トゥールーズ 歴史

トゥールーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/20 06:13 UTC 版)

歴史

先史

サン=レーモン博物館に展示されている紀元前2世紀のアンフォラ。ヴィエイユ・トゥールーズの墓跡で発掘されたもの

トゥールーズ近郊は旧石器時代以後に人が定住したとされるが、唯一の証拠はヴィルヌーヴ=トロザンヌで発掘された新石器時代の定住地跡である。その他の定住地跡は、紀元前8世紀から紀元前7世紀のものとみられるサン=ロック地区のネクロポリスで、2002年に発掘された[9]

ローマがやってくる前の紀元前3世紀半ば、西ラングドックはガリア系の民族連合によって征服された。ケルト系で小アジアを征服したとされるVolques Tectosages(fr:Volques Tectosages)が、トゥールーズ近郊を占領していた。紀元前2世紀にまとまった人口密集地を抱えていたトロザは、Volques Tectosagesの首都となった。この占領の証拠は、現在の市南部で発掘されたが、ヴィエイユ・トゥールーズにあるペック・ダヴィドの突端の上でも見つかった。トロザ住民は、スペイン、イタリア、その他ガリアの地と、ワイン、コムギ、金属加工品の貿易で商業関係を維持していた。数多くのアンフォラが発掘され、交易の活発さを物語っている[10]

ガリアとローマの都市

ウルバヌス2世のトゥールーズ入城、バンジャマン・コンスタン

最初はローマと同盟関係にあったVolques Tectosagesであるが、紀元前107年にローマに打ち負かされ、以後トロザはローマ都市となった。原史の都市はガリア・ナルボネンシスの重要な行政・軍事都市であった。アウグストゥス帝時代の1世紀末、新たな都市が、現在のトゥールーズ歴史地区につくられた。その他の大都市のように、ガリアのローマ人は多くの建物と同様水道橋を架けた[11](その多くは後に破壊された)。劇場、アンフィテアトルム、大浴場や神殿が14,000箇所あった[12]。紀元30年以降、ローマ人はトロザの周囲を巨大なレンガ製の壁で取り巻いた。壁の一部は今も建っている。

250年、トゥールーズの名が聖トゥールーズのサトゥルニヌスの刑死によって歴史に記された。サン=セルナン大聖堂は彼に献堂されている。この殉教説話は、ローマ帝国全土で新しい信仰が出現したことを意味していた[13]。3世紀から4世紀、市は拡張されて栄えた。最初のサン=セルナン大聖堂が、地域でのキリスト教拡大と共に403年に建てられた[14]。レンガが建設資材として広範囲に使われた。413年、西ゴート族がトロザに侵攻し、この都市を自分たちの王国の首都に選んだ。違った文化と信仰を持つガリア・ローマ人(カトリック)と西ゴート人(アリウス派)は、508年まで双方とも混じり合うことなく続いた。507年のヴイエの戦いで西ゴートを敗退させたクローヴィス1世が、翌508年にトロザを征服したのである。

封建時代から革命まで

ニュルンベルク年代記に描かれた15世紀のトゥールーズ

フランク王国は、地中海とフランク王国との間を分断するトゥールーズにその影響力を失いつつあった。トゥールーズは特に、東境を接するセプティマニア、南境を接し西ゴート族に従属するスペインの、強力な隣国であった[15]。629年にトゥールーズは独立状態となり、7世紀から8世紀には暫定的にトゥールーズ王国となり、ピレネー山脈からロワール川まで、ロデーズから海までその国境が拡張した[16]。721年、トゥールーズはアラブ軍に包囲され、同年6月9日のトゥールーズの戦いでついに敗北した。この敗北が、トゥールーズ領の北進を中止させた[17]。中世になっても、市は長期間の独立状態を謳歌した。代々のトゥールーズ伯たちは、フランス南部に自分たちの領土を拡大させていった。トゥールーズ伯の存在の証拠として、伯爵の居城の基礎跡が、中世都市から裁判所のあった場所へと至る南門近くの場所を占めていたことが最近わかった。トゥールーズのキリスト教徒は、都市に数多くの教会を建てた。1096年、ローマ教皇ウルバヌス2世がトゥールーズを訪れ、サン=セルナン大聖堂の献堂を行った。サン=テチエンヌ大聖堂は13世紀に建てられた[18]

1152年、都市の共同議会と、城壁外の町がトゥールーズ伯によって設置された。共同議会はキャピトゥラ(capitoulat)と呼ばれ、市内の6つの地区から選出された12人の構成員(fr:Capitoul)からなっていた。これは司法が最初に市民に確保された出来事だった。当時、彼らは伯爵から命令を受け、税の識別を行い、市民軍を育成し、都市の秩序と司法を確保する間に、自ら権力を得たのである。1190年、北門に近い城壁の反対側に、市民は市役所建物を獲得した。これが現在市の象徴となっているキャピトル邸(キャピトル・ド・トゥールーズ、fr)である。この時代に、市の特権が数多く認められた。1189年1月6日の反乱に伴い、伯爵は通貨を鋳造する力や、外部からの脅威があれば一部の軍隊を動かす権力をのみ維持した。

