 |
高鐵山 | 6 | 0 | 琴風 | 4 | 6(1) | 琴櫻 | 11 | 7 | 琴乃富士(琴乃冨士) | 1 | 0 |
琴若 | 3 | 0 | 金剛 | 9 | 7 | 蔵玉錦 | 1 | 0 | 白田山 | 2 | 1 |
大旺 | 0 | 1 | 大峩 | 7 | 5 | 大麒麟 | 6 | 15 | 大受 | 12 | 9 |
大雪 | 2 | 2 | 大飛(大登) | 1 | 0 | 大鵬 | 1 | 3 | 大文字 | 2 | 2 |
大雄 | 4 | 3 | 大竜川 | 1 | 3 | 隆の里 | 7 | 1 | 貴ノ花 | 21 | 24 |
高見山 | 23 | 16 | 玉輝山 | 3 | 1(1) | 玉の海 | 1 | 4 | 玉ノ富士 | 18 | 7 |
千代の富士 | 2 | 3 | 照櫻 | 2 | 0 | 天龍 | 3 | 1 | 時葉山 | 3 | 4 |
栃赤城 | 7 | 2 | 栃東 | 10 | 5 | 栃勇 | 1 | 0 | 栃王山 | 6 | 1 |
栃光 | 17 | 2 | 栃富士 | 0 | 1 | 羽黒岩 | 10 | 4(1) | 長谷川 | 14 | 9 |
花光 | 3 | 0 | 播竜山 | 2 | 0 | 富士櫻 | 18 | 12 | 藤ノ川 | 3 | 2 |
二子岳 | 9 | 5{1分} | 双津竜 | 4 | 1 | 鳳凰 | 2 | 0 | 前の山 | 8 | 7(1) |
増位山 | 19 | 10 | 舛田山 | 1 | 0 | 三杉磯 | 1 | 1 | 明武谷 | 0 | 1 |
陸奥嵐 | 6 | 3 | 豊山 | 18 | 4 | 吉王山 | 3 | 0 | 琉王 | 5 | 5 |
龍虎 | 4 | 7 | 若獅子 | 5 | 4 | 若浪 | 2 | 5 | 若ノ海 | 2 | 4 |
若乃花(若三杉) | 14 | 19 | 若二瀬 | 5 | 3 | 輪島 | 16 | 27* |
- 他に優勝決定戦で輪島に1敗がある。
注釈
- ^ これは1969年7月場所に「大関の地位で2場所連続負け越した場合は関脇へ降格。ただし降格直後の場所で10勝以上の勝ち星を挙げれば大関復帰」という「大関特例復帰」の制度が制定されてから最初の適用例となった。
- ^ 特に通算2回目の大関角番だった1977年7月場所は13日目で6勝7敗、あと1敗で負け越せばあわや2度目の大関陥落となる大ピンチだったが、14日目大関・貴ノ花に、千秋楽に前頭5枚目・大潮にそれぞれ勝利して8勝7敗、辛うじて勝ち越して角番を脱出した。
- ^ 1度目の大関在位時に成績不振だった一方、2度目の大関在位時にわずか2場所で横綱昇進を果たしたため。
- ^ 昭和20年代以降、短命横綱では前田山の6場所に次ぐ史上2位だが、年6場所制となった昭和33年以降は三重ノ海の8場所が最短記録となる(但し琴櫻と双羽黒も同じく横綱在位8場所だが、番付上で数えると二人共9場所となる)。
- ^ 一説によると、山科を直近で襲名していたのは最高位が十両の大平山だったため「元横綱の名跡に相応しくない」と入門時の師匠で相撲博物館館長を務めていた13代・武蔵川の出羽ノ花から武蔵川の名跡を譲られたという。
- ^ 三重ノ海が初土俵を踏んだ1963年7月場所の時点ですでに大鵬は幕内優勝11回を記録していた。
- ^ 「功」の廻しに「市川國一書」と本名(市川國一)が書かれている。
- ^ 急性肝臓炎により7日目から途中休場
- ^ 右足関節捻挫により14日目から途中休場
- ^ 左足首関節捻挫及び外傷性炎症により8日目から途中休場
- ^ 左膝内側側副靱帯損傷・左足首関節捻挫後遺症により10日目から途中休場
- ^ a b c 大関角番(全3回)
- ^ 関脇陥落
- ^ 大関特例復帰
- ^ 輪島と優勝決定戦
- ^ 左肘関節挫傷により5日目から途中休場
- ^ 外傷性坐骨神経痛・頸肩腕症候群・肝臓炎により10日目から途中休場
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p40-43
- ^ (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:2 68歳 朝日新聞DIGITAL 2016年11月1日16時30分
- ^ a b c d 元横綱三重ノ海の「相撲と故郷」…入門15歳、たんこぶで新弟子検査クリア(2/2ページ) 讀賣新聞オンライン 2023/02/12 17:00 (2023年2月13日閲覧)
