ロシア文学 ロシア文学の概要

ロシア文学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 23:31 UTC 版)

いわゆるロシア文学が生まれたのは比較的遅く17世紀になってからであり、戯曲から始まったが、間もなく非常に豊かな小説の伝統が生まれた。

続く19世紀にはアレクサンドル・プーシキンフョードル・ドストエフスキーニコライ・ゴーゴリレフ・トルストイイワン・ツルゲーネフといった偉大な小説家たちが現れ、世紀の終わりには劇作家アントン・チェーホフも登場した。

20世紀に入ると、象徴主義未来派の詩が、強力な理論活動と共に新しい文学の飛躍をもたらしたが、すぐにソ連の迫害に直面することになった。それでも20世紀にはセルゲイ・エセーニンウラジーミル・マヤコフスキーなどのような詩人や、マクシム・ゴーリキーボリス・パステルナークミハイル・ショーロホフミハイル・ブルガーコフなどの小説家が輩出した。ヴァシリー・グロスマンヴァルラーム・シャラーモフアレクサンドル・ソルジェニーツィンらのソ連の全体主義体制を告発する作家たちは特に強くスターリンによる抑圧を被った。

ソ連の崩壊と共産主義体制の消滅により、1990年代には新しいロシア文学が徐々に生まれつつある。

起源

ノヴゴロド写本英語版

西欧諸国とは異なり、ロシアには11世紀以前にはいかなる文書も存在していない[1]――ノヴゴロド写本英語版が最も古い文学的文書であると思われる。タタールのくびきのため、ロシアには騎士道が見られなかった。「ロシアでは人文主義宗教改革ルネサンスのいかなる痕跡も見出すことができない[2]。」17世紀以前のロシアには通俗的な物語を除くと宗教的でないいかなるテクストも存在せず、18世紀にモスクワ大学が設立されるまでは大学も存在しなかった。

東西教会の分裂以降の西欧諸国における神学上および思想上の対立は、ロシアにおいてはローマドイツからの影響の拒絶という形で現れる。トルコによる1453年コンスタンティノープルの陥落以降、モスクワはビュザンティオンの遺産を手にしており、ロシアはより好んでビュザンティオンを拠り所とした。モスクワは第3のローマを自認し、双頭の鷲をシンボルとした。

「文学」という語

ステパン・チェヴィリオフ[3] (1806-1864)によれば、「文学」を意味するLiteratura (Литература)という語は18世紀の借用語である。Slovenost (Словесность)が古来からある語で、「言葉の芸術」を意味する[4]。書かれた芸術と、それから特に、口述による芸術である。Литератураが筆記によるもの、Словесностьが言葉によるものを指す。

古代ロシア文学

イーゴリ遠征物語
アレクサンドル・ネフスキー

古代ロシア文学は、古東スラブ語古代教会スラヴ語とは異なる)で書かれた少数の作品から構成されている。イーゴリ遠征物語囚人ダニールの請願などの作者不詳の作品がこれに含まれる。いわゆる「聖人伝」(жития святых, zhitiya svyatikh)は古代ロシア文学において一般的なジャンルであった。アレクサンドル・ネフスキー(Житие Александра Невского, or Zhitiye Aleksandra Nevskogo)はその著名な例である。その他に注目すべき作品としては、『ザドンシチナ英語版ロシア語版』、『生理学者 (ロシア文学)英語版』、『キエフ概要英語版』、『3つの海のかなたへの旅英語版ロシア語版』などがある。口承による叙事詩であるブィリーナでは異教とキリスト教(特に正教)の諸伝統が混淆しており、ビュザンティオン文学英語版からの影響を感じさせる。中世ロシアにおける文学は、そのほとんどがキリスト教に根ざした人物の物語であり、南スラブの伝統がちりばめられつつも古代教会スラブ語が用いられる事が多い。口語を用いた初めての作品は、17世紀中頃に執筆されたアヴァクーム自伝である。

ジョチ・ウルスによる長きに亘るタタールのくびきの後、最初の「全ロシアのツァー」イヴァン4世(1530-1584)の治世下でモスクワ大公国を中心としてロシアの領域は統一された。イヴァンの死に際し、正統の後継者は存在しなかった。最終的に、権力はボリス・ゴドゥノフの手に落ちた。その短い治世は動乱時代(смутное время)の幕開けとなり、この時期にはクレムリでは大貴族らが次々と跡を継いだ。この政治混乱は前代未聞の飢饉と恐慌を伴ったが、文化的な観点から見れば、この混沌とした時代は豊かなものであった。ポーランド・リトアニア共和国からの刺激の下、ロシアは外部世界へと開かれた。

