アルフレッド・ヒッチコック 評価と影響

アルフレッド・ヒッチコック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 14:13 UTC 版)

評価と影響

ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにあるヒッチコックの星。

ヒッチコックは、映画史の中で最も偉大な映画監督のひとりと見なされている[378]。アメリカの社会学者カミール・パーリアは、「私はヒッチコックをピカソストラヴィンスキージョイスプルーストと同等の位置におく」と述べている[378]。伝記作家のジョン・ラッセル・テイラーは、ヒッチコックを「世界で最も広く認識されている人物」と呼び[379]、映画批評家のロジャー・イーバートは「映画の世紀の前半でおそらく最も重要な人物である」と述べている[378]。ヒッチコックは名前で観客を動員できる数少ない監督であり、作品の多くは商業的に高い成功を収め、アメリカ時代の作品だけでも1億5000万ドル以上の興行収入(インフレ調整後)を記録した[359][380]

ヒッチコック作品のうち、『裏窓』『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』の4本は、アメリカン・フィルム・インスティチュートが選出した「アメリカ映画ベスト100」(1998年)と「アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)」(2007年)の両方にランクインされた[381][382]1992年に『サイト・アンド・サウンド英語版』が批評家の投票で選出した「トップ10映画監督」のリストでは4位にランクされた[383]2002年に同誌が発表した史上最高の監督のリストでは、批評家のトップ10の投票で2位[384]、監督のトップ10の投票で5位にランクされた[385]。同年には『MovieMaker』により「史上最も影響力のある映画監督」に選出され[386]2007年には『デイリー・テレグラフ』による批評家の投票で「イギリスで最も偉大な映画監督」に選ばれた[387]。そのほか、1996年に『エンターテインメント・ウィークリー』が選出した「50人の最高の監督」で1位[388]2000年に『キネマ旬報』が著名人の投票で選出した「20世紀の映画監督 外国編」で1位[389]2005年に『エンパイア』が発表した「史上最高の監督トップ40」で2位[388]2007年に『Total Film』が発表した「100人の偉大な映画監督」で1位にランクされた[390]

批評・研究史

映画デビューしてから長い間、ヒッチコックはイギリスやアメリカの英語圏である程度の商業的成功を収めていたにもかかわらず、大方の映画批評家からは器用なエンターテインメント作品を作る職人的な監督と見なされ、ストーリーテリングやテクニックは評価されても、それ以上の芸術性を持つ映画作家としては正当に評価されてこなかった[301][391][392]。とくに1930年代にかけてのイギリスでは、知識人たちが映画を芸術ではなく下層階級向けの娯楽と見なして軽蔑し、映画批評家たちもドイツやソ連の芸術映画を賞賛する一方で、ハリウッドなどの娯楽映画を軽視する傾向があったため、その状況下で娯楽映画を作り続けたヒッチコックはジョン・グリアソン英語版などの見識ある映画人や批評家から「独創性を欠いている」「うぬぼれている」などと批判された[298][391][392]。例えば、1936年にアーサー・ヴェッセロは、ヒッチコックのことを「すぐれた職人」と呼び、視覚的なテクニックを評価しながらも、「ヒッチコックの映画を全体として見た場合、知的な内容が乏しいためにまとまりがないと感じざるをえず、それゆえ失望がつきまとう」と述べた[391]。アメリカ時代に移ってからの約10年間も真剣な批評や研究の対象になることは少なく、英語圏の映画批評はアメリカ時代よりもイギリス時代の作品を好む風潮が支配的となり、1944年にジェームズ・エイジーはヒッチコックの「凋落」が批評家の間で囁かれているとさえ述べた[392]

