一龍戦争 竹下派の結成

一龍戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/24 22:18 UTC 版)

竹下派の結成

1985年2月7日、竹下登田中派の派内勉強会「創政会」を立ち上げる[1]。竹下らの造反に憤った田中角栄は過度の飲酒がたたり、同年2月27日に脳梗塞で倒れる。言語能力を失った田中は娘眞紀子の支配下に置かれ、眞紀子は竹下系議員を門前払いにした。後に田中家は小沢だけ門前払いを解いたのに対し、橋本は最後まで許さなかった[1]

1988年リクルート事件の発覚で翌年に竹下首相が退陣。後継首相に宇野宗佑外相が決定すると、宇野の下で橋本を幹事長に就任させ参院選を乗り切ろうとしたが、選挙結果は惨敗。開票時に橋本が「チクショー」と呟くシーンが話題となった。しかし不人気の宇野に代わり全国を遊説して回った橋本の人気は高く、ポスト宇野と囁かれたが、橋本の女性スキャンダルなどの理由で竹下派内に反対論が噴出し橋本擁立は流れる。

結局、後継首相には河本派海部俊樹が決まり、小沢は七奉行最年少ながら竹下派会長の金丸信の強い後押しで幹事長に大抜擢、橋本は大蔵大臣に就任した。この頃から「一龍戦争」が取り沙汰されるようになる。派内では橋本は竹下に、小沢は金丸に近かったことから、竹下、金丸の代理戦争という側面もあった。

竹下派支配から経世会の分裂

1991年東京都知事選挙で党本部の公認候補(公明党民社党相乗り)が党都連の推す現職鈴木俊一知事に敗れ小沢は幹事長を辞任し、竹下派ナンバーツーの会長代行に就任。また橋本も証券、金融不祥事と富士銀行の不正融資事件に元秘書が関わっていた責任を取って大蔵大臣を引責辞任した。

同年10月には海部首相が退陣表明。後継首相を決める総裁選では渡邉美智雄三塚博宮澤喜一の3派閥領袖を竹下派事務所に呼びつけ、小沢による口頭試問を行い、竹下派は宮澤推薦を決定。宮澤首相を誕生させる。

1992年6月、PKO関連法案国会通過の後に東京佐川急便事件が発覚。竹下派会長だった金丸副総裁は10月21日に議員辞職に追い込まれ[2][3]、竹下派会長の跡目を巡って橋本と小沢の抗争が激化する。橋本は、同期の小渕恵三元幹事長を、小沢はこれまた同期の羽田孜蔵相をそれぞれ領袖候補に推して争ったが、後継は小渕に決まった。小沢は羽田ら44人を率いて経世会から脱会し改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂する。その後、内閣改造で宮澤首相は小渕派厚遇、羽田派冷遇の人事を行い、翌年の不信任造反に繋がる。

自民党政権の崩壊・連立時代へ

1993年6月宮澤内閣不信任決議案が提出される。当初は与党の反対多数、否決の公算であったが、小沢の羽田派が不信任案に同調し可決され、宮澤首相は衆議院解散を行う(詳細は嘘つき解散を参照)。羽田派は離党し新生党を結成、小沢は党代表幹事(幹事長)に就任。7月の衆院選で新生は躍進、自民は過半数割れ(公示前勢力は保ったものの、新党結党で離党者が相次いだため公示前から過半数割れ)となった。

宮澤首相が退陣表明し、後継総裁選で河野洋平官房長官が新総裁に選出されると、橋本が党政務調査会長に就任。この時に橋本政調会長が『下野の中で政調会長就任の何がめでたいものか』と発言。8月、非自民・非共産連立政権による細川内閣の発足で小沢代表幹事が連立与党の責任者となる。

1994年4月細川首相が辞任し、羽田外相が後継首相になる。連立与党内で小沢に対する不満が高まり日本社会党新党さきがけが連立与党から離脱、過半数割れの少数与党となる。そのまま羽田内閣が発足するも、同年6月に自民党の羽田内閣不信任決議案提出を前に内閣総辞職を表明する。

この時に橋本政調会長ら執行部が連立から離脱した日本社会党に水面下で接触し自社さ連立で合意、同月29日の首班指名選挙で自社さ3党が推す村山富市社会党委員長が、自民党を離党した海部元首相を破り首班指名を受ける。村山内閣の発足で橋本政調会長が通産大臣に就任。12月新進党結成で小沢前新生党代表幹事が海部党首の下で党常任幹事会幹事長に就任。








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