Kung Fu Records期(1995-2002年)
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「アタリス」の記事における「Kung Fu Records期(1995-2002年)」の解説
1995年の結成当初、バンドはヴォーカル、作詞作曲、ギターを担当するクリストファー・ロウとギタリストのジェイソン・トーマソンしかいなかった。そしてドラマーを探しながら、彼らはロウの寝室で4曲入りのデモテープをドラムマシーンを用いて作成した。バンドに転機が訪れたのは1996年、ロウがオハイオ州シンシナティーでクラブボガートのショーに出席していた時だった。彼はバンドのデモテープの中の一つを地方公演マネージャーに渡し、そのデモテープはヴァンダルズのベーシストでもありKung Fu Recordsのオーナーでもあるジョー・エスカランテの手に渡った。その数週間後にKung Fu Recordsから連絡があり、たとえドラマーが不在だったとしても彼らの出すレコードに興味があるという旨を伝えられ、アタリスはKung Fu Recordsと契約した。そして、ラグワゴンのデリック・プロードをドラマーとして迎え、1997年4月29日にデビューアルバム"Anywhere but Here"をリリースした。 1997年6月、ロウはインディアナ州アンダーソンからカリフォルニア州サンタバーバラへと移り、その短い間マルコ・デサンティスがベースとして加入した。今までベースを勤めていたトーマソンはインディアナに残ることを決めバンドを脱退した。 その後アタリスは一度解散し、ロウは金欠に陥った為インディアナに戻ることも考えていたが、Dance Hall Crashers、Unwritten Lawとのツアーを控えていたためにサンタバーバラの友人であるマイク・ダヴェンポートをベースとしてバンドに迎え活動を続けることに決めた。ダヴェンポートは別のバンドのメンバーで友人のマルコ・ペーニャと小さなスタジオを共有しており、ペーニャのバンドのドラマーであるクリス・ナップについて話を聞き、彼らはすぐにでもアタリスに加入しないかとナップに頼み加入することとなった。さらにその後ペーニャも2人目のギタリストとして加入したが個人的な事情ですぐにバンドを去り、代わりにパトリック・ライリーが加入した。 そこからアタリスはツアー等の活動を通して安定感を増し、アンダーグラウンドシーンで人気を博していった。2枚目のEP"Blue Skies, Broken Hearts...Next 12 Exits"では幅広い賞賛は受けなかったが、3枚目のEP"Look Forward to Failure"により成功を収めた。その後、ライリーは学業に専念するためにバンドを脱退し、ペーニャが再びメンバーとして加わる。 2001年には3rdフルアルバム"End is Forever"をリリース。この時、持続的にツアーをこなしていたため収録された楽曲は短時間で作られたものが多かった。また、ロウはひどく風邪をこじらしてのレコーディングだったため、この作品について「半分も満足していない」と語った。
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