作家主義批評を展開したフランソワ・トリュフォーは、ヒッチコックを映画作家として称賛した。

そんなヒッチコックの評価が大きく変化したのは、1951年に創刊されたフランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』(以下、カイエ誌と表記)の若手映画批評家であるエリック・ロメールクロード・シャブロルフランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダールなどが、ヒッチコックを擁護または顕揚する批評を書き始めてからのことである[392][393]。彼らは作家主義と呼ばれる批評方針を打ち出し、ヒッチコックを独自の演出スタイルや一貫した主題を持つ「映画作家(auteur)」として、同じく娯楽映画の職人監督と見なされていたハワード・ホークスとともに高く評価し、「ヒッチコック=ホークス主義」を自称して盛んにヒッチコック論を掲載した[393][394]。これをきっかけにフランスでは、カイエ誌の批評家を中心とするヒッチコック支持者とその批判者との間で、芸術家としてのヒッチコックの評価をめぐる大きな論争が起きた[196][393]

1954年にカイエ誌はヒッチコック特集号を組み、トリュフォーやシャブロル、アンドレ・バザンによるヒッチコックへの取材記事などを掲載した[392][393]。1957年にはロメールとシャブロルが共著で世界初のヒッチコック研究書『ヒッチコック』を刊行し[392]、これまでカイエ誌の批評家によって盛んに論じられていた、秘密と告白や堕罪と救済などのカトリック的なヒッチコック作品の主題を真っ向から分析した[393]。ロメールとシャブロルはこの本の掉尾で、ヒッチコックを「全映画史の中で最も偉大な、形式の発明者の一人である。おそらくムルナウエイゼンシュテインだけが、この点に関して彼との比較に耐える。(中略)ここでは、形式は内容を飾るのではない。形式が内容を創造するのだ。ヒッチコックのすべてがこの定式に集約される」と評した[395]。この本はヒッチコックが批評や研究の対象として本格的に取り上げられる大きなきっかけとなった[393]

カイエ誌の批評家がヒッチコックを称揚して以来、映画批評家の間ではヒッチコックの仕事を評価しようとする動きが広まった[196]。1960年代から英語圏でも、作家主義の影響を受けた映画批評家を中心に、映画作家としてのヒッチコックをめぐる批評が進展した。イギリスでは、1965年にロビン・ウッド英語版が同国で初のヒッチコック研究書『Hitchcock’s Films』を刊行した[392][393]。ウッドはヒッチコックをめぐる批評的議論が英語圏で普及するのに重要な貢献を果たしたが[392][393]、ゲイ・レズビアン映画批評の先駆者でもあるウッドは、その観点からのヒッチコック作品の分析でも先鞭をつけた[318]。アメリカでは、1962年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で行われたヒッチコックの回顧上映に合わせて刊行されたモノグラフの著者であるピーター・ボグダノヴィッチや、長年にわたりヒッチコックを支持したアンドリュー・サリスなどが、いち早くヒッチコックの作家性を高く評価した批評家として知られる[392][396]

こうしたヒッチコックの批評や研究の世界的な進展を後押ししたのが、1966年に英仏2か国語で同時刊行されたトリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー集成『Le Cinéma selon Alfred Hitchcock』(英語版は『Hitchcock/Truffaut』、邦訳は『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』のタイトルで1981年初版刊行)である[3][393]。この本はヒッチコックの63歳の誕生日にあたる1962年8月13日から8日間にわたり、ユニバーサル・ピクチャーズのスタジオで計50時間かけて行われたインタビューを書籍化したもので、当時までに作られたヒッチコックの作品の演出や技法などを1本ずつ詳細に検証している[301]。この本はヒッチコック研究におけるバイブルとなり、映画作家としてのヒッチコックの評価の確立に最大の貢献を果たしただけでなく、今日まで「映画の教科書」と見なされる名著として知られている[3][392]