同時代、カタリ派が南フランスで盛んに信仰され、1209年にはアルビジョワ十字軍による征伐が起きた。オック語諸都市の勝利にもかかわらず、多くの変遷をへて、これをきっかけとしてトゥールーズ伯領は衰え、1229年4月12日のパリ条約の締結で凋落が始まった。1271年、最後のトゥールーズ伯ジャンヌの死により、トゥールーズ伯領はフランス王領へ併合され、フランス領ラングドックの一部となった。トゥールーズ大学は同時代に創設されている。

1631年頃に描かれたトゥールーズ市街図

14世紀、貿易の繁栄で、トゥールーズはフランス王国第4の都市となった[19]。しかし1348年、1361年、そして15世紀にもトゥールーズはペスト大流行で人口を減らした。百年戦争での努力をトゥールーズは確保しなければならず、略奪の被害にあわなければならなかった。城外に広がる居住地は破壊され、都市機能は城壁の内側に隠された。

15世紀終わりから16世紀にかけてのルネサンス期、着色料アイの産業が盛んとなり、市は非常に繁栄した。ベルニュイ邸やアッセザ邸といった特徴ある邸宅が建設されたのはこの時期である。1463年5月7日のトゥールーズ大火で3つの地区が壊滅、教会や修道院、自治体建物が数カ所焼け落ちたにもかかわらず、繁栄する都市は拡大した。1476年、トゥールーズは印刷術が伝わったフランス第4の都市となった。1560年、トゥールーズのプロテスタントとカトリックが血で血を洗う抗争を繰り広げた[20]

17世紀にカトリックの勝利が確定し、カトリックの修道院や教会が数多くトゥールーズへ移ってきた。親カトリック派は宰相リシュリューが権力を握る王政と敵対し、ラングドック総督であったモンモランシー公アンリ2世(コンデ公爵夫人シャルロットの実弟)が反乱を起こし、捕らえられて1632年にキャピトル広場で処刑された。都市の2つの象徴、ヌフ橋とミディ運河は、1632年と1682年にそれぞれ完成した。18世紀にキャピトル邸が再建された。1762年、ジャン・カラス事件(fr:Affaire Calas)が起きた。弁護士の弁護を受けられず不公平に裁かれた、1人のプロテスタントの息子殺しの事件は、ヴォルテールの有名な仲裁を喚起する事態となった。車裂きの刑の判決を受けたカラスは刑死し、3年後に彼の無実が証明された。

トゥールーズは大きな衝突を経験することなくフランス革命を迎えた。一部で城館での略奪があったほかは、それまで都市の命脈を保ってきた高等法院の権力が尊重された。若干の対立が生じたのは1790年から1791年にかけて州制と高等法院の廃止および教会の改革が宣言された際である。トゥールーズは州都の地位を奪われ、オート=ガロンヌ県の県都となった。ジャコバン派はトゥールーズを連邦主義者の反乱から遠ざけることに成功した(これはフランス西部・南東部の合流回避に決定的なものだった)。共和派は、1799年には同様に王党派の蜂起を失敗に追い込んでいる。

19世紀

1877年のトゥールーズ

1814年4月10日、トゥールーズの戦いにおいてウェリントン率いるスペイン=イギリス連合軍と、将軍スールト率いるフランス軍が衝突した。フランス軍はトゥールーズを包囲されても抵抗に成功するが、撤退を余儀なくされた。『バラ色の都市』は、フランス本土にて最後の対イギリス戦の戦闘が起きた最後の地となった[21]ナポレオン1世が退位してブルボン家の王政復古が成立した後、トゥールーズはルイ18世のもとに結集した。共和主義者とレジティミストがトゥールーズで多数を占め、ルイ・フィリップナポレオン3世の信棒者にとって難しい状況だった。アルマン・デュポルタルに代表される共和主義者が非常に活発であった。1848年、キャピトル邸のバルコニーでアンリ・ジョリが共和国成立を宣言した。1871年、パリ・コミューンは失敗に終わった。

1875年6月23日には、トゥールーズでの水位が過去最高を記録したことが知られる。通常なら300m3 である水量が3,000m3 に達し、ガロンヌ川の水位は9.47mに達し左岸の全体が氾濫した。アンパロ橋、サン=ピエール橋、サン=ミシェル橋が破壊された。ヌフ橋だけが無事だった。死者が208人、住宅1200軒以上が破壊され、市民25,000人が住む場所を失った[22]。6月26日、マクマオン将軍がトゥールーズを訪問した。光景を眼前にし、マクマオンは有名な言葉を発した。『何という水だ!』(Que d’eau, que d’eau !)[23]

急進主義が政権を獲得すると、ジャン・ジョレス執筆の新聞『ラ・デペッシュ・デュ・ミディ』(fr:La Dépêche du Midi)によって商人と共和主義派実業家が後押しされた。その結果、アルザス=ロレーヌ通り、メス通りのような幅の広いオスマン様式の通りが建設される大規模都市計画に結びついた。この頃から、スペイン移民の増加と、農民の都市流入で、市街が拡張していった。