- ^ a b c (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:4 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月4日16時30分
- ^ a b c d (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:5 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月7日16時30分
- ^ a b c d e 大相撲:「いい道を選んだ」…定年の武蔵川親方が会見 毎日新聞 2013年01月22日 20時20分
- ^ a b c d e (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:6 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月8日16時30分
- ^ a b c おかみさんも伴走続けて半世紀「ボーッとする時間もなかった」…元横綱三重ノ海の「相撲と故郷」 讀賣新聞 2024/04/17 09:29 (2024年4月17日閲覧)
- ^ a b c d 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p22
- ^ a b (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:7 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月9日16時30分
- ^ 『相撲』2018年3月号 p.87
- ^ a b c (人生の贈りもの)わたしの半生 相撲博物館館長・57代横綱三重ノ海、石山五郎:8 68歳 朝日新聞 DIGITAL 2016年11月10日16時30分
- ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p64
- ^ 『大相撲中継』2017年11月18日号 p.83
- ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p78
- ^ 佐藤祥子 57頁
- ^ 佐藤祥子 61頁
- ^ 元横綱白鵬は猛省して出直しを(浅香山博之) 日本経済新聞 2024年3月3日 5:00 (2024年3月3日閲覧)
- ^ a b c 大空出版『相撲ファン』vol.06 p120-125
- ^ 【25周年!三重ノ海親方が還暦土俵入り!】大相撲 武蔵川部屋の日々 2007年6月17日
- ^ 佐藤祥子 57-58頁
- ^ 武蔵川親方 大鵬との一番「少しでも長く体に触っていたかった」 Sponichi Annex 2013年1月19日 16:49
- ^ 武蔵川親方に相撲博物館長を委嘱 6代目館長に 日本経済新聞 2013/1/31 19:37
- ^ 元横綱三重ノ海、ライバル追悼 北の湖との時間 日刊スポーツ 2016年1月22日6時48分 紙面から
- ^ 「大関陥落→綱取り」照ノ富士に元横綱三重ノ海も注目「今後出ない」 日刊スポーツ 2021年7月10日4時59分(2021年7月12日閲覧)
- ^ 「すごい精神力」元三重ノ海驚き 横綱照ノ富士きょう誕生 | 全国のニュース 福井新聞 2021年7月21日 紙面から
- ^ 元横綱三重ノ海の石山氏が出羽海部屋の後輩御嶽海へエール「横綱になって」 日刊スポーツ 2022年1月24日9時47分(2022年1月24日閲覧)
- ^ 元横綱三重ノ海の石山五郎さん、相撲博物館館長を来月退任…「75歳で大相撲から卒業」 讀賣新聞オンライン 2023/01/15 05:00 (2023年1月21日閲覧)
- ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p38
- ^ TBS『アッコにおまかせ!』2008年9月14日放送分より
- ^ 非力を巧みな前捌きと闘志で補った三重ノ海 All About 2012年12月31日
- ^ 『相撲』2012年5月号67頁
- ^ 【私の“奇跡の一枚” 連載85】 半世紀前こんなライバルたちが 火花を散らしていた! BBM Sports 2020-09-15 (2020年10月21日閲覧)
- ^ a b 佐藤祥子 66-67頁
- ^ 1横綱3大関を育てた「武蔵川親方」の32年、二子山勢への対抗心に燃えて…元横綱三重ノ海の「相撲と故郷」 讀賣新聞オンライン 2023/11/14 09:48 (2024年3月27日閲覧)
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