以後、ヒッチコックをめぐる学問的議論や研究は活発になり、社会・政治批評、構造主義精神分析学フェミニズム映画史研究など、さまざまな立場から多様かつ緻密な研究が行われるようになった[392]フェミニスト映画理論の立場では、1975年にローラ・マルヴィがその先駆的論文『視覚的快楽と物語映画』でヒッチコック作品を議論の中心に取り上げ、それ以来ヒッチコック作品は理論の定式とその映画批評の実践において常に中心的な対象であり続けた[397]。精神分析学の立場では、1988年に哲学者のスラヴォイ・ジジェクジャック・ラカンの精神分析学を基盤にヒッチコック作品を分析した研究書を刊行した[393][398]。ヒッチコックの死後数十年が経過してからも、その作品は現代の学者や批評家の間で大きな関心を呼び、伝記作家のジーン・アデアは「今日でもヒッチコックは、おそらく映画史の中で最も研究された監督である」と述べている[399]。ヒッチコック作品をさまざまな視点から分析するエッセイや本は市場にたくさん出回っており[399]、マクギリガンも「ヒッチコックは他のどの映画監督よりも多くの本が書かれている」と述べている[381]

レガシー

ヒッチコックが住んでいたロンドンのクロムウェル・ロード153番地に設置されたブルー・プラーク

ヒッチコックは「サスペンスの巨匠」、日本では「スリラーの神様」などと呼ばれ[3]、それまで低級なジャンルと見なされていたサスペンス映画やスリラー映画のイメージを変え、芸術的な1つのジャンルとして認めさせた[359]。映画評論家の山田宏一は、「ヒッチコックはサスペンスとかスリラーとか呼ばれるジャンルの基本となる映画的プロットや映画的手法をほとんど案出し、完成させた」と述べている[3]。とくに『サイコ』はスラッシャー映画のジャンルを創出し[400]、『鳥』はディザスター映画のジャンルにおける1つのパターンを作った[401]。アデアは「アルフレッド・ヒッチコックは、20世紀のほとんどの間で世界映画の巨人だった。彼の遺産は21世紀にも重要な痕跡を残し続けている」と述べている[402]

ヒッチコックの作品は世界の多くの映画人に影響を与え、映画評論家の須賀隆は「作り手が意識しなくてもヒッチコックの影響の痕跡が認められる」と述べている[301][403]。ヒッチコックのサスペンス映画の演出スタイルやプロットを模倣した作品も多く作られ、このジャンルで注目作が出ると「ヒッチコック的」「ヒッチコック風」という表現で紹介されることもある[3][301][404]。こうしたヒッチコックかぶれともいえるような作品や監督は「ヒッチコッキアン」と呼ばれる[404]。ヒッチコック作品を真似した主な作品には『シャレード』(1963年、スタンリー・ドーネン監督)、『暗くなるまで待って』(1967年、テレンス・ヤング監督)、『ハンキー・パンキー英語版』(1982年、シドニー・ポワチエ監督)などが挙げられる[403][404]。また、1977年メル・ブルックスは、ヒッチコックの題材や設定などを片っ端からパロディ化したコメディ映画『メル・ブルックス/新サイコ』を製作した[405]

カイエ誌の批評家からヌーヴェルヴァーグの監督となったトリュフォーやシャブロルの作品にも、ヒッチコックの影響が見られる。トリュフォーは『黒衣の花嫁』(1968年)や『暗くなるまでこの恋を』(1969年)などでヒッチコックを意識したサスペンス映画を手がけ[403]、シャブロルは『二重の鍵』(1959年)、『女鹿』(1968年)、『肉屋フランス語版』(1969年)などのサスペンス映画でヒッチコック的な主題と演出を繰り返した[393]。1970年代以後のハリウッドの映画監督たちも、ヒッチコックを主なインスピレーションの源の1つとして引用または言及している。ブライアン・デ・パルマはキャリア初期の作品『悪魔のシスター』(1972年)、『愛のメモリー』(1976年)、『殺しのドレス』(1980年)などでヒッチコックの影響を受けており、ヒッチコックを「映画文法のパイオニア」と呼んだ[406]スティーヴン・スピルバーグは『ジョーズ』(1975年)などでヒッチコック作品の手法を引用した[403]。ほかにもマーティン・スコセッシ[406]ジョン・カーペンター[407]ポール・バーホーベン[403]デヴィッド・フィンチャー [408]などがヒッチコックの影響を受けている。