20世紀

サン=ピエール橋とヌフ橋

第一次世界大戦後、トゥールーズはついに産業時代になり、火薬製造、航空産業、薬莢製造、これらが産業革命以後残った。しかし、大きな産業のないこの都市において、数が多く人口で労働人口が優勢を占めることは逆説的であった。さまざまな中小企業家(シャツ製造など)は、急進傾向の労働者集団(社会主義)や、農村定住者(伝統的に熱心なカトリックが多い)と対立した。1904年から1924年の間、急進主義は徐々に、アルベール・ベドゥース、ルネ・ビリエールが指導した地方社会主義(fr:Socialisme municipal)へと席を譲った。

アエロポスタル

1920年代、トゥールーズはピエール=ジョルジュ・ラテコエールの推進のもとで、航空産業のパイオニア都市となった。ラテコエールは、カサブランカダカールへの航空便の中継地の一つとしてトゥールーズを選んだのである。1927年にできたアエロポスタル社は、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリジャン・メルモーズら有名なパイロットがいた[24]。ラテコエールは鉄道の客車をつくるためにトゥールーズへやってきた。しかし戦争が勃発すると、政府により、モントードランの工業用地で飛行機を製造する仕事を課せられたのである。戦争が終わっても、ラテコエールの飛行機への情熱は残った。彼の客車製造の場所は、その後戦闘機の組み立てラインとなった。彼がアエロポスタル創設という挑戦を決めたのはこの瞬間だった。旧式の戦闘機とともに、ラテコエールはなぜか南アメリカではなく、トゥールーズからダカールへの郵便輸送をやりたいと思った。1920年から1933年まで、ドーラ、メルモーズ、サン=テグジュペリを含む120人以上のパイロットがモントードランの滑走路に向かった。アエロポスタルは、トゥールーズ=カサブランカ間、カサブランカ=ダカール間、トゥールーズ=リオデジャネイロレシフェ間といった新しい区間便を開拓した。メルモーズの南太平洋横断飛行の成功後、アエロポスタルはフランス=南アメリカ間便に参入した。アエロポスタルは南米諸都市、時にはアンデス山脈の上にまで、数多くの航空便を開拓した。『夜間飛行』のようなロマンあふれるサン=テグジュペリの執筆は、彼のさらなる名声を約束するものだった。

宇宙開発の最初の一歩は、かつての技師によって始まった。エミール・ドヴォワティーヌ(fr:Émile Dewoitine)は、1920年以降、フロントガラスのついた初の金属製飛行機を生み出した。その後、フランス政府はトゥールーズでの航空機製造を支援した。1939年にスペイン内戦フランシスコ・フランコ率いる反乱軍の勝利で終結すると、共和主義者が多数亡命した。

第二次世界大戦中、トゥールーズは戦闘にあうことはなかったが、レジスタンス運動が強力に展開した。ドラグーン作戦の直後の1944年8月19日、ドイツの占領軍はトゥールーズから退却した。

1960年代に入ると、大勢のアルジェリア帰国者がトゥールーズに移り住んだ。

戦後の経済成長

トゥールーズは国内でも安定したメトロポリスの1つに成長し、その一方で地方分権の時代に航空技術・宇宙開発産業を迎え入れた[25]。トゥールーズはたちまち地域圏の首府となった。人口増加は急速で、1954年には269,000人、1968年に380,000人、1999年に390,350人、2004年には426,700人に達した。この人口流入は、ミライユ、アンパロ・バガテルといった新地区の建設という都市計画の大きな企画を後押しした。

AZF工業団地

2001年9月21日に発生したAZF工業団地の爆発事故は、トゥールーズ市民に精神的後遺症を残した。この工場事故は戦後フランス最悪のもので、死者30人、負傷者10,000人を出し、主として庶民が多く暮らすミライユ地区・アンパロ地区の多くの建物や住宅が破壊された。事故の現場は調査者によって保存されている。2009年にAZF工業団地事故訴訟裁判が開かれた。跡地は更地にされ、汚染が取り除かれている。ガン研究を行うキャンセロポール(fr:Cancéropôle de Toulouse)建設計画が国と市の後押しで進められ、2006年9月より始まった。キャンセロポールはこの種のものとしてヨーロッパ最大となる予定である。


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  9. ^ Anne Le Stang, op. cit., p.9
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  11. ^ dont un très important : les-petites-toulousaines.com
  12. ^ Christian Cau, Petite Histoire de Toulouse, p10
  13. ^ Anne Le Stang, op. cit., p.20
  14. ^ Ib., p.28
  15. ^ Ib., p.36
  16. ^ Histoire de Toulouse, Ed Privat, 1974, p57
  17. ^ Suivirent plusieurs expéditions de pillage, dont la plus célèbre fut vaincue par Charles Martel lors de la bataille de Poitiers (732)
  18. ^ Ib., p.51
  19. ^ Ib., p.73
  20. ^ Ib., p.98
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  23. ^ Spécial météo à Toulouse, L'Express, n°2948, semaine du 3 au 9 janvier 2008, Les crues les plus dévastatrices, p.II
  24. ^ Anne Le Stang, op. cit., p.178
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