1613年のツァーリ選挙によりミハイル・ロマノフが選出され、長期支配となるロマノフ朝が創始され、1615には政治的不安定は終息した[注釈 1]。17世紀末には、ミハイルの息子「最も平和な(Тишайший)」アレクセイがその跡を継いだ。数多くの改革と、正教古儀式派(「ラスコーリニキ」及びその訳語である「分離派」は蔑称)の出現がその治世の特徴となっている。2番目の妻ナタリヤ・ナルイシキナ(ピョートル1世の母)はヨーロッパの状況に強い関心があり、夫アレクセイに大きな影響を及ぼした。中でも特に西洋の演劇をロシアに導入し、常設劇団を設置した。

18世紀

ロシアの近代化

ピョートル1世

ピョートル1世の治世下 (1682-1725) で、ロシアの文化は世俗化が進み、18世紀初頭には徐々にロシア文学・絵画・音楽が形成されてくる。17世紀末には兆候が現れ始めていたが、大きな変化は18世紀初頭、1703年のサンクトペテルブルクの建設と共に具体化する。

クンストカメラ

住人のほとんどが文盲という国にあって、ピョートルはロシア初の無料の新聞「ヴェドモスチ」 (「ニュース」の意)を創設した。ラテン文字アルファベットの影響を受け、ロシア語アルファベットの改革によりキリル文字が単純化された[注釈 2]。また、多数の学校や教育機関が創設された。海事アカデミー、工科学校、モスクワ医学校、ロシア科学アカデミーに加え、ロシア初の博物館であるクンストカメラ冬宮殿の近くに創設された。

しかしながら、ピョートルは文学と芸術には深い関心は持たなかった。アカデミーや行政一般の改革に見られるように、ピョートルは結局のところ実務的な人物であった。同様に、キリル文字で印刷された最初期の書物も、軍事技術や手紙の書き方といった実用的な案内書であった。

文学ジャンル

ピョートルの治世下では、検閲がゆるめられた。これは本質的な変化であった。かつては極めて厳しく抑圧されていた「恋愛もの」が事実上「許可」されたのである。これらの歌は様式的な体系やイメージといった口承の伝統と、ヨーロッパ抒情詩の新しい詩法とを取り入れていた。

物語文学もまた許可された。冒険物語が出現したが、これは騎士道物語の模倣でしかなかった。物語は大概の場合、外国の小説のロシアの文脈への翻案であった。大衆的な「おはなし」の特徴も見出される。

こうした作品における主人公は、積極的・勇敢・大胆であり、西洋に惹き付けられているロシアの貴人であることが一般的であった――選良にとっての、新しい人間の理想像である。『ロシアの水兵ヴァシリ・カリオツキーとフィレンツェの美しい王女イラクリアの物語』がその一例である。冒険は外国で行われ、無数の奇跡が起きる(フィレンツェの王となり、王女と結婚するなど)。水兵が主人公として選ばれていることには一定の現代性が認められる(ロシアが海軍を持つようになったのはごく最近のことであった)。

とはいえ、18世紀は全体を通じて詩が支配的であった。アンティオコス・カンテミールロシア語版ヴァシリー・トレジャコフスキーロシア語版)、ミハイル・ロモノーソフらが18世紀初頭のロシア文学の第一波を形成した。詩ではガヴリーラ・デルジャーヴィン、散文ではニコライ・カラムジンアレクサンドル・ラジーシチェフ、演劇ではアレクサンドル・スマロコフロシア語版デニス・フォンヴィージンらがまだロシアには存在していなかった文学ジャンルをそれぞれ開拓した。

文学的言語への洗練

ミハイル・ロモノーソフ

18世紀には、文学的な言語として古典的なロシア語(古代教会スラヴ語)と通俗的なロシア語のどちらを用いるかで激しい論争があった時期である。1743年、モスクワ大学の創始者であるミハイル・ロモノーソフ修辞学論を著し、古代教会スラヴ語の問題を提起した。1745年には詩人ヴァシリー・トレジャコフスキーロシア語版が、通俗語と古代教会スラヴ語を折衷して文学的言語を創造することを考察している。