1985年、ヒッチコックはイギリス初の映画人の郵便切手の肖像に選ばれた[409]。1998年8月3日にはアメリカ合衆国郵便公社が限定版の郵便切手シリーズ「Legends of Hollywood」の1つとして、ヒッチコックの肖像を印刷した32セント切手を発行した[410]1999年にはヒッチコックの生誕100周年を記念して、ニューヨーク近代美術館で展覧会と現存するすべての映画の上映が行われた[378][402]2012年、ヒッチコックはアーティストのピーター・ブレイク英語版がデザインした『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の新しいバージョンのジャケットに、他のイギリスの文化的アイコンとともに登場した[411]。ロンドンにはヒッチコックを記念する3つのブルー・プラークが設置されており[412]マダム・タッソー館の3つの分館にはヒッチコックの蝋人形が展示されている[413]

ヒッチコックのすべての作品は世界中で著作権保護されており(アメリカ時代の一部作品はパブリックドメインである)、アメリカ時代の作品を中心に正規版のホームビデオは広く販売されている。しかし、イギリス時代の作品は著作権保護されているにもかかわらず、パブリックドメインであるという誤解が広まり、日本を含む多くの国で海賊版のホームビデオが出回っている[414]。ヒッチコックの作品は今日までテレビでも頻繁に放送されており、アメリカのAMCターナー・クラシック・ムービーズなどのチャンネルのプログラムの基礎となっている[402]2012年には英国映画協会が現存する9本のヒッチコックのサイレント映画をデジタル修復し、翌2013年に「The Hitchcock 9」と題してブルックリン音楽アカデミー英語版で初上映され、2017年には日本でも上映された[415][416]


