SBM誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/19 09:11 UTC 版)
2008年、ホークスは篠原貴行、三瀬幸司など往年の中継ぎ投手が衰えを隠せずにリリーフ陣が崩壊、12年ぶりの最下位に終わった。オフに王貞治監督が勇退し、秋山幸二新監督の元、前年崩壊した中継ぎ陣の整備が急務となった。特にリーグを代表する守護神、馬原へ繋ぐセットアッパーの確立が求められた。 故障から回復した左腕の神内靖、前年ルーキーながら40試合に登板した久米勇紀、ベテランの水田章雄などが候補に挙げられていたが、オープン戦で11試合に登板し無失点を記録したルーキーの攝津がセットアッパーに指名される。攝津は安定した投球で幾度と無くピンチを救い、その地位を確立した。さらに新外国人のファルケンボーグが負け試合や大差がついたゲームに登板、開幕から交流戦まで自責点0という完璧なピッチングを見せ、馬原孝浩に繋ぐセットアッパー2枚看板が誕生した。 5月頃には、攝津→ファルケンボーグ→馬原のリレーが姉妹会社の「ソフトバンクモバイル」にあやかって「SBM」と呼ばれるようになり、6月には公式の名称として定着。不動の勝利の方程式となった。 しかしWBCの影響からか馬原孝浩の不調が明らかで、直球のシュート回転と制球難に苦しんでいた。SBMに次ぐリリーフ陣の中では水田が好投を見せていたものの、久米の戦線離脱、三瀬の不調などで本来勝ちゲームで投げるべきである攝津がビハインドや大差の展開でも登板するなど、SBMにかかる負担は大きくなっていった。 結果、夏場に肘を故障したファルケンボーグが帰国(終盤に復帰するも不調)、馬原も9月11日の楽天戦で鉄平にグランドスラムを打たれ6失点するなど安定を欠くようになる。チーム成績も降下し楽天に追い上げられ3位に終わった。 攝津はこの年パ・リーグ新人最多登板記録となる70試合に登板し、最優秀中継ぎ投手、新人王を獲得。ファルケンボーグもホールドで攝津に次ぐリーグ2位につけた。 選手登板勝利敗戦セ|ブホ|ルド勝率打者投球回被安打被本塁打与四球敬遠与死球奪三振暴投ボ|ク失点自責点防御率WHIP攝津正 70 5 2 0 34 .714 321 79.2 51 3 35 2 1 102 3 0 13 13 1.47 1.08 ファルケンボーグ 46 6 0 1 23 1.000 199 51.2 39 1 9 0 1 62 1 0 11 10 1.74 0.93 馬原孝浩 53 4 3 29 4 .571 253 58.1 58 5 19 0 2 67 5 0 21 14 2.16 1.32
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