ロモノーソフが1755年に『ロシア文法』の初版でこの解決を採用した。これはロシア語の最初の標準化であった。また、ロシア語文語は外国から数多くの専門用語を借用している――海事用語をオランダ語から、軍事用語をドイツ語から、概念的な用語をフランス語から。

ロシア小説の誕生

思考を促すような西洋の小説が続々とロシア語に翻訳されるようになった。アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ(ロシア初の文学論争のきっかけとなった)、マドレーヌ・ド・スキュデリフランス語版ポール・スカロン、ル・サージュ (fr:Alain-René_Lesage) などである。

論争は大きく広がり、相異なる立場が出現した――

保守的な立場が論争の初期では優勢であった。詩人スマルコフは「小説を読むのは無用にして残念な時間の損失である」としている[要出典]ミハイル・ヘラースコフもまた「小説を読むことから利益を引き出せることはない」としている[要出典]

アベ・プレヴォなどの翻訳者であったポロチンは、ヨーロッパにおける小説は社会的な役割を担っていると反駁した。翻訳小説の成功の拡大に伴いロシア小説が出現し、大きな成功を収めることになる。

フェードル・エミンロシア語版(1735-1770)は、他国出身ではあったが、ロシア語で創作した最初の小説家であった。エミンの小説は、ありふれた典型的な筋書をロシア化して組み合わせたもので、文体も凡庸なものを用いていたが、それでも生まれたばかりのロシアの大衆の期待に応え、大きな成功を収めた。『移ろう運命』(1763)に代表されるこれらの小説においては、ある種の幻想と現実の混淆、困難な恋愛、冒険譚の月並な主題といったものと並んで、当時の風習のリアルな描写も見出される。これらの小説が直接ロシア語で書かれたということが、その成功の理由の1つであった。作者はこれらの冒険の一部は自身に起きたことであるとも表明しており、これも読者を熱中させた。

作家ミハイル・チュルコフロシア語版(1743?-1793)の活動にはある種のパラドックスが反映している――チュルコフはむしろ保守的な立場であり、小説を書くことは無意味な営みであると考えていたが、エミンの用いる言葉が平俗なものであるという事実に興味を持ち、彼自身もモスクワの同時代の言葉で書いてみようとした。このことは、同時代のロシアの現実に適合した書き言葉を作り上げる必要性を明らかにした。


注釈

  1. ^ ロマノフ朝は1917年、ニコライ2世まで続く
  2. ^ 今日用いられているキリル文字ウラジーミル・レーニンによる1917年の2度目の改革によるものである。
  3. ^ 19世紀全般を指す場合と1800年から1840年頃(プーシキン、レールモントフの時代まで)を指す場合があるので注意。
  4. ^ 「ロシアの悲劇四部作」とは、農奴解放英語版期を描いた『アレクサンドル2世暗殺』、日露戦争期を描いた『真説ラスプーチン』、ロシア革命期を描いた『皇帝ニコライ処刑』、スターリン時代を描いた『赤いツァーリ』、以上の歴史小説四部作を指す。

出典

  1. ^ Efim Etkind, Georges Nivat, Ilya Serman, Vittorio Strada, Histoire de la littérature russe. Des origines aux Lumières, p. 11.
  2. ^ Efim Etkind, Georges Nivat, Ilya Serman, Vittorio Strada,Histoire de la littérature russe. Des origines aux Lumières, p. 12.
  3. ^ Porte-parole slavophile, auteur d'une Histoire de la littérature russe, essentiellement ancienne (1846-1860) très répandue à l'époque, cité par Efim Etkind, Georges Nivat, Ilya Serman, Vittorio Strada, Histoire de la littérature russe. Des origines aux Lumières, p. 703.
  4. ^ Efim Etkind, Georges Nivat, IlyaSerman, Vittorio Strada, Histoire de la littérature russe. Des origines aux Lumières, p. 11.
  5. ^ Traduction de Heni Bloch et Alzir Hella, Grasset. 1949, 309 p
  6. ^ Maisonneuve et Larose, 2001, 350 p. ISBN 2-7068-1491-8






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