  1. ^ 1973年にヒッチコックはテレビ司会者のトム・スナイダー英語版に「法律に関係することは何でも怖い」と言い、警察に駐車違反切符を切られるのを怖れて車を運転することさえもしなかったと述べている[16]
  2. ^ 学校の登録簿には、ヒッチコックの生年が1899年ではなく1900年と記載されているが、伝記作家のドナルド・スポトー英語版によると、ヒッチコックの学校教育が1年遅れていたことから、両親がわざと10歳と偽って入学させたという[21]
  3. ^ ヒッチコックが広告部門に転属した時期について、マクギリガンは1917年の終わりから1918年の初めにかけて[34]ピーター・アクロイド英語版は1919年と主張している[33]
  4. ^ この作品以外にヒッチコックが寄稿した短編小説は、『The Woman'sPart』(1919年9月)、『Sordid』(1920年2月)、『And There Was No Rainbow』(1920年9月)、『What's Who?』(1920年12月)、『The History of Pea Eating』(1920年12月)、『Fedora』(1921年3月)の6本である[34]
  5. ^ サイレント映画には、物語の台詞や説明などを書いたインタータイトル(中間字幕)が挿入されていたが、字幕カードの1枚1枚には必ず小さなイラストが描き込まれていた。こうしたデザインを手がけたのが字幕デザイナーである[9][38]
  6. ^ スポトーによると、配給業者は前歴のない新人を登用することに抵抗があったため、ヒッチコックを監督に抜擢するのは容易ではなかったが、そこでバルコンはヒッチコックをミュンヘンに派遣して1、2本映画を撮らせてみて、その結果が良ければゲインズボロ・ピクチャーズの有望新人として監督に加えようとしたという[48]
  7. ^ ヒッチコックは『ダウンヒル』を作る前に、1926年のイギリスでのゼネラル・ストライキを題材にした作品を構想したが、当時の社会的危機を描くことを望まなかった全英映画検閲機構によって却下された[60]
  8. ^ 『殺人!』のドイツ語版は、ドイツ人俳優を起用して撮影され、1931年に『メアリー英語版』の題名で公開された[75][77]
  9. ^ 結果的に、ヒッチコックは20世紀フォックスで1本しか作品を撮っていない。2本目に予定されていたA・J・クローニン原作の『王国の鍵英語版』はスケジュールの都合で実現しなかった[143]
  10. ^ この会社は、『パラダイン夫人の恋』撮影前の1946年4月10日に設立が発表されていた[167]。社名のトランスアトランティック(大西洋を横断するという意味)は、アメリカとイギリスで交互に映画を作るという意図から名付けられた[165][167]
  11. ^ 『泥棒成金』を除く4本のパラマウント時代の作品の所有権は、各作品の公開から8年後にヒッチコックに譲渡された。しかし、ヒッチコックはそれらの作品を再公開して利益を得ることはせず、それどころか公開自体を許さなかった。そのため1983年にユニバーサル・ピクチャーズが権利を買い取るまで、この4本の作品が一般に上映されることはほとんどなかった[190]
  12. ^ AHMMの日本語版は、1958年から宝石社が発行する雑誌『宝石』に「ヒッチコックミステリの頁」のタイトルで連載され、1959年8月号から1963年7月号まで同社から『ヒッチコック・マガジン』という名前で全50号が発行された[212]
  13. ^ ヒッチコックは1962年に大英帝国勲章に選ばれていたが、イギリス文化への貢献を正当化することができないという理由で受勲を辞退していた[281]。ヒッチコックにこの栄誉を授けるよう働きかけたのは作家で批評家のアレクサンダー・ウォーカー英語版で、1979年にその旨を書いた手紙を首相のマーガレット・サッチャーに送った[279]
  14. ^ ヒッチコックはこうしたサスペンスを高める演出を良しとしたため、犯人探しや謎解きをして結末に事実が分かるという筋立てのミステリーを、映画的ではないという理由で好まず、『殺人!』『舞台恐怖症』を除いてそのような作品を撮らないようにした[299][300]。ヒッチコックはミステリーを「ジグソーパズルとかクロスワードパズルみたいなもん」だとし、「殺人事件が起こって、あとは、犯人がだれかという答が出るまでじっと静かに待つだけだからね。エモーションがまったくない」と述べている[300]
  15. ^ このあとに少年は爆発に巻き込まれて死亡するが、ヒッチコックによると、それまでのサスペンスが展開される間に、観客は少年に強い共感や同情を覚えてしまっていたため、少年を殺してしまうのは冷酷だとして観客の怒りを買ってしまい、サスペンスを高める方法として失敗してしまったという[304]
  16. ^ 例えば、『間諜最後の日』ではスイスのチョコレート工場、『逃走迷路』では自由の女神、『泥棒成金』では南仏のコート・ダジュール、『北北西に進路を取れ』では国際連合本部ビルラシュモア山を舞台にしている[313]
  17. ^ 映画評論家の吉田広明も、原罪のモチーフから「間違えられた男」の主人公を考えた時、彼に着せられた無実の罪について「本当にそれはいわれなき罪なのか。自覚していないだけで、彼はあるいはその罪を犯しているのかもしれない。少なくとも、その欲望に憑かれたことはあるはずだ。欲望=罪は誰の心にも存在する。たまたま犯罪者に置いて発現しただけであり、彼の下に発現してもおかしくはなかったのだ」と述べている[8]
  18. ^ その例は、『間諜最後の日』のロバート・マーヴィン(ロバート・ヤング英語版)、『汚名』のアレクサンダー・セバスチャン(クロード・レインズ)、『見知らぬ乗客』のブルーノ(ロバート・ウォーカー)、『北北西に進路を取れ』のフィリップ・ヴァンダム(ジェームズ・メイソン)などに見られる[323]
  19. ^ 『スミス夫妻』の撮影初日、この発言の噂を耳にしたキャロル・ロンバードは、スタジオに家畜小屋を作らせ、そこに主演の3人の俳優(ロンバード、ロバート・モンゴメリージーン・レイモンド英語版)の名前が記された名札をぶらさげた3頭の牛を連れて来て、ヒッチコックを驚かせたというエピソードがある[129]






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